第8話

「陛下はレジェス様のところにいらっしゃったのですね」


 ハーレムの入り口までついていって華奢な背中を見送り踵を返すと、音も何の気配もなくナイル・コールマンが柱の陰に立っていた。いつからそこに立っていたのか。レジェスはあまりにも驚いて、一瞬声が出なかった。驚きすぎてむしろ何も表情が浮かばなかったのは幸いだ。


「あんなところで眠っては風邪を召されてしまう。俺が勝手に陛下を運んだだけだ。陛下の意思ではない」

「少し話をしませんか」


 言葉だけは友好的だが、彼の醸し出す雰囲気は鋭い。

 ケネス・ランブリーを見張って寝ていないのだろうか。いかにもこれから決闘しますという目ではないか。俺はこれから殺されるのだろうか。


「断る選択肢はないように見えるね」

「おとなしく話をしてくだされば、何もしません」


 昨日のことでも詳細を話すのかと思ったら、これは完全なる脅しだ。

 ナイルは気の利いた会話すらできない男なのに、陛下のことになると危ない。


「怖いなぁ。じゃあ、俺の部屋へ。ここから近いから。そんなに殺気を出さなくてもお茶くらい出すよ」



 先ほどまで陛下がいた部屋に今度は男と戻る。

 ナイルはキョロキョロとしていたが、促すとソファに座った。なんとなくレジェスはさっきまで陛下が座っていた場所に座った。ナイルをこちらに座らせる気にはなれなかった。きっとナイルだってレジェスの立場ならこうするだろう。


 今でも陛下の心を独占し続ける、元婚約者のヒューバート・ランブリーへのささやかな抵抗だ。もちろん、目の前のナイルに対しても。


「私も昨夜心配になって、ケネス様の監視を任せて陛下の様子を見に行きました」


 「も」ということは。


「ナイル様がいらっしゃったとは知りませんでした」

「私が見たのは陛下を抱えたレジェス様の背中です」

「そうですか。どうしてその時に呼び止めなかったのですか?」


 レジェスは訓練した騎士ではないから、人の気配が離れていても分かるなんていう芸当は身に着けていない。

 呼び止められたら、レジェスは普通に振り返ったしなんなら陛下をナイルに預けただろう。昨日起こることをケネスから聞き出して、内密に共有してくれたのはナイルだから。


 純粋にあんなところで陛下を眠らせるわけにはいかなかったから、あんな行動をしただけだ。陛下はとても傷ついていて、すべてのことがどうでもよさそうで、慰めろという趣旨の発言もあったがそんな下心のために連れてきたわけではない。そんな下等生物に成り下がる気はないし、ナイルだって傷ついた陛下を襲ったりはしないだろう。


 なにか誤解して文句を言いに来たのだろうか。


「ヒューバート様は、生きている時は陛下を怒らせたことはあっても傷つけたことはありませんでした。しかし、彼は死んだ後に陛下を傷つけ続けています」


 ナイルは質問に答えず、全く別の話を始めるのでレジェスは困惑した。


「あなたは。あなただけは、陛下を傷つけないでください」

「は?」


 レジェスは驚いてナイルを見た。くそがつくほど真面目な元騎士は嘘でも冗談でも言っているようではない。相変わらず膝に力を入れた手を置いて冷たい表情だ。


「レジェス様。あなたは半裸で軽薄な見た目よりも不良息子なんていう評判よりも、実際に話せばとても良い人です。あなたがいるから私は他の側室の方々とも会話ができたのでしょう」

「急に辛らつになるね。それとも、分かりにくく俺は褒められてるのかな?」


 ナイルの言いたいことが全く分からず、レジェスは微笑んだ。目の前の男はにこりともしない。これでは夜中にオオカミか野犬に遭遇した方がマシだ。


「私は陛下を愛しています。でも、陛下が愛しているあなたが陛下のことを愛していないのならば。私にとってこれほど惨めなことはないでしょう」

「俺たちは皆平等に陛下の夫だろう。陛下を愛するのは当然のことだ。それに陛下だって皆を平等に扱って愛していらっしゃる」

「あなたは、陛下を愛しているのですか? 私には分かりません。好意と信頼は抱いているようですが」

「それは、君に指摘されて言うことを強制されるものなのか?」


 他人に自分の愛を疑われることがこれほど不快だとは、レジェスは知らなかった。

 だが、面と向かって言われて否定も肯定もしがたい。この男は陛下の何なのだ。そもそもこの男だって陛下の側室のはずだ。なのに、この愛の審判でも司っているような発言は何なのだ。


「いいえ。単なる私の意見です。私からお願いしたいのはたった一つだけ。どうか……陛下をもうこれ以上傷つけないでください」


 くそ真面目な元騎士はさっきまでレジェスを殺すのも厭わない様子だったのに、そのことだけを雨に打たれた子犬のような目でレジェスに懇願した。断るのも笑い飛ばして冗談にするのも簡単なはずなのに、あまりに真剣な様子にレジェスは少しの間固まった。


「差し出がましい発言でした。でも、陛下はこれまでで十分に傷ついておられます。私の切なる願いは、陛下がこれ以上愛する者に傷つけられないことです」

「……君は、君は絶対に陛下を傷つけないじゃないか」


 レジェスと陛下の関係にナイルが首を突っ込む必要性はない。ナイルだって同じ側室なのだから、こんな保護者か兄のように懇願しなくていいはずだ。それに陛下が誰を愛しているのかは知らない。

 そんな簡単に陛下に愛されているなんてうぬぼれるほど、レジェスは能天気な人生は送っていない。


「私が陛下を傷つけないのは、太陽が東から登るのと同じくらい当たり前のことです」


 ここでナイルは初めて笑った。目の前に置かれた紅茶を味わう気もなく一気に飲み干す。

 そのマナー違反な行為は、まるで彼の覚悟のようだった。


「昨日は本当に何もなかった。君が考えているようなことは何も」

「分かっています。レジェス様は傷ついている陛下に迫ったなんてことはないでしょう。陛下に迫られてもうまく断ったはずです」


 カップをソーサーに戻して、ナイルは悲し気に笑った。

 その様子をレジェスはおかしな気分で観察する。この男は結局、何が言いたいのか。レジェスを脅したいのか、殺したいのか、それとも牽制したいのか。陛下が絡むと異様に勘が鋭い狂犬だ。


「暗殺者は脱獄しました」

「だろうね。スペンサー伯爵家の手の者が追跡しているはずだ」

「まさか、そのためにわざわざ昨日捕らえたのですか」

「帝国までの距離を追跡するには、追跡者にも準備が必要だから。その時間を稼がないと」

「やりますね。もしかしてすでに帝国に連絡をしてあるのですか」

「皇太子殿下にしておいた。帝国に入った瞬間、捕まってくれればいい」

「逃がす可能性の方が高いでしょう。あれと対峙しましたが、素晴らしい腕を持った人物です」

「それでもいい。捕まえる努力をすることが大事だ」

「それはなぜですか。陛下が捕まえなくていいと言っているのに」

「君から聞いたあの暗殺者のやり方は、洒落ているようで陛下をバカにしている。それが俺は途方もなく嫌だからだ」


 暗殺者はヒューバート・ランブリーに依頼された通りにやったのだろう。ヒューバート・ランブリーは陛下の心を縛る術をよく分かっている。花が大してお好きではない陛下に999本のバラを贈ることを筆頭に。


 死んでも愛する人を独占したい。いや、死んだからこそ独占したい。気持ちは分かるが、それは陛下のことを一切考えていない。そこがレジェスにとっては、死ぬ前に最後に謝った母親と重なってどうにも嫌だった。


 それまでいくらでも時間はあったはずなのに。病気になってからも。なぜ隠して普段通りにして生きるのか。そこから生き方を変えたらいいのに。どうしてそこまで大切な人に愛を伝えようとしないのだろうか。

 レジェスから見れば、ヒューバート・ランブリーは明らかに陛下の愛の上に胡坐をかいていた。陛下が自分を愛していることを疑ってもいないやり方だ。レジェスには絶対に真似できない。


「それが、レジェス様の愛なのですか」

「君の愛の形はきっとこれだ。単なるイメージだが。俺の考える愛はこれ」


 レジェスはカップとソーサーをそれぞれ指差した。


「人によって愛の形は違う。無理に理解はしなくていいはずだ。理解しようとしても苦しいだけだ」


 ナイルはしばらくレジェスの指先を眺めていたが、やがて安堵した様子で去っていった。言いたいことだけ言って。


 レジェスはまたもナイルを見送ってから、微かに彼女の香りの残るベッドに身を横たえた。

 今自分が病気になったなら、みっともなく陛下に愛を乞うだろう。全力ですべてを利用して。

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