第10話
やはり、ケネスにするべきか。しかし、ケネスまで死んだらもうランブリー伯爵家に顔向けできない。ラモンなど争いが起きればすぐ殺されそうだ。では、ナイルだろうか。ナイルなら自衛できる。
想像しただけでうまく息が吸えない。
ハーレムの廊下を歩いていると、前から誰かが歩いて来た。
「陛下」
稽古を終えたらしきナイルだった。今日はいつもより時間が遅い。
「こんなに遅くまで稽古をしていたのか」
「日が長くなりましたのでつい」
はにかんだような笑いを浮かべてナイルはアイラの前で立ち止まった。
決して裏切らない、アイラを守るために騎士人生を棒に振った男を見て先ほどまでの考えをアイラは恥じた。
「どうかなさいましたか。お疲れですか」
「例の暗殺者が捕まったと帝国から知らせが来た」
「あぁ、さすがは帝国ですね。陛下は嬉しくないのですか?」
ナイルは感心したように口にするが、アイラの顔を見て首をかしげた。
「あの暗殺者の被害者がこれ以上いなくなることは良かったと思っている」
「何かお怒りのようですね。どなたですか、本日陛下をこれほど怒らせたのは。最近煩いスペンサー伯爵ですか?」
そういった情報には疎いと思っていたナイルが、アイラの来た道に視線をやって予測をしたようだ。彼も側室になって変わった。情報戦よりも武芸に重きを置いていたのに。
「スペンサー伯爵やルチェラ侯爵ではない」
「左様でございますか」
ナイルは少しの間考えていたが、分からなかったようだ。
「陛下。王配を決めても、私のところに会いに来ていただけますか?」
「そなたは私の夫だろう。当たり前だ。それとも、王配を決めながら三人の側室を持つ女王は嫌いか」
「私にとって陛下はすべてです。出会ってからずっと。それに歴代国王に認められたことが、女性であるというだけで陛下に認められないのはおかしいでしょう。王配殿下が不妊かもしれませんから側室はいた方がいいですよ。王配とのお子様が病弱かもしれませんし」
ナイルはアイラの手を取って口付けた。躊躇いのない流れるような動作で、アイラはすぐに反応できなかった。
「歴代の女性の側室たちが乗り越えてきた苦しみと悲しみです。私たちも耐えるでしょう」
「……そなたが、昔から私を見ていたとは知らなかった」
「騎士だった頃は陛下に好意を伝えることも、こうして触れることも叶いませんでした。今は国民としてでなく、夫として陛下を愛して愛されるので幸せです。嫉妬ももちろんしますけれど」
アイラはもう片手で高い位置にあるナイルの頬を撫でた。ナイルは微笑むと、アイラの指をぺろりと舐める。
「これからどちらへ?」
「レジェスのところだ」
「あぁ、レジェス様が暗殺者の件を皇太子殿下に頼んでいましたからね。彼の功績でしょう」
指を一瞬口に含まれて動揺して答えてしまったアイラはまた胸が苦しくなって、視線を落とした。
「陛下を怒らせた犯人がやっと分かりました」
ナイルはようやくアイラの手を口元から下げた。
「どなたが王配になったとしても。どなたかが陛下にそんな顔をさせるなら私が殺して差し上げます。あの暗殺者は無理ですが、側室の皆さまくらいならまだ私の実力でいけますよ」
顔を上げると、いつも通り生真面目な表情のナイルがいた。
きっとナイルは本気だろう。アイラはそんな生真面目な彼に微笑んだ。
ナイルはまたはにかんだように笑うと、アイラの手を一度握ってから去って行った。
ナイルの背中を見送ってからレジェスの部屋の扉を勝手に開ける。出窓に座っていたレジェスが振り返った。
「陛下? どうされましたか?」
彼は駆け寄って来てアイラの手を握る。やはり彼の手は温かかった。
「今日はお越しにならないのかと思っていました」
いつも通りヘラヘラ笑いながら、レジェスはアイラをソファに座らせる。一夜を過ごしてもレジェスの態度は以前と全く変わらなかった。それに毒気を抜かれかけたが、アイラは気を引き締めた。
「なぜ母親の形見を手放してまであの暗殺者を追跡させた」
「私にはあの指輪は必要ありませんでしたので」
どうでもいいゴミでも捨てたようにレジェスは最初話したが、アイラの厳しい視線を受けて余計にへラリと笑った。
「ケネス様に一度盗まれて人工池の底から手元に戻ってきたものですよ? 呪われていたら嫌ではありませんか。売ったのにまた戻ってくるかもしれません」
茶化して両手で体を抱いて震える真似をするレジェスにアイラは腹が立った。もっと恩着せがましく言ってくれれば良かったのに。それを盾に「王配にしろ」だの「恩恵を」だの言われた方がまだ気が楽だ。
「もしかして陛下。あの指輪をお求めでしたか? 仰っていただければすぐ差し出しましたのに。申し訳ございません」
「違う」
「そうですね。陛下はあれよりも立派な宝石をたくさんお持ちでしょう」
「私はそなたが形見を売ることなど望んでいなかった。そなたはまた私を裏切った」
そう言いながら、アイラはレジェスの指を見た。彼の左手薬指には側室の誓約式の時にアイラが一人ずつに嵌めた指輪が存在している。これまで意識したことなどなかったが、まるで枷だ。
「あれは私の物なので、売るのは私の勝手ではありませんか?」
「暗殺者の追跡に売った金を使ったのだろう。そして今日知らせが来た。あの暗殺者は皇太子によって帝国で捕まった」
「それは良かったです」
レジェスの能天気な返事に唇を噛んだ。しばらく沈黙が流れる。その間に侍従がお茶を持ってきて、レジェスが入り口で受け取るという動作があった。目の前にカップが置かれてもアイラは手をつけずに黙っていた。
カチャカチャといった音が消えて、外の虫の声くらいしか聞こえない。
「陛下は私のことばかり考えていらっしゃいます。陛下は私に恋をしてしまったようですね」
アイラが睨むと、レジェスは笑っていた。
「私はそなたのことが嫌いだ」
「ナイル様ほど陛下を観察し続けているわけではないですが、それは嘘だと分かりますよ。私のガラスの如きハートは嘘でも傷つきましたが」
レジェスが距離を詰めてきたので、アイラはソファの端に逃げた。結局端で追い詰められる。
「私のことがお嫌いなら、どうしてあの日陛下は私と夜を過ごしたのですか」
「私が夫とどう過ごそうが、理由がいるのか。そなたが私の夫だからだろう」
レジェスの手がアイラの髪をいじった。
「でも、陛下は他の方とそのように過ごされていません」
「これから過ごす。ヒューバートの件が終わったからだ」
レジェスはアイラがソファから立ち上がらないように腕をついて阻んでいる。そのまま彼は黙った。赤毛がアイラの方に落ちてくるが退くように命令はせず、レジェスを見つめた。熱を帯びたオレンジの目がアイラを見つめ返してくる。
その熱に一生気付きたくなかった。アイラを見る、ヒューバートよりも熱の籠ったその目に。夕焼けという可愛いものではない。
「そなたは母親の形見を売ってまで私に媚びる必要はなかった。あの暗殺者を野放しにしても良かった」
「あれを野放しにするのは、陛下がバカにされているようで我慢できませんでした。あれは私の勝手でワガママです」
「結局、皇太子に土産を差し出したようなものだ」
「どうせあれは帝国に行ったのですからいいでしょう。ルドから感謝されて国同士はより強固な結びつきになるでしょうね」
息がかかりそうな距離でひりつく会話をする。
もう少し近付けばすぐに触れてしまえそうなのに、その距離は遠い。
「そなたといるとイライラする」
「光栄です」
イライラして後悔して、胸が潰れそうに苦しくなる。
これでは父のことを笑えない。側室との愛に溺れ、アイラに尻ぬぐいをさせたあの父を。
「そなたは私を愛していない」
「愛しています」
「可愛いひな鳥として一番にして欲しいだけだろう」
「ひな鳥はこの前卒業しましたよ」
「……私はきっと近い将来、そなたを愛するだろう」
レジェスから視線をそらしたので反応は分からない。痛いくらいの沈黙がまた訪れる。
「そして弱くなる。弱い女王など国民には害悪だ。もし、そなたがヒューバートのように死ねば私はもう生きていたくなどないだろう。だから、そなたをハーレムに入れるのではなかった。その赤毛を覚えてさえいなければ。そなたの家のつまらない長男にしておけば良かった。そうすれば、私はまた愛に振り回されることなどなかった」
アイラの声はかすれてしまった。
そっと目元をレジェスの指が拭う。いつの間にか泣いていたようだ。
「私が病気になったら、哀れなひな鳥のように陛下に構って欲しいと縋るでしょう」
「ひな鳥は卒業したのではなかったのか」
レジェスはアイラの目元を拭い続けながら笑った。
「陛下は私の前では泣き虫でいらっしゃいますね」
「それほど私は泣いていない」
「私以外の男の前で泣いてはいけません。温室でもお伝えしたはずです。陛下の痛みはすべて私が受け取ります、と」
アイラの目元の涙にレジェスは口付けた。
「ヒューバートよりも愛することなどできないと思っていた」
「陛下は安心して国民と私を愛してください」
軽い気持ちで側に置いたヘラヘラした赤毛の男の存在感がこれほど大きくなるなんて、アイラでさえ分かっていなかった。側室同士で勝手に争って目くらましになり、アイラを煩わせなければ誰でも良かったはずなのに。
遠いと感じた距離を詰めて、アイラはレジェスの温かさに縋りついた。
「レジェス。そなたを王配にする」
「はい」
「他の三人は側室のままだ」
「彼らはとても面白い方なのでいいですね。ヒューバート様の件で皆協力しましたし、他人とも思えません。ラモン様には仕事をさせて、ケネス様とナイル様には子育てをしていただきましょう」
レジェスが耳元で話すのでくすぐったくてアイラは身をよじった。
「ところで、陛下はいつ私に口付けを下さるのでしょうか。こんなにイイ男が目の前にいて陛下に料理されるのを待っているのに」
「私は料理などしない。なにせ女王だからな」
レジェスの赤毛をくしゃくしゃに乱して、アイラは口付けた。
そしてその一か月後には、戴冠式でその赤毛の上に冠を載せた。
「そなたの明るさと愛がブライトエント王国の未来であるように」
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