第8話
「レジェス様、よろしいのですか」
陛下とナイルが通り過ぎた後でレジェスは彼らとは反対方向に歩き始める。それを追ってきたのは侍従のジョエルだ。
「何が?」
「あの身分の低い元騎士が陛下を誑し込んで行ってしまいます」
「陛下がナイル様に会いに来られたんだろう。その言い方はおかしい」
散策の途中でたまたま見てしまった光景。
人工池のあたりでナイルがこの時間に稽古しているのは知っていたからぶらぶら見に行ってみただけだ。彼は真面目で嘘をついたり駆け引きしたりするタイプではないので、会話するのが楽なのだ。
まさか陛下までいらっしゃるとは思わなかった。
人工池周辺はレジェスも好きな場所だ。緑が多いのでナイルのいない時に昼寝をするのが心地いい。
今日はそこでナイルが跪いて陛下の手を取っていた。一見すれば、プロポーズにも思える。だが、レジェスたちはすでに陛下の夫という立場だ。プロポーズではなく求愛だろう。
すぐに背を向ければ良かったが、自分の立場を忘れて見入っている分には絵面が良かった。ナイルは側室の中では唯一、褐色の肌の持ち主だが彼の金髪とそれはよく合っている。陛下は陛下で珍しい色彩をお持ちで絵画の中から抜け出てきたような人だ。池のほとりでそんなことを二人がしているなら見るべきだろう。
陛下がナイルの額に口づけを落としていた。
思い出してレジェスの胸はほんの少し軋んだ。自分は陛下に口づけも与えてもらえていない。
失望したと言われた方がショックだったが、さきほどの光景も十分に衝撃的だった。放浪してクマや野犬に襲われかけた時もこれほどショックは受けなかった。
「陛下はナイル様と寝ていらっしゃらないようだ」
「なんとおっしゃいました?」
「いや、何でもない」
「陛下は酷い方です。帝国の皇太子殿下とも交流のあるレジェス様を放置して、あんな引きこもりや元騎士や元婚約者の弟にばかり会いに行かれるなんて」
陛下とナイルのあの距離感。男女が一緒にいて距離感を見れば大体分かる。レジェスと同様に彼も陛下と夜をともにしていない。口づけで心が軋んだが、察した事実がその傷を慰める。
陛下は会議にて、自分は検査しており不妊ではないと発言した。ということは陛下が妊娠しなかったら真っ先に疑われるのは側室たちだ。
このハーレムは、貴族たちのパワーバランスと陛下の好みで作られたと考えていた。レジェスともナイルとも寝ていないなら、見るからに女性慣れしていないラモンとも寝ていないのだろう。元婚約者の弟と寝るとも思えない……が確証はない。ケネスはラモンやナイルよりも分かりにくいから。
陛下は異母兄弟とも仲が悪く、実の兄は亡くなっている。もう陛下に実の兄弟はいないので、異母兄弟やその子供に継がせたくないなら自分で子供を生むしかないはずなのにこの状況。不妊ではないのが嘘なのか、それとも元婚約者だけを本当に愛しているのか。
「公爵家から夫人の見舞いに来るように何度か手紙が届いています」
考え込んだレジェスに、ジョエルが言いづらそうに声をかけてきた。
「なら陛下に外出届を出さないといけないな」
「え、公爵家に帰るのですか?」
「お前がそう言ったんじゃないか」
「レジェス様は実家に帰りたくなさそうな雰囲気をよく出されるので」
「実家は嫌い、いや両親が嫌いなだけだ。兄弟は好きだ」
「ははぁ……その……」
「だが、陛下に見舞いは行けと言われた。明日日帰りで外出しよう。外出届を陛下に出してくれ」
「あっ、はい。かしこまりました」
執務室まで行った時に陛下の目に見えたのは、諦めと傷ついた色だった。完全に諦めているならレジェスに失望したなどと言うはずがない。陛下はすべてを諦めているようで、陛下も気付いていない何かを諦めていないのだ。
「母親に聞いてみないといけないからな」
レジェスは側室選定の際から選ばれたと気づかぬうちに少しうぬぼれていたのだ。まだ陛下に口づけも与えられていないというのに。
兄弟をさしおいて選んでもらったのは初めてだったから。同時に期待されて失望されたのも初めてだった。「初体験だな」なんて皮肉を女性に言われたのも初めてだった。
女性はどうやったら気に食わないことをやらかした男性を許してくれるのか。気乗りはしないが、聞けるのは母親だけだ。
もう陛下を傷つけたくない。傷ついて欲しくない。
あんな皮肉っぽく、挑戦的な笑いも浮かべて欲しくない。それらはすべて陛下が「もう傷つけないで欲しい」と叫んでいるようにしか見えなかったから。
でも、それはレジェスの気付かない心の叫びかもしれなかった。
自分の目とよく似た色の夕日が沈んでいく。レジェスは大きく伸びをして筋肉のほどよくついた腹を完全に出しながら部屋へと戻った。
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