第5話
木の根元にアイラは座り込んでぼんやり池を眺めた。
兄のような自殺願望があるからここに来たわけではない。ただ、ここは他よりも静かなのだ。
風が木の葉を揺らす音と時折鳥が飛び去る音しか聞こえない。今、人の声を耳に入れたくなかった。誰かの声が聞こえたら、頭の中が瞬時にぐちゃぐちゃになって叫び出しそうだ。自分の心を整理するのに静かな環境が必要だった。
「生きていてくれれば良かったのに」
ヒューバートがどんな形であれ、生きていてくれれば。
アイラはヒューバートではない、ただ一人の王配を置いたはずだ。今のようにハーレムに男を四人も入れず。ヒューバートの名残を追い求めるような真似もしなくて良かった。そしてヒューバートの名残を見つけては悲しみ、自分を責めなくて良かった。
なぜ病気でも生きていてくれなかったのか。
病気だったら、王配はこなせないと婚約は解消になっただろう。でも、アイラはヒューバートを間違いなく愛していた。
見舞いには忙しくとも欠かさず行っただろうし、ヒューバートが死にそうになっていたら手を握ってずっと側にいたかった。王配を置きながらヒューバートをハーレムに入れるという方法だってあった。その間に世界中で治療法を探ったはずだ。
それなのに、何も言わずにあんな死に方をされてヒューバートにさえ裏切られた気分だ。暗殺者やケネスや父には事情を説明しておいてアイラには一言も何もない。
実兄も義兄も父も、ヒューバートでさえアイラを裏切った。
家族であったはずの男たちは皆信じられない。
実兄が自殺したのを見ていたのに、ヒューバートだってその真似をした。いや、もしかするとヒューバートは他殺にみせかけることで、アイラをせめて傷つけないようにしたのだろうか。
誰かが近付いてくる気配がして、顔を上げる。
意外なことにラモンがマントを持って立っていた。しかし、アイラには口を開く気力は残っていなかった。ラモンはしばらくアイラに視線を向けて百面相をしていた。それがほんの少し面白かったが何も反応しないでいると、メガネを押し上げてから厚手のマントを差し出してきた。
「冷えるのでどうぞ」
彼の言いたいことは分かった。アイラを無理矢理ここから移動させることはないが、夜は冷えるから心配だということだろう。
確かにじっと座っていると足から冷えが上ってきた。こんなところに座って考え事をしてどうするのだろうか。明日だって仕事がたくさんあるのに。体調を崩すことなどできない。
それでも手を伸ばす気力もなく差し出されたマントを眺めていると、ラモンはアイラの体にマントをかぶせた。何か言いたげだが何も口にしない、ぎゅっと結んだ唇が一瞬見えた。
ラモンはアイラの体にマントを緩く巻き付けて、礼をしてから踵を返した。
彼にしては緩慢な動きだ。アイラが彼の名前の最初の文字を口にすれば、すぐに立ち止まってくれそうなほど。でも、アイラは彼を呼び止めなかった。
家族や愛する人の誰にも裏切られたことのなさそうな男と、この気持ちを共有できるとは思えなかった。むしろ、ラモンは両親の期待を裏切り続けてきた方だろう。
ラモンの背中が見えなくなってから、マントを体に巻き付けてそっと目を閉じる。
999本のバラの花言葉を思い出した。「何度生まれ変わってもあなたを愛す」だったか。
そんなことどうでも良かったのに。生まれ変わりなんてどうでもいい。アイラは今、この瞬間ヒューバートに側にいて欲しかった。それどころか命が尽きるその瞬間まで一緒にいたかった。
目を閉じていれば涙は出なかった。
しばらくして眠ってしまっていたらしい。ぼんやりとアイラの意識が覚醒を始めると、誰かがアイラを抱えて運んでいるところだった。
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