第七章 王配の座

第1話

「陛下?」


 アイラの入って来た物音に気付いてレジェスは慌てて立ち上がる。


「どうされましたか」


 レジェスのその言葉が終わる前に、アイラはたまらなくなって彼の腰に抱き着いた。持っていた毛布は床に滑り落ちる。


 もう一度戸惑った声で「陛下」と声が降ってくるがアイラは無視した。疲れ果てて答える気分ではなかった。今日という今日は彼に察して欲しかった。彼なら察してくれるという確信があった。


 そして、案の定レジェスは察してくれた。アイラの手を包みこみながらソファに促して座る。レジェスが座ってもアイラは腰に抱き着いたままだった。


 レジェスの手がアイラの頭を優しく撫でる。


「今日はいらっしゃらないのかと思っていました」

「髪紐を外してくれ」


 これは会話ですらない。くぐもった声で言うと、髪の毛が慎重に引っ張られる感触がある。髪紐が外されて頭が引っ張られる感覚がなくなった。思わず息を吐いた。


 しばらく経ってから、抱き着いていた手を放してアイラはレジェスの顔が見えるように体の向きを変えた。彼は何も聞かずにアイラの髪を梳き続けている。


 レジェスは感情の起伏が少ない男だ。いつもヘラヘラしていて感情が読みづらい。

 放蕩いや放浪息子だと聞いていたが、おそらく彼は賢いのだろう。正直、本を読み漁っているラモンよりもレジェスは賢い。アイラはその賢さが何よりも恐ろしかった。


 勝手なものだ。その賢さで察して欲しいと願いながら、それが叶うと恐れるのだから。

 その賢さでいつアイラの足をすくうか分からない。レジェスに少しでも寄りかかるなどアイラにとっては自殺行為だ。


 でも、それさえも今はどうでも良かった。


 この件がプラトン公爵に伝わって、アイラの弱みが握られて公爵が大きな顔をするようになっても。もうどうでもいい。だって、ヒューバートはもういないのだから。


 アイラが愛し、そしてアイラのことを傷つけたヒューバートはもういない。犯人さえいなかった。さっき人工池でアイラは死んでも良かった。あの浅さなら無理なのは分かっている。

 今からでもあの暗殺者を呼び寄せて同じように殺してもらおうか。そうすれば楽になる。アイラが死んだら、このハーレムにいる男たちは何人本気で悲しんでくれるだろうか。そんなことを考えるくらいには疲れている。


 しかし、アイラは約束してしまった。ケネスには死ぬなと命じ、ナイルには覚えておくと言ってしまった。ラモンにも毛布を返さねばならない。


 アイラはレジェスの服を掴んだ。服というか彼の場合は素肌がよく見えるので布切れの方が近い。

 髪の中に潜っているレジェスの手の動きが止まったが、構わずに服を掴んでそのままレジェスを引き寄せた。

 オレンジの目が驚きを孕んで近付いてくる。というかアイラが無理矢理近付けて、唇に噛みついた。


「んっ、陛下」


 何度かキスを繰り返す合間にレジェスの気だるい声が耳に響く。何度目かでアイラは服を掴んでいた手の力を緩めた。しばらく至近距離でオレンジの目と見つめ合う。


 綺麗な色だと思う。この鮮やかな夕焼けは。宝石を綺麗だと思う感覚に似ているはずだ。決してそれ以上ではない。


 ずっとその時間が続くのかと思われたがレジェスはアイラの体を難なく抱き上げる。急に襲ってきた浮遊感に心もとなくなって、アイラは足をレジェスの体に巻きつけた。


「陛下」


 レジェスはアイラを抱いたまま移動してベッドに腰掛けた。アイラはレジェスの上に乗るような格好になっている。レジェスがアイラの腰を抱いていなければ落ちてしまいそうなほど不安定な格好だ。


「陛下。必ず私のところに来てください」

「今来ているではないか」


 掠れた声が自分の喉から出る。不安定な姿勢が嫌で、彼の首の後ろに手を回した。


「陛下が落ち込んだ時は必ず私のところに来てください」

「落ち込んでなどいない」


 すべてがどうでもいいだけだ。落ち込むというような軽いものではない。


「陛下が来てくださらないと、私が落ち込みます」


 じっと見上げられる。アイラは首に回していた片手をレジェスの目元に移動させた。


「そなたは温かくて安心する」

「では、約束通り陛下の抱き枕になりましょう。足枕でもいいです」


 やはり、今朝のあれは約束だったのか。

 疲れたようにアイラが息を吐くと、レジェスはアイラを抱いたままベッドに転がった。


「もう今日は、いくら私が可愛いひな鳥でも口付けをしてはいけませんよ」

「なぜ? そなたは私の可愛いひな鳥なのに」

「陛下が傷ついているからです。明日には私に口付けしたことを後悔します」

「すでに自分の人生に盛大なる後悔をしているところだ」


 寝そべりながら片肘をついて、レジェスはアイラに気だるげな視線を寄越す。

 深夜にこんな面倒な女を迎え入れて相手をしなくてはいけないとは、側室とは難儀なものだ。しかし、彼の視線からはアイラを迷惑がる色など微塵も見えない。


「私が最初に会った時から、陛下は死にたそうな顔をしていらっしゃいました」

「そんなことをそなたは言っていたな」

「陛下はそれを今やっと自覚されたように思います」

「そなたのように察しの良い男は嫌いだ」


 そうだった、この男は。最初からずかずかとアイラの心の一番柔らかい部分に踏み入って来た。あの時はレジェスをいくら害してもいいと思っていたのに。なぜ今は疲れ果てているのにこの男の部屋に来て、恋人か夫のような距離で見つめ合っているのか。


 寝そべったまま、レジェスの頬に手を這わす。


「陛下には察しの良い温かい男が必要です。こんなに冷えていらっしゃる」

「私は、もう疲れた」


 誰の前でも口にしなかったことをアイラは零してしまった。


「では、逃げますか? 陛下に案内したい美しい場所がたくさんあります。一緒に逃げましょう」

「帝国以外で?」

「もちろん、帝国以外で」


 レジェスの頬から唇に指を這わすと、レジェスは両手でアイラの手を包み込んだ。


「私が女王でなければ良かったのだろうな」

「私は陛下が陛下でなければ出会いませんでした」


 レジェスの手からじんわり温かい体温が伝わってくる。


「眠れない時は明日以降も来てもいいのか」

「私は陛下の男ですよ。許可など必要ありません。毎日、毎晩陛下だけを想って待っています」

「あぁ、そうだな。そなたは私の男だ。離婚しない限り一生」


 脈絡のない会話でも、レジェスは即座に言葉を返してくる。

 アイラは今日やっと、自分の心臓が静かに鼓動しているのを感じた。レジェスの手から温かさが吹き込まれたようだった。


 感謝を口にするべきだろう。だが、アイラの口は重く開かなかった。


 今口を開いてしまえば、ヒューバートへの愛が愛ではなかったと認めてしまう気がして黙って温かさに縋るしかなかった。


 彼の体に自身の体をくっつけながら、アイラは再度レジェスをハーレムに入れたことを後悔した。彼の存在はいつの間にか大きくなりすぎた。もっとどうでもいい、察しの悪い明るい男を入れるべきだった。

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