第10話

 ケネスの部屋を出た後、アイラは自然とハーレムの人工池に向かっていた。


 疲れた。気を抜いたら途中で地面にへたりこみそうなほどに。しかし、王族として生まれた時から叩き込まれた矜持が背筋を伸ばす。


 今夜もレジェスのところに行くと約束したのだったか、していないのだったか。

 朝のことなどもう忘れてしまった。薄情な女王だな。


 とりあえず、これでケネスが自害するようなことはないだろう。監視は必要で、食事を無理矢理とらせなければいけないだろうが。

 きっと彼の方がアイラよりも辛いはずだ。

 アイラよりも多くの秘密を知っていた。そしてそれを隠そうとして、昨日全部無駄になった。生きてきた最大の意味がなくなった。


 小さな石を拾って池に投げる。波紋が水面に広がるのを黙って見つめた。このくらい物事と感情が簡単であればいいのに。


 自然と明日の仕事の段取りを頭の片隅で考え始めている自分に気付いてアイラは苦笑した。


「ルキウスを殺さなければ良かったな」


 アイラがしている仕事はたくさんある。しかし、アイラがいなくても何とか回るだろう。ナタリアを筆頭に秘書官たちと大臣たちがしばらく頑張るはずだ。新しい王を決めるまで。


 もう、すべてがどうでもいい。

他の異母兄弟に奪われるのが嫌だったはずの王位でさえも。こんな王位くらいルキウスにくれてやっても良かったでないか。何にそんなにしがみついていたのか。アイラが女王にならなければ、ヒューバートは病気でも今でも生きていた。


 伯爵家に降嫁していればヒューバートは死んでいなかった。

 では、どこからアイラは間違ったのか。ハーレムを作ったことだろうか。それとも異母兄ルキウスを幽閉して死に追いやったことか。そもそも元王太子だった兄が死んだことからなのか。


 どこから自分が間違ったのかアイラには分からなかった。

 ヒューバートがアイラにつけた傷にのみこまれて死んでしまいたかった。



 またも人工池のほとりで眠り込んでいたようだ。自分の図太さが嫌になる。眠れないほど悩んでいないということだろうか。こんな状況でくーくー眠れるなんて。


 どうせまたレジェスの部屋だろうと思ったが、目に入って来る壁紙の色が違う。


「お目覚めですか」


 窓辺に座って剣の手入れをしていたのはナイルだった。暗がりに彼の白っぽい金色の髪が不気味に浮かび上がる。


「ナイルか。手間をかけたな」


 起き上がると、見慣れない高級そうなつるつるした毛布が体から滑り落ちた。この毛布は奇妙なほどこの部屋には似合わない。


「ラモン様が陛下にかけていらっしゃいましたよ」

「そうか」


 ラモンは昨日からマントやら毛布の運搬係になったようだ。こんなことばかりしていては彼の部屋からマントと毛布がなくなってしまう。


「部屋に戻られますか? 私はソファで寝ますからこちらにいらっしゃっても大丈夫です」

「戻ろう。邪魔をした」

「いえ。陛下のお心のままに」


 仕事を早く切り上げてケネスと話していたので、まだ日付が変わるほど遅い時間ではなかった。毛布をたたんで侍女に後で洗濯を頼むために両手で持つ。


「お見送りを」

「いや、いい。仕事について少し考えたい」


 ナイルの申し出を断ると、彼は扉の前で少し迷った様子だった。


「ナイル?」


 呼びかけると、彼は重々しく口を開いた。


「白いバラの件を調べたら、私に恩恵をくださいませんかと以前申しました」

「どうした、急に」


 さすがにアイラも昨日からのことで疲れ果てていた。ナイルは今日恩恵をと言うような男ではないと思っていたが、何事だろうか。


「あの願いを変えてもよろしいでしょうか」

「あ、あぁ」


 ナイルの深刻そうな声と表情に思わず頷いた。まさか、王配にしろとでも言うのだろうか。


「では、どうか思い出してください。陛下が死にたくなった時に。陛下のために命を懸けてもいいという私のような人間がいることを」


 思わず、ナイルを凝視した。彼はいつもより深刻な表情だが騎士だった時と同じような立ち姿で立っている。ナイルは口下手だが本心しか言わない。これは決して冗談ではないはず。


「……分かった。覚えておく」


 動揺しながらアイラは何とか返事をした。


 死ぬ時に一緒に殺してくれなんて頼まれたわけではない。思い出してほしいという健気な願いだった。それ故に断れなかった。

 ただ、ナイルに心の中をわずかでも見抜かれた気がした。空気に耐えきれずにアイラはそのまま何も告げずにナイルの部屋を出た。背中に一瞬強い視線を感じたもののすぐに扉の閉まる音が響く。


 ハーレムを作ったことをアイラは今ほど後悔したことはない。戴冠式の時はこれが最善の策だと思っていたのに。

 ヒューバートは病を得て、幾度の夜を過ごしたのだろう。この暗い夜に何を考えたのだろう。

アイラだってハーレムを作って、ヒューバートではない男たちと共に過ごした。


 そして、ナイルに見抜かれた。

 騎士として長く付き合いのあった男をハーレムに入れたのは失敗だった。ケネスに死ぬことを禁じたその口で死にたいという言葉が零れないように必死になっていることを、ナイルには見抜かれた。


 毛布をぐっと掴む。スペンサー伯爵の商会で扱っている最高級品であろうそれはきちんと掴めずにサラサラと指から零れそうになる。


 ふらふら歩いて、アイラはいつの間にかレジェスの部屋の前に来ていた。扉の前でハタと我に返る。なぜケネスと話をしてナイルに運ばれ、その後レジェスの元に来たのか自分でも分からなかった。ナイルがあんなことを言い出す前までは、朝の約束の有無など気にせずに自分の部屋に戻るつもりだった。


 引き返そうかと思ったが、足音でレジェスの侍従が顔をのぞかせてしまった。扉を開けてもらい部屋に入ると、レジェスは夜遅いのにソファで本を読んでいた。

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