第9話

 アイラは何とか集中して朝と昼の会議を終え、仕事をいつもより早く切り上げてケネスのところに向かった。ナタリアはそんなアイラに何も聞かなかった。


 彼は眠れなかったようで酷く憔悴した顔だった。


「私の顔を陛下はもう見たくもないのでは?」

「そなたの口からもきちんと聞かなければならないと思ってな。昨日は私も余裕がなかった」


 傷口からは鮮血が吹き出している。でも、それが塞がるまで待っていられなかった。

 食事が並んだが、ケネスは一切手を付けようとしない。


「腹が減らないのか?」

「食べる気力がございません」

「そういう時こそ食べなければならない」


 今朝、アイラも同じようなことをレジェスに告げたのにケネスには無茶を言っている。よく考えれば今朝は無防備が過ぎた。今は書類仕事や会議もこなして女王の威厳を取り戻しているはず。


「陛下。どうかご命令ください。そうでもしないと食べられません」

「ケネス、食事をしろ。手を付けないことは許さない」

「……はい」


 見たことはないが、死刑囚というのはこんな感じなのだろうか。ケネスはすべて諦めたようにのろのろとパンを口に運んだ。

 レジェスにするように食べ物を口に突っ込んだ方がいいだろうか。


「私は昨夜までヒューバートは誰かに殺されたと思って生きてきた。昨日で世界が変わってしまった。そなたもだろう」

「陛下。申し訳ございませんでした」


 ケネスは小鳥にやるのかと言いたくなるほど小さくちぎったパンを置いて、ひれ伏した。


「どうして、私にヒューバートのことを隠していた?」

「申し開きもございません」


 ケネスのこの態度は予測できたものだった。ここまで隠し通してきたことを今更ペラペラ喋るような男ではない。そんな覚悟のない人物ではないはずだ。


 しばらくアイラは小刻みに揺れる紫紺の髪を眺めながら、無言を貫いた。ケネスはその間ずっと頭を下げ続けている。深呼吸を何度かしてからアイラはようやく口を開いた。


「ヒューバートと私で板挟みになったのであろう?」

「……どうか、陛下。お怒りはすべて私に」

「ケネス。私は今から女王アイラ・ブライトエントとして命ずる。面を上げよ。そして真実を話せ」


 顔を上げたケネスは今にも泣き出しそうだった。目の前に自分よりも憔悴した人間がいると、傷口から血が流れていても存外冷静になれた。


「なぜ、私に隠した。そなたはいつから知っていた」

「陛下に秘密にすることが……兄の最後の願いでした」


 ケネスはそこから観念したようにポツリポツリ話し始めた。


 ヒューバートの些細な不調に最初に気付いたのはケネスだった。何の段差もないところで躓く、臭いに鈍感になる、本当に些細なことだった。

 伯爵家が世話になっている医者はただの疲労だろうと言った。そこでやめておけば何も気づかなかったのに、ケネスはしばらく経ってから改善しない様子を見て城で診てもらうように兄に進言したのだ。


「そこから兄は家でぼんやりする時間が増えたようでした。私も両親も妹も診断結果を知らされていなかったので疲れているのだろうと勝手に思っておりました」


 ヒューバートがケネスに打ち明けたのはすべての準備が整ってからだった。ヒューバートの病の進行はとても速く、最後の方は手足の震えと睡眠障害も出ていたらしい。

 ケネスが心の内を知ったのは、ヒューバートが死ぬことを決めた後だった。


「私はもちろん止めてくれと言いました。せめて陛下に病気のことを打ち明けてからにすべきだと。そうしたら兄は言ったのです。『ケネスが不調に気づかなかったら、病気にも気付かなかっただろう』と。私にはそれが呪いの言葉に聞こえました」


 アイラにはそれが感謝の言葉にも呪いのようにも聞こえた。どちらとも受け取れる言い方だ。ケネスは病気を自分のせいだと責めていたから瞬時に呪いと受け取ったのだろう。


「兄が計画通りに亡くなって、私は怖くてたまりませんでした。兄の亡骸に縋る陛下を見た時に自分は取り返しのつかないことをしたのだと気付いたのです」

「なぜ側室になった?」

「陛下が兄の真実にたどり着かないようにするためです。側室になったのは兄の思惑ではありません。兄はただ陛下にはバレないようにしてくれと言っただけ。兄の死んだ後からの私の行動は独りよがりです」

「ずっと一人で抱えて秘密にしていたのか」

「先代国王陛下はご存知でした。しかし、先代国王陛下の死後は私だけが背負っているつもりでした」

「あの暗殺者があんなことをするとは知らなかったのか」

「兄があんな仕込みをしているなんて、私は何も知りませんでした。私の知らない兄がいたようです。私にとっての優しい兄は、陛下との未来がなくなったことに絶望して死んだはずでした。しかし、兄はどんな手段を使ってでも陛下の心に居場所を作りたかったようですね」


 ケネスは泣くまいと奥歯を食いしばって変な表情だ。


「そなたは本当は気ままな次男だったはずだ。それなのに、一度は跡継ぎにされ今度は側室になった。私のせいでそなたの人生をかなり振り回してしまった」

「いいえ。陛下、それだけは違います」


 ケネスは心を落ち着けるように目を閉じる。アイラもそうしたかったが、しなかった。今、アイラは女王として命令しているのだ。そんなことをすれば威厳が損なわれる。


「兄が死んであれほど悲しんでいた陛下を見て、私はこれ以上陛下を傷つけるわけにはいかないと勝手に思ったのです。なぜベアテル元王太子殿下の死で大変な陛下がこれ以上苦しまなければならないのかと。だからすべて私の独りよがりなのです」


 耐え切れなかったかのように、ケネスの目から一筋涙が落ちる。


「私や兄の愛が正しければ、昨日陛下は傷つくことはなかったはずです。愛で陛下が傷つくことなどあり得ません。だから、私が間違っていたのです。どうか、咎はすべて私に」


 ヒューバートを優しい人だと思っていた。でも、最後の最後でそうではなかった。家族の中でケネスにだけ打ち明け、自殺のような形を選ぶ。そうしてアイラが側室を入れた後で真実を詳らかにした。


 アイラはもう自分の見ていたヒューバートが何だったのか、よく分からなかった。そしてケネスの壮絶な痛みも理解できた。昨日あの暗殺者が来なければ、ケネスが必死で覆った土の上を何も知らずに歩いていたはずだから。


「私は昨日まで犯人を同じ目に遭わせたいと思っていた。犯人の愛おしいと思う者を奪おうと。そやつが私にした仕打ちのように」


 戴冠式の日にナタリアに語ったことを思い出す。そのためにハーレムを作った。


「私は兄と陛下を昨日まで大切に思っていました。でも、私は今、陛下を傷つけてしまったことに絶望しています」

「兄の婚約者だったからといって、私のためにそこまでそなたがする必要はなかった」

「……私にとって陛下が世界で一番大切なのです。私の命よりも兄の命よりもずっと、世界中の誰よりも。だから、そんな陛下に兄のせいでこれ以上傷ついて欲しくなかった」


 単なる命乞いには聞こえなかった。


 もう昨日でアイラがハーレムを作った意味も、維持する理由もなくなってしまった。そもそもこれまで生きて来た意味もなくなってしまったのだ。ケネスだってそうだろう。

 ハーレムをこれからどうするか。そんなこと今すぐ結論は出せない。しかし、アイラは口を開かなくてはいけなかった。


「ケネス。私はお前に命令しよう」

「何なりと」

「私より先に死ぬことを禁ずる」


 首を垂れていたケネスは弾かれたようにアイラを見た。

 彼の灰色の目が驚きに満たされてるのを見て、アイラは虚しく悲しくなる。


「私より先に死んではいけない。夫として必ず私を看取るように」

「陛下……」

「それがそなたへの咎だ。私の父の前で話したことを真実にするように」


 ケネスはしばらく視線を落として震えていた。やがて彼は小さく頷いた。

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