実らなかった恋 ※辻村視点

 沙羅が家庭に問題を抱えているのはなんとなく察していた。愛情に飢えた女性は皆どこか寂しい目をしているものだ。


 沙羅とは気まぐれに顔を出していた大学の写真サークルで出会った。

 学生時代は、アルバイトで金を貯めては、海外に出るという不規則な暮らしをしていた。実家は裕福で金に困ったことはない。両親は息子の型にはまるのが苦手な性質を理解していたのか、自由にさせてくれた。


母子家庭から返済不要の奨学金を勝ち取り、堅実な人生を歩みたいと願っている沙羅とは、価値観がまるで違っていた。


沙羅に興味をもったのは、彼女の撮る写真が放つ独特の暗さだった。すごくうまいわけじゃない。ただ重くて暗かったのだ。それで気になった。

なんてことない風景も撮り手の意識が入り込むことがある。朝露に濡れた花びらでも、夕闇に染まる街といったありふれた被写体でも。


──きっと寂しい子なのだろう。


知りもしないのに、勝手に推理した。その予想が当たっていることをのちに知った。


裕福な学生が多い中、沙羅はバイトに明け暮れていて、やがてサークルにも来なくなった。すでに将来を見据えて、そのために勉強していると聞いた。


理由はわからないけれど、沙羅に惹かれ始めている自分に気づくのにそう時間はかからなかった。


 根無し草のような自分と、地に足をつけてじりじりと進んでいく沙羅。

 惹かれてはいても、彼女の人生に自分のようないい加減な人間は入ってはいけないような気がしていた。


 サークルをやめた沙羅を個人的に呼び出した。一緒に写真を撮らないかと鎌倉の紫陽花祭りに誘った。バイトを終えた沙羅と待ち合わせして一緒に鎌倉へと向かう。


 古都の雰囲気を楽しみながら、これからのことを話した。


「アフリカに行くって聞きましたよ」

「そう。どうしても学生のうちに行っておきたくてね」


 タンザニアに発つ前、沙羅を呼び出した。好きだと言いたい気持ちと、将来やりたいことも定まらないまま告白されても迷惑だろうと言う気持ちがあった。


「やりたいことがさっぱり見つからない。けどそんなこと言ってる場合じゃなくて、まずやりたくないことをやらねばならないと気づいてね」

「贅沢な悩みですね。私やりたいことなんて考えたことないな」

「わかってるよ、自分の傲慢さは。禊としての学生最後の旅だな」


 モラトリアムなんて言えば聞こえはいいが、要するに普通の会社員はどう考えても向いていないし、両親もわかっているから敢えて自由にさせている節がある。


「沙羅は?」

「私も夢なんてありません。ただ自立できればなんでもいいんです」

「俺と違って真人間だからね、どこへ行ってもやっていけるよ」

「……私は人より恵まれているわけじゃないから、地べたを這いずってでも進まないと、普通に辿りつけないんです」


 その言葉に、沙羅のこれまでの人生が容易なものではなかったことを知る。自分の知らない寂しくて悲しい過去がきっとあるのだろう。

 それでも、いや、だからこそ、やはりこの子が好きだと思う。


「俺は恵まれてるんだと思う。けど自分が何者でもないことに焦って、世界を回って考えてるのかもしれない」


 本当はまず自分が何者でもないことを認めることからしか、なにも始まらない。そんなことが分かり始めた時期でもあった。


「私のぶんも見てきてください。辻村さんがいつか見せてくれた沙羅双樹の花の写真、素敵だった。あれを見て、私自分の名前が嫌いじゃなくなりました」

「どうして嫌いだったか聞いてもいい?」

「父がつけてくれた名前なんです。でも父親は私と母を捨てて、別の女性のところへ行ってしまいました。諸行無常って感じがするでしょう?」


 沙羅が寂しそうに笑う。人に話すのも勇気がいるはずだ。


「名前は君の父親が選んだものかもしれないけど、その意味は自分で決めたらいい。……こんなこと言ってもなんの慰めにもならないよな、ごめん」


 無神経だったかもしれないと、言葉につまる。


「でも、変わるからこそ尊いものもあるってわかってます」

「うん」

 無言のまま沙羅の手をそっと取り、歩き出す。


「辻村さんがこれから見る景色も、人生でただ一度しか見れないものなんでしょうね」

「キリマンジャロを見たいんだ。熱帯雨林に砂漠、そして氷雪地帯。一つの山なのに、いろんな顔を見せてくれる」

「素敵でしょうね」


 鮮やかな青色の紫陽花に囲まれた細い道はいつのまにか人気が途絶えて、二人だけだった。

 沙羅の頬に手をやる。自分でも少し震えているのがわかる。


「帰ったら、写真を沙羅に見せたい」

「楽しみにしています」


 その柔らかな微笑みに、耐え切れずキスをした。


「待っててくれる?」

「はい」


 帰国したら、きちんと告白しようと思ったが、それは叶わなかった。 


 タンザニアに滞在し、望み通りキリマンジャロを堪能したあと、帰国するために空港へ向かうタクシーが事故に巻き込まれ重傷を負った。

 現地の病院に入院し、一時は生死を彷徨った。

 帰国後も延々と続くリハビリにもう元の生活には戻れないと絶望する日々だった。幸いにして、賢明な医師のもとなんとか後遺症がほとんど残らず回復するまで二年が必要だった。


 治療中、何度も沙羅のことが頭をよぎったが、連絡しなかった。

 数年後、風の噂に沙羅が婚約したことを知り、彼女の求める不変の愛を与えてくれる人が見つかったのだろうかと、寂しさと安堵の入り混じる複雑な気持ちになった。


 どの道、縁がなかったのだと仕事に没頭して忘れるしかなかった。


その後、写真家のアシスタントやバリスタなどさまざまな職を経験して、独自のコンセプトのフラワーショップを開業した。花を通じて、人々に美しい瞬間を提供したいと思ったからだ。


 思わぬ沙羅との再会、そして彼女が求めた変わらぬ愛情は、結婚生活では得られなかったと知り、歯止めが効かなくなっている。

 そばにいるべき時に、別の女といるという沙羅の夫に怒りを覚えた。


 弱った沙羅の心につけこんでいる自覚はある。そのどうしようもなく寂しい心に共鳴するように、昔の恋心が蘇るのを止められないでいる。

 沙羅が一時でも気を紛らわせるなら、自分を利用してくれても構わない。

 これ以上沙羅の夫が沙羅をないがしろにするなら、相応の代償を支払ってでも沙羅を奪い去る覚悟はできている。

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