第6話
服からして護衛騎士ではないようだった。
ぼんやりしていて焦点が定まらないが、顔の側にある服の色だけは分かる。騎士の服はこんな色ではない。
ラモンではないだろう。だって彼はアイラをこのように持ち上げて運べない。ケネスは見張らせているはずだから……。
鼻をくすぐる香りに覚えがあった。ある側室の部屋でこれを嗅いだ。誰だったか。すぐに思い出せない自分があまりに薄情で思わず笑う。
「起こしてしまいましたか、陛下」
寝たふりを決め込もうかと一瞬考えた。だが、声の主にすぐ見抜かれるだろうと思ってやめた。
「今起きた」
「あんなところで眠っては明日の仕事に支障が出ます。腰も肩も腕も頭も痛いでしょうし、何より寒くて風邪をひいてしまうかもしれません」
「そんなことはどうでもいい」
ヒューバートを失った痛みと真実を知った痛みに比べれば、そんなことはどうでも良かった。
必死で頑張って積み上げたものが一瞬ですべて崩されたこの感覚。抱かれているこの浮遊感のようにフワフワして生きている感じがしない。
ヒューバートが殺されたと思って生きてきた。犯人を見つけて、同じように苦しめるためにハーレムを作った。それなのにその全ては根底から違っていた。なんて私は愚かなのか。愛した男のことを全く理解できていなかったとは。
今はヒューバートという名前が心の中でざらついている。まるで知らない違和感のある名前のように響く。
「でも、陛下はきっと明日もあの机に向かって書類と格闘するのでしょう」
暗い夜空を背景に彼のオレンジの目が細められる。
その通りだ。アイラはヒューバートが死んでも、父や兄が死んでもやがて仕事をこなした。王族として、今は女王としてそれが当たり前だからだ。落ち込んでいる暇などない。その通りだが、他人に見抜かれたように告げられると妙に腹立たしい。
「どこに行くんだ?」
「陛下は暖かい部屋のベッドで眠らないといけません。私の部屋が近いのでどうぞ。私は出て行きますから」
「そなたの部屋だろう」
「陛下はここでお休みください。陛下の部屋まで運んでもいいのですが、人目につきますからね」
このままレジェスに抱えられて自分の部屋まで戻ることもできた。だが、道中たくさんの人に目撃されて明日以降面倒なことになるだろう。
この男の気を回すところがやたらと行き届いて完璧すぎて、妙に腹立たしい。
どうして、今目の前にいるのがヒューバートではなくレジェスなのか。
彼には全く関係ない怒りなのにぶつけたくなる。
柔らかなベッドの上に横たえられた。ふわっと上掛けをかけられてレジェスは先ほどの会話通りに出て行こうとする。
「レジェス」
ラモンと違って緩慢な動きではなかった。レジェスは大股で歩いていたので、もうほとんど扉の前にいたがアイラの呼びかけに振り返った。
「私を傲慢な女王にするつもりか」
「傲慢な陛下も私は好きですが」
「そういう問題ではない」
「どうされました、熱でもありますか? 先ほど額に触れた時は分からなかったのですが」
レジェスはまたベッドに近付いて来た。そしてアイラの額に手のひらを乗せる。
彼の手のひらの方が熱い。
「熱はなさそうですね」
また離れていこうとするレジェスの手をアイラは掴んだ。心細かったわけではない。これは怒りだ。何に対する怒りかは明確ではない。
「陛下?」
「そなたは私の夫なのか、それともひな鳥なのか」
「どちらもです」
アイラが手を掴んだまま放さなかったので、レジェスはベッドに腰掛けた。ギシリという音と体の片側がやや沈む感覚がある。
「冷え切った私を温めることはしないのか」
腹が立っているはずなのに、口から出たのは彼を試すような言葉だった。自分がさらに嫌になる。でも、疲れてどうでもいいという気分でもある。レジェスは静かに笑って、目を伏せた。
「陛下は本当に酷い方です」
「なぜだ」
「ご自分を大切にしないからです」
レジェスは人差し指をそっとアイラの唇に押し当てる。アイラは指の感触を感じてしばらく口を開かないでいた。
「私のしていることは側室としては間違っていますが、人間としては間違っていません」
「私を抱く絶好のチャンスだが?」
「陛下は傷ついておられます。そんな時に無理に何かをしてはいけません。後悔します」
触れられる距離にいて、レジェスに無理矢理命令することもできた。アイラは女王なのだから、命令すればレジェスは従っただろう。でも、アイラはそうしなかった。
「なぜ、ヒューバートは死んだのだ」
レジェスの心情を推し量ることを完全に放棄して、アイラはずっと考えていた質問を投げた。
「男は愛する女性の前では格好をつけたいのですよ」
「それだけでは到底納得できない」
「一生、陛下に覚えていてもらうためです」
軽く口にされた答えはアイラの心に思いのほか強く落ちてきた。
「あのような死に方をされたら、忘れられるわけがありません。だからヒューバート様は死んだのです。愛する陛下に一生覚えておいてもらうために」
「それが、私を最も傷つける行為でも?」
「悩み追い詰められた人間が相手のことまで深く考えるとお思いですか? 今の陛下はどうですか?」
アイラはその通りだと思ったので、返事をしなかった。
愛にかぶれた父は、ヒューバートのそういうところに同情し共感したのだろう。だからわざわざ暗殺者まで手配したのか。
「ヒューバート様は狡い方です。死んでも陛下を独占できるのですから」
アイラはその言葉でやっと自分の怒りを理解した。
レジェスではなく、父や兄でもなく、ヒューバートに怒っていたのだ。愛していて怒りなどほとんど抱いたことがないはずなのに、今はヒューバートがただただ憎かった。
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