二度目のキス

 同時に沙羅と母親の暮らしは貧しくなり、家は荒れていった。

 受け入れがたい現実を受け入れ、心に毒をためた母親が蝕まれていく姿は、子供心に恐ろしかった。


 誠と喧嘩をしてでも問い詰められないのは、あの経験があったからかもしれない。現実を見たくない。嘘だと言われたら、きっと信じた振りをするかもしれない。


「もうこちらには帰らないから」


 最後にそう言って父が出ていった時、母子は嵐の中の小舟に取り残されたようなものだった。


 母にはつかむべき手が沙羅の小さな手しかなく、沙羅もまた母ゆえに強いふりをしているだけのボロボロに傷ついた母の手を握り返した。


 優しく温和だった母は人と付き合わなくなった。人は不幸な姿を知られることで余計に傷つくのだと知った。


 小さな家の中で病んでいく母を助けることも、自分は自分と切り離すこともできず、真っ暗な世界に二人でうずくまるような気持ちで何ヵ月も過ごした。


 しばらくは父親が、申し訳程度に仕送りを続けてくれたが、やがてそれも途絶えた。

 愛を失うことは、生活の基盤を失うのと直結していたのだという事実に愕然とする。

 心変わりとは、なんて残酷なんだろう。


 ご飯を食べている時、母親が子供と心中するニュースが流れた。

 思わず箸が止まる。

 なんだか自分たちの成れの果てのようにも思われて背筋が凍りつく。

 このままだとそうなってしまうかもしれない。


「大丈夫だよ、そんなことしないなら」


 母がぽつりと漏らした。自分がそんなふうに思ったことが恥ずかしくなり、下を向いた。

 手で顔を覆い、大声で泣き始めた母にしがみついて一緒に泣いた。


 そのあとしばらくして、母は仕事を見つけ、表面上はなんとか日常を取り戻した。


 大学は行かずに働くという沙羅に、お金はどうにかするからと進学を勧めてくれた。結局返済不要の奨学金を勝ち取って、なんとか大学へは進めたが、心の奥に傷ついた子供のままの自分がいる。


 大学に入り、ほんの一時サークルにも入ったが結局バイトが忙しくてすぐにやめてしまった。

 それに、なんだか同年代の子たちが眩しすぎていたたまれなくなって逃げるような気持ちもあった。

 地方から東京の大学に来るような子は皆裕福で、深刻な悩みなんて誰一人抱えていなそうだった。


 一人でいる時より、そんな学生たちに囲まれてワイワイしているほうが余程孤独を感じたものだ。


 辻村に声をかけられ時々二人で会うようになったのは、そんな頃だった。

 学生のうちにアフリカに行きたいという辻村に、帰国したらまた会いたいと言われ一度だけキスをした。

 けれどその後連絡はなく、一度だけ送ったメールにも返事は来なかった。

 始まりもせずに終わった淡い恋だった。


 恋愛だったのかもわからない。

 ただ従業員に親切にしているだけとわかってはいても、心に隙間風が吹く今、親しくしすぎるのは危険だと思った。


──辻村さん、まだ待っていてくれているのかな。


 ただの従業員の沙羅のために仕事を抜けて、車を出してくれた。親切にしては少し度が過ぎている。噂好きのパートさんになにか言われるかもしれないと思う。


[終わりました。電車で帰るのでご心配なく]

[まだいるから、待ってて]


 すぐに辻村が病院の近くまで迎えに来た。


「少し話さないか」


 近くの公園で二人きりで話す。

不安で辛い時に、頼るべき夫はおそらく誰か知らない女性といる。沙羅は沙羅で、辻村に再び惹かれ始めている。


 独身の辻村がわざわざ既婚の沙羅に手を出すとは思っていないが、こんな時に優しくするのはよくない。心をもっていかれてしまわないよう、自分を律しなければ。

 

 ──ただ心配して車を出してくれただけなのに。


「ごめんなさい」

「謝ることじゃない。緊急だったし」

「いいえ。二人でいると噂になっちゃう。辻村さん女性スタッフに人気だし」

「俺は独身だから構わないけど、沙羅はもう人妻だからな」


 冗談めかして言ったのに真面目に返されて、ドキリとする。


「俺が口出すことじゃないけど」


 静かな低い声が誰もいない公園で響く。


「旦那さんとちゃんと話した方がいい。男は甘やかした分だけダメになるから」

「はい」

「沙羅は我慢しすぎる。わがままで男を振り回すくらいがちょうどいい」


 もう溜めこんだ感情の渦に呑まれて窒息しそうだ。


「多分、怖いんです。自分の不幸を認めるのが」


 両親の離婚で傷ついたからこそ、よき妻でいるために努力してきたと思う。不満をぶつけたこともない。けれど誠に自由を許してきたことが、今に繋がっているのかもしれない。


「沙羅は、悪くないよ」

「もうこれ以上優しくしないでください。辛くなるから」

「そんな顔されたら、ほっとけないだろ」


 気づくと抱きしめられていた。


「駄目です」


 押し返そうとしても、辻村は離してくれない。


「ただの充電。沙羅はもう愛情の電池切れでフラフラしてるんだよ」


 これはいけないことだ。そうわかっていても、今はこの広い胸に抱かれて思い切り泣くしかできなかった。

 心地よい体温と力強い腕にくるまれ、確かに満たされていく何かがあった。

 今だけ。現実と向き合うだけの勇気が欲しい。


 涙で濡れた頬を大きな手が包み、静かに唇が重ねられた。13年ぶり、二度目のキスだった。

 

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