迷い
夫は浮気などしていないと言う。おそらく嘘だとわかっていたが、濃いグレーでも黒とは違う。信じている振りを続ければ、いつかなかったことにできるかもしれない。
誠が沙羅と別れたくないということは、おそらく本当なのだろう。
不妊治療に前向きになったと言われても、もう治療する気はなくなっていた。
女性が子を産める時期はそう長くはない。だからこそ悩んできたのに、不倫を疑われたから協力すると言われても、嬉しいはずがない。
父が最初に不倫をした時、母は疑いをぶつけ、泣きわめき、父をなじった。
その必死さは恐ろしい記憶として沙羅の心に残っている。愛を失うことは、命の危険と同じくらい重いことなのかもしれない。
沙羅は、傷ついてもなるべく顔に出さないように生きてきた。それは、母の激しい怒りや嘆き悲しみを目の当たりにしたことで、沙羅は冷静を装うしかなかったからだ。
自分勝手に家庭を荒らし出ていった父と、不安定な母。二人とも沙羅のことを考える余裕はなかったのだ。
幼少期の経験のせいで感情を押し殺す癖がついている。
過去のトラウマから真っ向から話し合うことができなくなっていた。誠を疑いつつ、平静を装い、今もまた釈然としないまま納得したような振りをする。
事を荒立てたくないのは悪い癖だ。真帆ならきっと全部ぶつけて、そこからまた立ち上がるだろう。
自分に自信がないから、全部ぶちまけて、壊れてしまうのが怖い。ただ立ち尽くし、嵐が去るのを待つしかできない。そんな自分が大嫌いだ。
──こうやってごまかして、なにもなかったことにしてやり過ごして生きていくのかな。
それは少しずつ自分を殺していくのに似ている。
ふと辻村のことを思い出す。あの日、沙羅が泣き止むまでそばにいてくれた。
誰かの前で泣いたことなど、これまでの人生であっただろうか。沙羅にとって、怒りや悲しみは一人で抱えるものであって誰かに見せるものではなかった。
13年ぶり、二度目のキス。これ以上進展してはいけない。けれど静かに一人で胸の中にしまった記憶を反芻するくらい許されるだろう。
一度目にした時は、そのまま辻村はアフリカに行ってしまい、連絡が取れなくなった。
母の病院から送ってくれたあと、車の中で訊いてみた。
『帰ったら、連絡するって言ったまま連絡くれなかったのどうして?」
『事故に遭ってね、生死を彷徨った。そのあともずっとリハビリで好きな子に連絡なんてできる状態じゃなかったな。今となってはもう笑い飛ばすしかないけどね』
『そんな……大丈夫だったんですか』
『見てのとおり、こうして生き延びて普通に暮らしてる』
『生きていてくれてよかった』
てっきり、沙羅のことなど忘れてしまったのだと思った。
お互いの気持ちもわからないうちに終わってしまった淡い恋だった。
もしも辻村が事故に遭わなかったら違う未来があったのだろうかと、不毛な妄想にとらわれる。
──なにを馬鹿なことを考えてるんだろう。もう道は分かれたというのに。
その晩、誠に求められ、これを耐えればまた疑いのなかった頃に戻れるかもしれないという思いがよぎったが、結局受け入れられず具合が悪いと拒否した。
ペタルアトリエに現れた麗香が、品定めするような目で沙羅を見たことを思い出したのだ。
きっと婚約者がいるというのも、誠の嘘なのだろう。だからと言って、証拠もない。
──このまま自分をごまかして一緒に暮らし続けるの?
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