五月
大学生になってはや一ヵ月。私は今日も、帰宅するなり「明日の準備があるから」と適当なことを言って自分の部屋に引きこもった。ベッドに倒れこんで、そうしてやっと深く息が吸える。だって、お母さんたちのいる場所にいると、私は「お姉ちゃん」としてしか扱われないから。
「お姉ちゃん」という生き物として育てられて、今までで得をしたことがない。と言うと、「大げさだなあ」と笑うのはたいてい妹弟か、一人っ子の人で、「まあ、分かるけど」と苦笑するのは兄姉の人だった。そんな反応を見るたびに、この苦しみは当事者にならないと分からないんだろうな、と思う。
大げさなんかじゃないのに。本当のことなのに、って、私の中の幼いままの自分が泣いてる。
それもこれも、全部、妹のせいだ。
私は、山本さくらとして生まれて、名づけられたはずなのに。家での呼び名はたいてい「お姉ちゃん」で、「さくら」と呼んでくれる人は居ない。それは妹が生まれてからだった。私が「お姉ちゃん」になってしまった時から、「さくら」の人生は終わった。
私に買ってもらったはずなのに。私が自分でおこづかいを貯めて買ったのに。……私のお友達だったのに。私の、好きな人、だったのに。
気づけばすべて妹に奪われていて、でもお母さんはそれに何も言わない。それどころか、私が悪いって言うんだ。お姉ちゃんだから、妹に譲るのは当たり前、って。
小さい頃は「私は悪くない」「助けて」って声を上げていたけれど、いつからかそれも諦めてしまった。だって、全部無意味だったから。
新品の文房具や、洋服に、新作のコスメも。新しい友達も、恋人だって。気づけば、全部妹のものになっていた。でも、しょうがない。だって、私は「お姉ちゃん」だから。
……納得できなくたって、それでもそう言い聞かせなきゃ、やってらんないから。
思い出せる限りで古い、私の覚えている最初は、そう、お人形だった。お父さんに買ってもらって、大切にしていたお人形。なのに。
「おねえちゃん、それちょうだい」
私の大切なお友達を、「それ」と呼ぶような妹には、触らせることすらしたくなかった。
「やだよ、あたしのだもん」
だから、正直にそう言った。そしたら、妹は大きな声で泣きだしたのだ。家中に響くような声で。驚いて固まる私と泣いている妹の元へ、母が飛んでくる。
「どうしたの⁉」
なんて説明すればいいのか分からなくて、おろおろする幼い私の横で、妹は泣きながら言い切った。
「おねえちゃんがいじわるする‼」
その言葉に「ちがう」と言おうとするよりも先に、母親の鋭い目が私に向けられた。それに驚いてしまって、何も言えなくなる。どうして? お母さん、なんでそんな顔をしているの?
「アンタって子は……! お姉ちゃんなんだから、妹泣かせちゃだめでしょ‼」
お母さんが手を振り上げる。バシンと大きな音が鳴って、私の体が床に倒れる。痛いよ、お母さん、なんで? あたし、悪いことしてないのに。
涙を流しながらお母さんの方を見れば、お母さんは妹を抱きしめていた。
「ごめんねえ、お姉ちゃん怖かったよね。もう大丈夫だからね」
ぶつり、テレビの画面が切られた時のように、視界が暗転した。
「お姉ちゃーん、寝てるの?」
目を覚ます。いつの間にか寝ていたらしい。扉の向こうで、妹が私を呼んでいるのが分かった。……嫌な夢を見た。
ふるふると、振り払うように頭を振ってから立ち上がる。扉の前に立って、一度深呼吸。なんでもないような顔を作ってから扉を開けた。
「ごめん、今起きた。なに?」
「お母さんが呼んでる」
「そっか、分かった」
短いやり取りを済ませてから、一階に降りる。お母さんは台所に立っていた。降りて来た私に気付いたその人がこちらを見る。
「何アンタ、寝てたの?」
「うん、ちょっと……」
「せめて着替えなさいよ、シワになるでしょうが」
言われて気づく。まだ部屋着に着替えてなかった。
「あ……ごめん」
「ほんとそういうとこダメだよね、アンタ」
……ごめんなさいね、ダメな娘で。
「さっさと着替えてきて、夕飯作るから」
どうやら夕飯作りの手伝いのために呼ばれたらしい。この人にとって、私が家事を手伝うのは当たり前のことだ。だから「手伝って」と言うこともない。……妹には「手伝って」ってちゃんと言うのにね。
「……分かった、すぐ着替えてくる」
いつも通り心中のそれらを殺してから、言葉を返した。
*
水曜の三限目の、日本文学の講義。その準備をしている時のことだった。
「あれ? 君こないだ居なかった?」
隣の席からかけられた声が、私宛だと気付くのに少し時間がかかった。あたりを見渡してから「……私、ですか?」と返す。
「そうそう、こないだの金曜日! 本を読む会に居たよね?」
言われてやっと思い出す。
「あの、えっと……社会人入試で入ってきた?」
「そうそう、二八の! 佐藤千尋です。覚えててくれたんだ」
そう言って、その人は自己紹介の時と同じようににっと笑った。
「ごめんなんだけど、名前もっかい聞いてもいい? 居たのは覚えてるんだけど、名前まで憶えてなくて」
それはそうだ。あそこには新入生と上級生合わせて二〇人は居た。覚えている方が驚く。……ていうか私は、言われるまで気づけなかったし。名前なんてもっと覚えてなかったし。
「山本さくら、です。英文の」
そう短く伝えれば、その人は「うん、ありがと」と言ってまた笑った。よく笑う人だな、と思う。
「今更だけど、隣、いい?」
「あっはい、どうぞ」
投げかけられた問いに、慌てて頷く。それから机の上に広げていた教材を少し自分側に寄せた。
「気遣わなくていいよ、私パソコンだけだし」
言葉通り、その人が鞄から取り出したのはノートパソコンだった。新品特有の小奇麗さはなくて、代わりに使いこまれた雰囲気のあるそれが開かれる。
「あっ、名前なんて呼べばいい? さくらちゃん?」
「えっと……特にこだわりはないので、それで大丈夫です」
「分かった。じゃあ、さくらちゃんね」
それで会話が終わってしまった。なんだか勝手に気まずくなってしまう。どうしよう、なんて言おう。
「……あの、そちらは、なんて呼べばいいですか?」
迷って、聞いたのは呼び方だった。敬語じゃなくていい、と言っていたのを覚えていたから迷ってしまって。
「好きに呼んでいいよ、って言っても困っちゃうか」
迷うように顎に手を当てて「そうだなぁ」と言ったその人は、しかしすぐに答えを見つけたようだった。
「千尋さん、って呼ばれることが多いから、そう呼んでくれたら反応しやすいかな」
「じゃあ、そうします」
こくりと頷く。そんな私を見た千尋さんは、またにっと笑った。ちょうどそのタイミングで、講義開始を知らせるチャイムが鳴った。
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