第6話 みらい

 廃園となった遊園地を爆破してから一週間後、怪獣ショウの公式サイトで次の催し予定日と場所が決定したとだけ告知された。そして、実行日と実行場所は、サイトに登録した会員のみに知らされた。登録自体は無料だった。

 舞台は十年以上の前に廃校となった大学のキャンパスだった。廃校になる数年前から、生徒の数が減り続け、ひどい経営難に陥り、終わりとなった。キャンパスは人里から離れた場所にあり、なにかに再利用するには立地も厳しく、新たな引き取り手も見つからず、だからといって広大な土地に広がるキャンパスを廃棄、解体する費用の見通しはつかず、けっきょく、そのまま放置されていた。むろん、然るべき機関から、放置状態に対する注意を何度も受けていた。

 それを怪獣ショウが受けとめた。キャンパスの解体を全額負担して引き受ける。

ただし、その前に作品のために爆発させる。

 権利者は、怪獣ショウ側が持ち掛けたその条件を積極的に受け入れたという。理由はいつかあった。ひとつは、ショウの存在が有名だったことが大きい。

 しかも、ショウは困っているものを、処理してくれる。

この国が、かつて、栄達を極めた頃、好きに大きくつくったものの、その後の時代に乗り切れず、しかし、高額な費用がかかるため、片づけることも出来ず、残っている施設類は国中に存在する。その後始末に困る者は多かった。

ショウが、そういった者たちを選んで現れていることも大きい。

 廃墟を片付ける。その代わり、みえない怪獣の再現するために、爆発させる。

 無論、私有地とはいえ、火薬の使用には規則がある。だが、ショウ側は、あくまでも、解体作業で許される範疇の爆破処理を、巧妙に計算し、抜け道を通りぬけ実行する。

 爆破の配置、順番、タイミングをコントロールし、みえない怪獣が廃墟を破壊する光景を再現。

 それは毎回、ネットを介し、ライヴ中継された。

 これまで四か月で、四度行なわれ、映像は『作品』と呼ばれた。

 最初は人里離れた場所にあった廃墟となった繊維工場だった、巨大な、みえない怪 獣が工場を足で踏みつぶしてゆく再現をした。

 二回目は、使用されなくなったまま残された送電塔を次々に爆破させた、爆破を巧みに配置して、まるで、みえない怪獣が歩いてなぎ倒されてゆくようにみせた。

 三度目は映画館だった、そこも長い間、放置されていた。みえない怪獣が、天井を牙で齧りとるような爆破を行った。

 そして、最新となる四度目が、遥か昔に廃業した遊園地だった。

 素人目にも回を重ねるごとに、みえない怪獣の再現精度があがっているはわかった。

 そんなショウに対し、メディアに登場するあらゆるジャンルの有識は皆、一様に「よさがわからない」といった。「これを作品と呼ぶには、図々しく」などと。

 まるで理解不能であり、あたらしい表現領域としても、何一つ達成されていない。

目立つ舞台に立つ人々からの好意的な意見は皆無だった。

 みえない怪獣が廃墟を破壊する、その再現。

 テーマが浅いと言われていた。

 一方で無名の人々の中にはこう語る者たちがいた。

 かつて、怪獣は未来を奪う象徴だった。だが、ショウの怪獣は未来へ無責任に残されてしまった廃墟を排除する。行き詰まって後片付けされず、そこに在り続けることでただただ、土地を奪い続けるものを、破壊し、解放する。

 みえない怪獣は、未来へつながらない空間を破壊する。

 それを実行しているが、ショウ。

 ショウという、若いクリエーターだった。

 みえない怪獣は、未来へつながらない空間を破壊する。この構図については、有識者、非有識者の関係なく、あらゆる媒体でよくよく語られた。ショウのつくる作品が何を意味するか、考察することは浅きにも、深きにも語ることが可能だった。

 だが、一方、アート市場では、ショウの作品自体の評価はほぼ無だった。市場の価値はない、ゼロと言い切られ続けている。しかも、動画再生には広告はつけられず、誰でも見ることが可能だった。どこの商品にもなっていなかった。

 そもそもは映像である。それも発表されるのは破壊されるシーンのみであり、破壊される範囲の広大な規模も含め、アートとして展示するには、難しい。パフォーマンスアートであり、誰にも所有ができない。ある意味、大きすぎて美術館での展示も不可能だった。唯一、映像作品として、ネット上へ収蔵されるのみだった。作品は、見たいと思った誰もが見ることができるが、誰も買えないし、誰も所有できない。

 作品について、ショウが何かを語ることはなかった。ただ、みえない怪獣による廃墟の破壊を現実で繰り返し行い、その光景を作品として発表し続ける。いったい、何を伝えようとしているのか、言葉にはしない。

 みえない怪獣による、廃墟の破壊、その意味を巡ってしばしば話題として扱われ、議論されるが、アート市場はほぼ無視を続けた。

 社会的思想を内在しているように感じさせるようにしているだけであり、しかし、内実はただの安直なパフォーマンスであり、作り手の思慮不足は否めず、時代を封じ込めるようなカプセル的な重力をもっていない。これをアート側に持ち込まれることは、ひどく迷惑でしかないと構えられた。素人が作成したインターネット上で発表された動画は、いくら数億回の再生回数を重ねたとしても、灘やる美術館で展示されることにはならなかった。

 非ショウ側の者たちは言う、あれは我々とは、別の惑星の出来事である。

 だが、ショウは続いた。とまらなかった。理由は、かかる巨額の費用のすべてはひとりのパトロンから出資されていたからだった。とめる権限は、出資者ひとりしかもっておらず、そのひとりが止めない。ゆえに、評価に依存せず、みえない怪獣はこの星に再現され続けることが可能だった。

 次の発表の場を観客が知るためには、公式サイトで会員登録をする必要があった。会員になるためには、入会金などは不要だった。ただし条件はあった。会員登録は必ず実名であること。そして、登録した会員の情報は、運営側の都合により、自由に実名公表を行うことを許諾すること。実名ではなく虚偽情報での登録は違反とし、法的措置も行なうとうたっていた。そして、現実に偽名での登録者に対しては、それが実行されていた。手続きにかかる費用は、あきらかに大きな赤字だったが、かまわず行なわれた。それは、他とは違い、ここでルールに違反した者は、反撃を避けることができない、という印象づけなり、強い抑止力となった。反感か、もしくは愉快からか、サイバー攻撃を試みる者も多数現れた。だら、それらに対しても、強い処理が慣行された。すべてではないが、その反撃により、手痛い目にあった者たちの話しは意図的、インターネットネット上を中心に、目につく場所へ配置された

 実名での登録を求め、その情報を公開することを許諾させる。その構えは、怪獣ショウは金はいらない、ただし代わりに、これにかかわること、その人生に背負えといわれている印象をあたえた。

 膨大な情報が電子データ化され、保持が可能となった現行の世界で、以降、幾世紀まで残るかわからない個人情報に、怪獣ショウの賛同を記録される。

 支払いは、覚悟である。

 きえない印を、人生に刻めと言われているようにきこえた。

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