第2話 世界一のクレーマー

        *


 言うまでもないことだが、今日ほどの経験は記憶にない。よりにもよって、世界的にも恐れられるクレーマーの私がこのような仕打ちをされることなど、本来はあってはならないこと。

 今、なぜか、不法侵入しておきながら、テーブルに座る女のために私が2日前に焙煎したコーヒーをドリップすること自体がありえない。あまりにも大胆不敵過ぎてどうすれば良いのか。キャリアの中で洗練されたクレームマニュアルを持ってしても対応は困難である。

 クレームというのはいわゆる理詰めなのだ。論理的に言い負かしてなんぼの世界。相手の反論の余地をなくして、改善させて有効な条件を引き出す。これこそがクレームの醍醐味だ。

(それが通用しない)

 この女はとにかく話が通じない。

「これを飲んで落ち着いたら帰ってほしい」

 女の目の前にコーヒーを置いた。

 普通はこのように催促したら、イエスかノー。そこから理由付けするのが普通だ。しかしこの女は違う。

「まあ、ウェッジウッドのコーヒーカップ。私にはとてもじゃありません。高価で買えませんから」

 いや、なんだ。突然語り出した?

「女手一つで育ててきたのが大切な娘です」

「え? はあ……」

「暮らしも裕福ではありません。寿司や焼肉はせいぜい年に数回、贅沢もしません。ただ、それで良いんです」

「はあ、そうかもしれないが」

「私にとって娘がいることが生き甲斐で何よりの幸せなんですよ」

 このように会話の流れが明らかにおかしい。突拍子もない切り出しから一気にねじ曲げて感情論に訴えてくる。

 まるで超変則ファイターと対峙しているかのようだ。リングの上で相手の動きを読んでパンチをかわそうとするが、気がつくと不可解な動きに惑わされてコーナーに追い詰められている。それもそのはず、相手はグローブをつけていない。両手にはムチを持っている。何でもありなのだ。

 この女は話が通用しない。そう理解して、同時に伝えた。

「本来はこういうことはしたくない。言って聞かせるのがポリシーなのだが」

 スマホを取り出した。警察に連絡するしかあるまい。

「なるほど、通報するということですか」

 指を止める。見上げると彼女は笑っている。

「この本で言ってたことは嘘ですか?」

『私がクレームをするときは本社に乗り込む。たとえ何度受け付けで弾かれようと、逃げない。最後まで諦めない』

 その文面を見たときに止まった。数年前に書いた書籍だ。駆け出しのクレーマー時代。確かにあの頃はそうだった。いつからか、私は情熱を失い、計算をするようになった。

 女は立ち上がった。

「残念ながら見込み違いだったようね。私は世界有数のクレーマーに頼みにきたの」

 蔑むような視線で首を横に振る。

「でも、今目の前にいるのは牙の抜けた三流クレーマー。もう、要はないわ」

 直立して動けない私の横を女は通り過ぎた。

(牙の抜けた三流クレーマー)

 後ろに振り返ると、玄関でハイヒールを履く女の後ろ姿が見える。

「確かに、そうだ。おれは世界有数のクレーマーではない」

 ゆっくりと歩く。

 振り返る女と向き合う。女の顎を指で持ち上げた。

「世界一のクレーマーだ」

 磨き上げた皮靴を履く。この靴を履くときは勝負のときと決めている。

「覚えとけ」

「えっ」 

 ドアを開くと眩しい光が差し込む。

「急げ、学校に乗り込むぞ」

 女は微笑んだ。

「そうこなくっちゃね」

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世界的なクレーマー、学校に乗り込む! 18世紀の弟子 @guyery65gte7i

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