第7話
レジェスには夕方頃に温室に来るように言われていた。それまではダラダラと眠って読書をして早めの夕食を済ませる。
「まさか全部準備したのか」
「はい。だって、せっかくの離宮での最終日ですから」
実兄とよく来た温室にはキャンドルが一定間隔で並べられていた。炎が揺らめいて花を幻想的に照らしている。
レジェスは温室に入って来たアイラをすぐにエスコートして、花々の間を歩き始めた。
「驚いたな」
「いくらくじ引きで陛下と過ごす順番を決めたといっても、もうほとんどの娯楽はやり尽くしたでしょう?」
「そなたは才能がある」
陽が沈む前、暗闇が迫って来る前の絶妙なほの暗い明るさの中で見る花々は日中とは違った印象だ。アイラは花を贈られるのは好きではないが、こうやって植わっているのを見るのは嫌いではなかった。
「安心しました。陛下は花がお嫌いかと」
「いや、ここはよく兄と来た思い出の場所だ。それに、贈られるのが嫌いなだけでこうやって土に植えてあるのは良い。わざわざこうやって綺麗に咲いているのに摘み取るなど可哀想だ」
夜に温室に来たことなどなかった。幻想的な風景に心が少しばかり踊る。しばらくレジェスと腕を組んで歩き、他愛もない話に興じる。
ハーレムにはない白いバラが見えて、思わず足を止めた。もちろん、レジェスの足も一緒に止まる。
「陛下」
彼に視線を向けると手が腰に回った。
「どうした」
「踊りませんか」
「ここで? 音楽もないのに?」
「即位の祝賀パーティーの時の陛下はずっと怒っていらっしゃったので」
「それはそなたが大切なことを言わなかったからだ」
レジェスはいつも通り笑いながら、アイラの腰を引き寄せて何度かその場で回った。アイラもつられて動く。
「こうしていれば、白いバラを見た時は私のことも思い出すでしょう?」
目が回りかけたところで動きが止まる。
ふらついてレジェスの胸に頭を預けた。彼はいつも通り布切れしか着ていないので、温かい肌に頬が当たる。
「それならもう少し布の多い服を着るように」
「時と場所は弁えて着ています」
「目のやり場に困る」
「ラモン様にもそう言われました」
レジェスは何か思い出したのかクスクス笑う。
「ラモンは人を笑わせる才能があるのだな」
「ラモン様は陛下よりも顔を赤らめますからね。湖で釣りをしていて濡れたので脱いだら……」
なんとなくラモンの反応が分かり、アイラも笑う。
あれは本当に純粋な男だ。最も頭でっかちで面倒だと思っていた男が、まさか一番純粋だったとは。
二人で笑った後でレジェスの指は下ろしているアイラの髪をするすると弄ぶが、急に動きを止めた。
「これはどなたが?」
「何のことだ?」
「これです」
レジェスの指がアイラの首筋を撫でた。その感触に体が震えそうになる。
「レジェス。先ほどから距離が近い」
「申し訳ございません」
「虫刺されだろう」
温かさを奪うように引っ付いていたレジェスの体を押して少し距離を取った。首筋の一部が赤くなっているのはナイルのせいだ。髪をおろして隠していたのにレジェスは見つけてしまった。彼のオレンジの目が面白がるように細められる。
「その方が哀れですね。虫扱いとは」
「温室にだって虫はいるだろう。その虫のせいだ」
「いいえ? 昼から頑張ってハエなど飛び回るものはすべて捕まえました。毛虫やアリはいるかもしれませんが、羽虫はおりません」
「そんなことをしていたのか」
「ロマンチックには努力が必要です。この状況でハエの羽音は聞きたくないではないですか」
相変わらず、レジェスの視線はアイラの首筋に向かっている。
「私も虫になればいいのでしょうか」
「何が言いたい」
「そうすれば陛下の首筋に噛みついても文句を言われませんから」
「文句は言う。そして叩き落とすかもしれない」
「試してみてもいいですか」
腰に添えられていたレジェスの手にわずかに力がこもる。アイラは何も言わずに目を伏せた。
レジェスの顔が近付いて来た。そして、ナイルが跡をつけた首筋にざらついた感触。しばらく温かい感覚が続いて、急にまたちりっとした痛みが走った。アイラの手はいつの間にか強くレジェスの服を掴んでいた。
「虫刺されの消毒です」
「随分とねちっこい消毒だ」
「他に虫刺されはないですか」
「ない」
「念のために調べましょうか?」
アイラの肩に顎を乗せたまま、レジェスは軽々しく甘美な誘いをかけてくる。彼は赤毛の悪魔だったのかもしれない。
口付けなど一度でもするのではなかった。一度許してしまえばそのままなし崩しに関係が進んでしまうかもしれない。ヒューバートの件で人生に投げやりになって温かさを求めた結果がこれか。
「そなたをハーレムに入れるのではなかった」
ヒューバートと一つも似たところがない男を入れたはずだった。彼からヒューバートを思い出すことはなかったが、なぜレジェスにだけはこう思ってしまうのか。
察し過ぎるからか、アイラの心に入ってきすぎるからか。
あの暗殺者を捕まえた日から三日間もなぜこの男のところに自分は行ったのか分からない。分かりたくもない。そんな弱弱しい女王アイラを許せない。
「奇遇ですね、私もハーレムに入らなければ良かったと考えていました」
「では、出て行くか?」
予想外のレジェスの答えに思ったよりも突き放すような声が出た。これではまるで、アイラが縋っているようだ。
この前までヒューバートを愛して嘆き悲しんでいたのに、他の男からの愛も求めるなど最低だ。それがハーレムであったとしても。
レジェスはそんな発言をしておきながら、今度はアイラの反対側の首筋に唇を寄せる。
「ハーレムを出て陛下を裏切れたら、どんなに良かったでしょう」
レジェスの息が首筋にかかって、思わず彼の服を掴む手に力が入った。
「私を裏切るのか」
「陛下を裏切ってしまえば、この瞬間が永遠に続いて欲しいと思わなくて済むのですから」
アイラのことを抱きすくめて、首筋に唇が這う。
「レジェスが求めているのは私なのか。それとも女王なのか」
「どちらもです。だって陛下は陛下なのですから」
「私はそなたが思うような立派な女王ではない。ヒューバートの死からまだ立ち直れない愚かな弱い女王だ」
「陛下が受け取り切れない痛みは、私が代わりにすべて受け取るので大丈夫です」
アイラはレジェスがいるのとは反対側に首を傾けながら、炎が揺らめく中にある白いバラを眺めた。
とっくに日は暮れて外は暗くなっている。
もう一度、アイラは目の前の男をハーレムに入れたことを深く心の底から後悔した。
プラトン公爵がヒューバートを殺した犯人であれば良かったのに。そうすれば、簡単にこの男を心から追い出せた。こんなに弱弱しく温かさを求めて、ヒューバート以外に心を向けてしまう自分に気付くこともなかった。
「こんなに愛することが怖いとは知りませんでした。陛下を失うのも、陛下に裏切られるのも呆れられるのも全部が怖いのです」
アイラにとってそれはあまりに慣れ親しんだ正常な感覚だった。ラモンでその感覚が狂わされそうになったが、ヒューバートが死んでからアイラはずっとこうだ。愛というのは眩しくて切なくて、とても恐ろしい。一度経験して失えば、もう二度と経験したくない。
「明日が来なければいいと思っているか?」
「はい」
「こんな思いをするくらいなら、愛など知らなければ良かったと思わないか」
「はい」
「奇遇だな、私も同じだ」
レジェスはやっと首筋から離れてアイラの顔を覗き込んだ。アイラも布切れから手を放して、レジェスの頬に手を伸ばす。
「陛下の可愛いひな鳥をやめてもいいですか」
「やめて何になるのだ? 虫か? 王配か?」
「陛下の本当の夫になりたいです」
彼の赤毛を撫でてから首の後ろに手を回す。
再び後悔するだろうと分かっていた。それでも、アイラはレジェスに自分からまた口付けをした。
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