六月

 千尋さんとの交流は、それからしばらく続いた。週二回、水曜三限の日本文学と、金曜五限のサークルの時間。大学に入ってから新しい知り合いを増やしていない私にとって、千尋さんはほぼ唯一と言っていい大学内での交流だった。



「さくらちゃんの連絡先貰ってもいい?」


 そんな提案があったのは、六月に入ったばかりの頃だった。特別抵抗も感じなかったから、こくりと頷く。

 そうすれば、千尋さんは「ありがと」と笑ってスマホを取り出した。少しして差し出されたのはメッセージアプリのQRコードだ。自分のスマホでそれを読み取れば、画面に『ちひろ』というひらがな三文字の名前と、きれいな青空のアイコンが表示された。


「これですか?」

「うん、追加おねがい」


 念のため確認してから追加する。友達一覧に『ちひろ』さんが表示された。必要に迫られているわけでもないのに友達登録をしたのは、大学に入ってから初めてかもしれないなとふと思う。


「さくらちゃんはこれ?」


 言いながら千尋さんがスマホの画面を私に見せてくる。そこには見慣れた桜の花のアイコンが表示されていた。頷けば「おっけー」と返事があって、すぐに私のスマホに通知が飛んでくる。『ちひろ』さんから、かわいらしいうさぎが手を振っているスタンプが届いていた。


「じゃあ、今後なんかあったらこれで連絡入れるね」


 にっ、と千尋さんが笑う。新しいものは嫌いなのに、新しいお友達も作りたくないのに。

 画面に表示されたそれが、不思議と嫌じゃなかった。




 すっかり梅雨らしくなってきた六月も半ば。千尋さんから誘いを受けて、学食で一緒にご飯を食べて居た時のことだった。


 ガシャン、何かの落ちる音と、鋭く高い声が後ろの方から響いた。びくりと肩が揺れる。反射的に振り返る。

 そこには、倒れこむ女の子と、そのすぐそばで棒立ちする男の子が居た。更に、床にはひっくりかえったうどんが広がっている。そこからはまだ湯気が出ていた。


 ガタリ、椅子を引く音が耳に入る。千尋さんだった。彼女は、そのまま小走りで女の子のところへ向かって行って「大丈夫ですか」と声をかける。膝をついたせいで、千尋さんのズボンが汚れていた。


「ありがとうございます、大丈夫です」

「火傷とかは?」

「たぶん、大丈夫だと思います」


 千尋さんは、「そう」と頷いた後に地面に転がったどんぶりを見て言った。


「でも、一応冷やした方がいいね。お手洗い行こうか」

「そんな、一人で大丈夫です」

「次空きコマなんだ、気にしないで」


 言いながら、千尋さんは女の子を立ち上がらせる。それからくるりと、棒立ちになっていたままの男の子の方を見て言った。


「君、この子に謝った?」

「あっ……いや、まだ、です」


 その声色は、普段よりも少し硬い。私に向けられたものじゃないのに、少し怯えてしまって、そんな自分が情けなかった。


「謝らなくていいの?」


 千尋さんが、半ば促すように言う。そうしてからやっと、男の子は女の子を見て「……ごめん」と謝った。そんな彼を見た千尋さんが「それから」と続ける。


「学食の人に声かけてきな。掃除道具とか借りれませんか、って」


 そう言って、千尋さんが今度はくるりと私の方を見た。


「ごめんさくらちゃん、今日のこのまま解散でいい? 私このまま付き添うからさ」

「もちろん、大丈夫、です」


 そう頷けば、千尋さんは「ありがと」と笑って言ってからくるりと背を向けて出口の方へ向かった。その背中に、怯えやためらいは欠片も見えない。最初に千尋さんを見た時も堂々としていたな、とふと思い出して。

 その後ろ姿が、なんだかうらやましかった。

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