七月

 梅雨が終わっても、千尋さんとの交流は続いた。


 千尋さんはいい人だった。さっぱりしていて、素直で、誠実で。それで、きっとすごく苦労してきた人でもあった。

 母子家庭なこと。高卒で就職したこと。お金をためて大学に来たこと。どれもさらりと軽く告げられたけれど、私にとっては衝撃的だった。


 そして、それぐらい千尋さんを知ることができる程度には、私は千尋さんと会話していた。


 そうして、大学も、サークルも、千尋さんも、私の日常に馴染んで来た頃のことだった。試験と課題ばかりのテスト期間が明けて、夏休みに入った七月末のある日。


「じゃあ、だいぶ遅れちゃったけど……新入生のサークル参加を祝って、乾杯‼」


 それを皮切りに、場はざわめきに包まれる。サークルの歓迎会に、私は参加していた。

 

 今日の『本を読む会』の歓迎会は、サークルの活動として行われるものだった。つまり、サークル公式の会である。任意参加だったけれど、千尋さんに「私は行くつもりなんだけど、さくらちゃんは?」と問われて、それなら行ってもいいかなと思えた。だから、私は今ここにいる。


 ウーロン茶片手に、適当に食べ物をつまんでいく。サラダ、からあげ、焼き鳥、などなど。居酒屋のご飯は味が濃いものばかりだな、と思った。


「お酒飲むの、久しぶりかもなあ」


 千尋さんがぽつりと言ったのは、すっかり場が温まってきた頃だった。


「そうなんです?」

「うん、大学入ってからは飲んでないはずだし……大学に入る前の、受験期間はさすがに控えてたから」


 いいながら、ぐいとジョッキを傾ける千尋さん。


「……お酒っていいものですか?」


 近くにあるフライドポテトをつまみながら聞いたそれは、本当に何の気なしだった。


「人による、かなあ。私はほどほどに飲めて、ほどほどに楽しめる程度だけどさ。気持ちよく酔える人も、そうじゃない人も居るし。そもそも酔えないぐらい弱い人も居るし、その逆もあり得るし。興味あるの?」

「春生まれで、二年生になったらすぐに誕生日が来るので……」


 頷きながら言えば、千尋さんは少し赤くなった顔で目をしばたかせた。


「そうだったんだ、何月?」

「四月です」

「ほんと? 私と一緒だ」


 にこり、いつもより柔らかく千尋さんが笑う。その笑顔と、誕生月が同じことに驚いた。


「偶然ですね」

「ね、巡り合わせだね」


 キャベツをつまみながら、千尋さんが言う。


「あっそうだ、もう言われたことあるかもだけど。初めて飲むときは無理しない方がいいし、お酒飲める大人に一緒に居てもらった方がいいよ。もちろん安心できる人ね」


 そう言われて、思わず俯いた。だって、千尋さんの言葉は、きっと家族の誰かと飲むといいよ、と言っている。


「……千尋さんじゃ、だめですかね」


 呟いたそれは、きっと心からのきもちだった。けれど、外に出すつもりも、それどころか自覚すらなかったそれが口から零れ出て、自分でも驚く。千尋さんの顔を見るのが、なんだか怖かった。


「え、私でいいの? そりゃあ、私はお酒飲める大人だけどさ」


 でも、千尋さんから返ってきた言葉は、思っていたよりも棘がなかった。恐る恐る千尋さんの方を見る。彼女は、べつになんでもないようにジョッキを傾けていた。


「……これは、答えたくなかったら、答えたくない、って言ってくれればいいんだけどね」


 少しだけ声のトーンを落とした千尋さんが、そう切り出す。思わずごくりと唾を飲んだ。


「もしかして、親御さんとあんまり仲良くない?」


 思ったよりも直球だったそれに、思わず視線が落ちる。迷ってから、小さく頷いた。周りの喧騒が、なんだか遠くなっていく。


「そっかあ」


 ジョッキから手を離した千尋さんが、テーブルに肘をつきながら言った。


「きっかけとか、理由とかってある? さくらちゃんのことだし、訳もなく嫌ってるわけじゃないでしょ」


 その言葉に、なんだか泣きそうになった。まばたきで誤魔化しながら、どうにか口を開く。


「……いもうとが、いるんです。二個下の」


 そうして出た音は、思っていたよりもずっと震えていた。それでも、「うん」と相槌を打つ千尋さんの声が柔らかくて、自然と続きが口から漏れ出る。


「私は、家では、『お姉ちゃん』としか扱われなくて。私のものでも、全部妹に譲るのが当たり前で」


 普段よりもずっとたどたどしい。普段よりもきっと、聞き取りづらい。それでも、千尋さんは私の話を聞いてくれていた。


「だから、新しいものが嫌いなんです。新しいものが手に入っても、結局全部、妹にとられちゃうから」

「……例えば、どんなもの?」


 問われて、ぐっと唇を噛む。それでも、話を切り上げるつもりは不思議となかった。

 たぶん、誰かに聞いて欲しかった。ずっと。


「最初は、大切にしてたぬいぐるみ。小学校に上がったら、ノートとか、えんぴつとかの文房具とか。学年が上がるにつれて、洋服とか、コスメとか。……あと、中学の時の、付き合ってた人」


 千尋さんが息を飲んだだのが分かった。少ししてから、「そっかあ」と深い息を吐き出すように相槌を打つ。


「しんどかったねえ」


 それが、その声が、優しくて。本格的に涙が溢れそうになる。瞼を閉じて、それを堪えた。


「それにしても……まあ、いいか。言っちゃうんだけどさ」


 千尋さんの言葉を待つのは、正直怖かった。否定されるんじゃないか、家族を悪く言うのは良くないことだって、言われるんじゃないかって。


「とんでもない親と妹だね、それ」


  でも、聞こえたのは私にとってすごく都合のいい言葉だった。驚いて目を開ける。開けた視界の先、私と目が合った千尋さんがいつも通りにっと笑った。


「だってさ、お姉ちゃんっていっても二個しか違わないんでしょ? そうじゃなくてもさ、お姉ちゃんだからって全部妹に譲んなきゃいけないなんておかしいじゃん」


 千尋さんが、当たり前のように言う。


 ……そうなのかな、そう思って、いいのかな。


「ねえ、さくらちゃん。会ってまだ三ヶ月程度の私が言うのも、あれなんだけどさ」


 千尋さんが、膝の上に置いていた私の手を、きつく握っていた私の拳を、そっと包んだ。


「さくらちゃんは『お姉ちゃん』かもしれないけど、それ以上に『さくらちゃん』なんだから。そんな扱いに耐えなくていいんだよ」


 それはきっと、私が一番欲しい言葉だった。

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