第二章 女王の側室たち
第1話
レジェス・プラトン。
プラトン公爵家の次男で、留学どころか各国をフラフラ放浪していた男。これだけ聞くと放蕩息子のようだが、彼の第一印象はそれほど悪くなかった。
事前に連絡していたので、礼服から着替えてレジェスはアイラを待っていた。彼の髪とは違って落ち着いた青色に統一された部屋には大して物がなかった。
アイラは無言で彼の目立つ長い赤髪に目を向ける。表情は笑っているので深く読めない。放浪していた割には貴族らしい態度だ。
「陛下。式であまり食べていらっしゃらなかったようなので、軽食を召し上がりますか」
アイラの脱いだマントを受け取りながら、レジェスは人懐っこい笑みを浮かべている。放浪していたのだから友好的な態度を取るのはお手の物だろう、とアイラは勝手に分析する。
気が利かないわけでも、酷く傲慢なわけでもないようだ。観察しながら会話を続ける。
「そなたも食べるならもらおう。私一人で食べるのは味気ない」
「はい。では運ばせます」
話を通してあったのか、すぐにつまみや軽食が運ばれてきた。使用人が出て行ったのを確認してからアイラは口を開く。
「そなたとはほとんど初対面だな」
「はい」
レジェスは笑いながら答えると、視線を斜めにそらして首の後ろに手を当てた。細腕ではなく、がっしりした腕がのぞく。喧嘩に強そうである。ラモン・スペンサーは細かったから喧嘩になったらレジェス・プラトンが圧倒的に有利だろう。
「ほぼ初対面なのに、今の状況は変な感じがしますね」
「初対面なのに、もう夫婦だからか」
照れくさそうな様子だ。あの古だぬき公爵の息子だからこのような初心な様子を見ても警戒しないといけない。
「はい。陛下がこんなに美しい方とは知りませんでした」
「世辞はいい」
「お世辞ではありません。本当に心から思っています」
アイラは確かに美しい部類だろう。あの異母兄が見た目だけなどと言ったのもそういうことだ。初代女王アイリスと同じだと言われる珍しい髪色は特に褒めそやされてきた。顔は二の次だから久しぶりに言われたかもしれない。だが、アイラにとって美しいのは当たり前のことだった。
母も父の他の側室たちも皆タイプは違えども美しかった。そして生まれる子供たちも。王族は大体見た目は優れているものだ。中身は知らないが。
アイラが心の中でぶつくさ文句を言っていて返事を忘れていても、レジェスは気にせず続けた。
「誓約式の時は初めて見た陛下があまりに美しいので、驚いて口が開かないようにしておくのが精一杯でした」
「そなたの母親だって美人で有名ではないか」
「母は母でしかありません」
「そうか。式の時、そなたは多くの余裕があるように見えたがな」
「陛下は私を見ていてくださったのですね」
「皆を見ていた」
軽々しくて口が上手い男だ。注意しなければいけない。
「そなたはどのような国に行ったことがあるのだ」
「周辺国は一通り。あとは帝国ですね」
「……帝国まで行ったのか」
「はい。一番最初に行きました。大国である帝国には憧れがありましたから」
帝国か。
兄が帝国の王族に酔って失礼な発言をしたのがきっかけだった。
知らなかった。兄が王太子としてのプレッシャーのあまりアルコール依存になっていたなんて。父が隠していたからなのだが。それがまさかあんなことを引き起こすとは。
「言語に困らなかったのか」
「基本的に困らない程度にすべて喋れます」
「そうか。それは素晴らしい」
「陛下との会話はまるで仕事の面接のようですね」
レジェスの言う通り仕事の面接のようだが、部下として雇った方が良かったかもしれない。
目の前のレジェスから帝国という言葉が出たのでどうしても考えずにはいられない。巨大な帝国に睨まれたら終わりだ。あの件は何とかなったが、即位式にはまた帝国を招待しなければならない。そうすると……頭が痛い。
過去を思い出してアイラの心は沈んだ。こんな時にヒューバートがいてくれれば。
彼がいてくれたら、手を握ってくれたら、こんな鬱々とした気分はすぐにどこかへ行って良い案がないかと相談できるのに。もうこの世にいない彼の名前を何度も心の中で呼ぶ。
「式の時もですが、陛下はいつもそんなに厳しいお顔をされているのですか」
目の前の警戒すべき男の存在をうっかり忘れていてハッとする。相変わらず、レジェスはヘラヘラとした軽そうな笑みを浮かべていた。
「他者から見た私は他者の数だけ存在するだろう」
「とても芸術的なお答えです」
レジェスは諦めずに会話をしてくる割にはアイラに気に入られようという必死さもなく、押し付ける感じもない。ここまでのすべての会話がふわふわしていてつかみどころがなく重要ではない気がする。アイラは目の前の男に集中しようとした。
「そなたはてっきり側室の話を断るかと思っていた。同じところに縛り付けられるのを嫌いそうだから」
「放浪していたからですか。そうですね、旅は刺激的です」
「ここも別の意味で刺激的だとは思うが」
「はい。きっとそうですし退屈しないでしょう。私は公爵家にいたくなかったから放浪していただけで、別に旅が好きなわけではありません」
アイラはつまみを食べようとした手を止めた。
「そうなのか」
「はい。だから陛下は私が逃亡するかもと気をもまなくても大丈夫です」
「ここから逃げようとするのはそなたの勝手だ。なぜ公爵家にいたくないのか、聞いても?」
レジェスはつまみに手を伸ばして口に含んでからニッと笑った。
「陛下が明日も来てくださったらその時にお話します」
アイラは一気に興が覚めた。こういう風に私の気を引く男だったのか。品定めしているようで悪いが、正直平凡だ。アイラは急に冷めてつまらなくなってしまった。さっきまで気を張って警戒していたからなおさら。放浪していた公爵家の次男は本当のところ、どんな男なのだろうと構えていたから。
「だって、私たちはほぼ初対面でしょう? 一気に全部話してしまっては楽しくないではありませんか。次にいつお会いできるかもわからないのに。今日、陛下は私に恩恵をくださるわけでもないでしょうし」
「なぜそう思う」
その通りなのだが、ワインを飲みながらぞんざいに聞いた。アイラが不妊ではないことは神殿で証明されている。アイラが側室たちを抱かなくとも、アイラが不妊だと騒ぐ者よりも側室たちに問題があるのではないかと考える者が多いだろう。
そもそもほぼ初対面の男を抱く趣味はない。
「なぜって陛下。鏡をご覧になった方がいいです」
アイラはレジェスの大げさな手の動きに合わせて部屋を見回したが、鏡はなかった。
「鏡はこの部屋にないが」
「そうでした。隣の部屋にはありますね。だって、陛下はここに入って来た瞬間から戦争でも起こすような表情です。それで私を抱くのかと思ったら。殺される方がまだ説得力があります」
レジェスは大げさに両手で自分の体を包み、震える仕草をした。そのわざとらしい仕草がアイラの癪に障った。
「執務で疲れているだけだ。悪かったな」
「そうでしょうか。いえ、陛下がそうおっしゃるならきっとそうなのでしょう」
「何が言いたい」
からかうような、それでいて軽い会話。酒が手伝ってうっかり口を滑らせないよう注意しなければ。レジェスは笑みを浮かべたまま首を振った。
「今日、陛下はベッドでお休みください。私はソファで寝ます。陛下はさすがに今すぐこの部屋を出ていかれないでしょう? 私のためにも出て行かないでください」
「出て行かない。それにそなたの部屋なのだから、そなたがベッドで寝ればいい」
「私の特技は地面でも洞窟でも木の根元でも馬上でも同じように眠れることですよ、陛下。いずれお見せしましょう」
得意げに話すとレジェスはすぐにソファに横になる。別にアイラは気分を少し害したからとすぐ出て行くような大人気ない真似をする気は一切なかった。アイラが今すぐこの部屋から出て行けば、レジェスを抱かなかったことが明白だからだ。
「疲れているのか」
「堅苦しい式典は慣れていないので疲れますね」
ソファに腕をついて体の向きを変え、レジェスはアイラを見つめてきた。
「私は陛下ほど美しい方を見たことがありませんが」
「また世辞か。世辞はもういい」
アイラがせっかく止めたのに、レジェスは続けた。
「今の陛下のような表情をしていた者はたくさん知っています。陛下は戦争をするような顔でここに入ってきましたが、先ほどからは少し違います。死にたがっている人の表情をしています」
アイラは今度こそ本当に気分を損ねてレジェスを思い切り睨んだ。レジェスはついていた肘をぱっと外すと、上を向いてソファに寝そべった。
「これでも私は陛下に感謝しているのです。おやすみなさい、陛下」
「おい、レジェス」
さっきの思わせぶりな言葉はなんだったのか。寝ぼけていたのか。レジェスはさっさと目を閉じていた。アイラが呼びかけても目を開こうともしない。図々しい男だ。
これならプラトン公爵の長男を側室にしておいた方が良かったかもしれない。
ほぼ初対面でアイラの心の最も柔らかい部分に踏み込んできて足跡だけハッキリつけてすぐに出て行った。そんな男をハーレムに入れてしまったことをアイラは後悔した。
しかし、レジェスの顔を見ながら考え直す。レジェスは驚くべきことにすでに寝息を立てていた。アイラが睨んでも起きない。どこでもすぐに眠れる男のようだ。
こんな男ならアイラが寵愛するフリをして、他の側室たちやその実家から害されても別に心は痛まない。アイラはため息をついてからベッドに横たわった。
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