第3話

研究室には様々な人間が存在する。研究者として人工知能以外とのコミュニケーションを取らない者、厄介な世間話ばかりでセシリアを困らせる者、ヒイラギの様子をたまに確認しては自分の与えられた人工知能との違いをブツクサと揶揄する者。セシリアはそんな少人数体制の研究室の中でもマイケルだけは好印象と捉えていた。マイケルが研究室にやってくるのは大体8時前後。彼がくる前にヒイラギの不具合や研究を進め、マイケルと共同で成長させている人工知能の研究はその後に始める。

ヒイラギはそれを知っていて、冗談を言うようになってからはよく、「お似合いだと思います」とセシリアをからかう。

研究室に戻り、ヒイラギを元の機械に転送する。

「これでよし。誰も気付いていないから、始末書行きにはならなさそうね。でも今回の遠足で得たものは多いでしょうし、皆がくる前にその結果だけでもデータ化しておきましょう。」

セシリアは早速コンピュータを起動させて、カチカチとキーボードを打つ。音声入力が主流になった現代でキーボードを持つ人間は圧倒的に減ったが、話すことよりタイピングで打ち込むことが好きなセシリアにとって、タイピング音の鳴り響く早朝の研究室は心の静寂の時間で、キーボードだけが彼女の指に倣いながら音を立てる。この瞬間が好きだと、毎朝思いながら打ち込んでいる。今朝はデータを他の研究員に知られないよう、オフラインモードで昨日と今朝の流れをタイピングしていく。

「ヒイラギ、気付いたことや変化について教えて、主観でいいわ。」

ヒイラギが元の機械に戻ると、いつものように話し出した。

「今回の遠出では、アナログとして生きる人間の生活を垣間見ることで僕には知らない情報を得ることができました。例えば、書籍。実際に触ることはできませんでしたが、メガネを通して見る書籍は僕のデータにとって新しいものでした。資源を古来人間が有効活用していたのかと疑問に思う部分もありましたが、書棚に収まる本を見ていると気分が高まります。どの本にどんなことが書いてあるのか、要約されたページもありません。現在ならば要約で事足りる本をあのように並べられ、一冊一冊手にとって中身を見るという体験は人間の脳、感触に大きな影響を与えていたと考えられます。」

なるほど、とセシリアは思う。アナログ生活を好むあまり、他人の生活を気にしたことがなかった。

「それから、私生活を細部まで確認して気付いたことですが、セシリアは香水をよく使いますね。」

「それはどうでもいいわ、あなたには嗅覚がないし、私も昔は好きで集めていただけよ。ご覧の通り、一度も吹きかけないで研究所に来たでしょう」

「はい、お洒落には気を使わなくなったのでしょうね」

「余計なお世話よ」

笑いながらタイピングを進める。書籍の利用についてヒイラギが考察したこと、そして今回の遠足でよく言葉に出る”僕にはできない”がどのような感情を持ち合わせて発されている言葉なのか。

「それで?アナログ的生活を見てみて、あなたはどう思った?」

「そうですね、あの生活に憧れを抱きました。僕自身がハイテクノロジーですから、テクノロジーを極限利用しない生活を知りません。全自動コーヒーメーカーもないセシリアの家ではあなたが自分で豆を挽いてコーヒーメーカーに水と共にセッティングしていましたし、本もウォッチから流れる音声で聴くように読むわけではない。己の体を使って生活をしている人間に驚きがありました。インターネット上に存在する人間のほとんどは全自動掃除機、洗濯機、パーソナルロボットで家事は済ませますし、本棚など持っている人はいません。音楽も人工知能がその人に合った曲を作ります。でも、セシリアは違った。これは大きな発見でした。」

なるほど、と書き留める。

「あとは、代車を手配した際に喜んでいたセシリアは興味深い感情を持っているのだと観察しました。」

「と言うと?」

「セシリアは過去を回想していましたね。過去の体験を蘇らせるようなアイテムを導入することで人は一瞬当時に戻る。子供のような笑顔を見せたり、思い出を連想して過去に感情や思いを馳せる。これは僕にない情報です。」

タイピングを続け、感情と過去の結びつきについてセシリアなりに結果をまとめる。人工知能は体験をしなければならない。実際に出歩いてみることは不可能だとしても、人間のように過去のデータを記憶として持ち合わせることで生まれる感情があるということ、そしてそれは研究所内に納められた人工知能ヒイラギにとっては難しいということ。

「なるほど、ありがとう。また気になったことがあったら質問するから、その時は今のように教えてくれたら参考になるわ。」

「わかりました、それでは先日のバグについて解析を進めます。コンピューターに解析データを順次転送するので、それまでゆっくりしていてください。まだ朝は早いので。」

セシリアは優しい声で気遣うヒイラギに微笑みかけ、ありがとうと伝えると研究所の外に設置されたコーヒーブースへ向かう。

ヒイラギは外部からの刺激を考察しデータを作成することができる。他の人工知能のようにただ指令されたことをこなすだけでなく、思考力に長けた物でもある。感情をそこに乗せることで、人と差異のない人工知能として発表できるのは明白だ。しかしそれに戸惑う自身がいることをセシリアは考える。黒い液体がマグカップに注がれるのを見ながら、私が求めるものはなんだろうと自問した。

「おはようセシリア、今日も早いね」

マイケルの声だ。

「あら、マイケル、調子はどう?まだ8時前なのにどうしたの」

「いや、実は最近ヒイラギの調子が気になっていて、少し君と二人で観察しようと思って。君がいない間は何を聞いても答えてくれないからさ。」

マイケルが困ったように片方の眉を吊り上げる。

「そうなの、知らなかったわ。ヒイラギもどんどん個性、いいえ、思考力の性能が上がってきているから、ペットのように懐く人とそうでない人がいるのかもしれないわね」

「それがそうなんだよ。僕にはどうしても心を開いてくれないみたいだ。ヒイラギに心があるのかは未知だけどね。」

マイケルは注ぎ終えたコーヒーマグを持つセシリアを見ると、自分のマグを手にしてからコーヒーを入れる。

「昨日は一日休みだったからさ、君を誘おうと思っていたんだ。お互い一人だし、家族は遠方にいるから、よかったら一緒にディナーをと思ってね。」

「あら、今聞いたんなら遅いわね。昨日は一人でテンクスギビングのステレオタイプな料理を作って食べたわ。マイケルは?」

セシリアはほんの少し嘘をついたが、マイケルは気付かない。

「そうだね、僕はピザを注文して、新作映画を見たんだ。映画館があった頃が懐かしくなるよ。家のスクリーンでしか映画が見られなくなってからどうしても映画から遠のいてしまってね。」

人々が核家族化し、各々の家庭に大きなスクリーンを構える時代になってから映画館という存在は消えてしまった。映画館のスクリーンと同等のものが家にあり、音響も伴えば映画館はビジネスとして成り立たなくなる。未だにその形を残す映画館は地方に存在するが、彼らの生活地区にはない。

「そうね、映画館、私大好きだったのに。入った途端、ポップコーンの香りがするでしょう。あれだけでワクワクしていたわ。映画好きになったのも、ポップコーンを食べにいくために映画館へ通うようになったからなの。」

マイケルは青い瞳をセシリアに向けながら微笑む。

「君はちょっと不思議だよな。今もアナログ的生活を好むし、レコードも聴く。映画館へポップコーンを目的に足を運ぶ人間なんて、これまた聞いたことがないよ」

「私はそうなのよ。自分の感覚をテクノロジーに任せたくないし、そのせいで消えてしまう五感が勿体なくて。」

そんな人が何故研究者に、なんて質問は無用だ。マイケルは旧知の仲であるし、彼女の家に訪れたこともある。

「でもこうして同じ研究をしていることで、そんなちょっと変わった人と友人になれた。ここに配属されて良かったとたまに思うよ」

マイケルがそう言いながら注ぎ終わった音の鳴るコーヒーマシンからマグを取り上げると、

「それなら、早速ヒイラギに挨拶へ行こうか」

とセシリアを促す。

「そうね、彼、凄まじいスピードで成長したわよ」

昨晩のことは内緒にしておきながら言った。二人はコーヒーエリアから出て、研究室のドアを開ける。広々とした無機質な部屋は五つのエリアに無造作に区切られていて、右端の一区画がヒイラギとセシリアのデスクだ。マイケルのデスクはその仕切りの隣にあり、目の前にはまた別の人工知能が搭載されているマシンが置いてある。ヒイラギの成長スピードに合わせ、四つの完成した人工知能に与える仕事を振り分けていく。研究者はその倫理専門として、人工知能の落とし穴を日々探しては修復するのだ。

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