傷ついた思い出

 沙羅はリビングでもうすぐ帰宅する誠のための食事を用意していた。


 今日、本店に移ると同時に辻村からは正社員にならないかと誘われた。

 昔のよしみというわけではなく、今の沙羅の仕事ぶりを評価してくれているのがわかり、嬉しかった。

 沙羅が担当しているSNSのフォロワーはうなぎのぼりで増えていた。

 ペタルアトリエの魅力がより伝わるように考えて、写真を撮るのは楽しい。


だが、今休んでいる不妊治療を再開するには、正社員になると難しくなる。

 多忙になるとホルモンバランスも乱れやすいというし、そろそろ誠と話さなければならない。

 もう以前ほど治療に前向きではない。理由はもちろん夫への不信感だ。


 夕飯のあと、誠に話を切り出した。無意識に誠の反応を注意深く窺っている自分がいる。

 

「あのね、経営者の人に正社員にならないかって誘われたの」

「へぇ。あまり激務ではいならいいんじゃない。最近ふさぎ込んでたから心配してたんだ」


 それは、あなたのせいだと言いたくなる気持ちをこらえて、聞いてみる。


「お医者さんからは、やっぱり治療するなら早い方がいいって」

「うん。そっちも考えてみるよ。沙羅も仕事あまり無理しないように。家事は手伝うから」


 あまり気乗りのしない様子で話を切り上げた誠に、失望が深くなる。具体的な話にはならなかった。

 そろそろ誠との子を望む未来以外も考えないと心が押しつぶされそうだ。仕事に打ち込んで忘れるほうがいいかもしれないと思い始めている。


 就寝前、寝室に置いてある新品のネクタイが目に入る。誠が選ぶにしては派手だ。


「これ、どうしたの」

「うん。この前大きな仕事取ったから、お祝いに会社の子にもらった」

「女性?」

「いや、部下数名から合同で」


 嘘だ。根拠はないけれど、そう確信する。


「そう」

「あと今週の土日、出張になったんだ。ごめん。これで仕事もひと段落するから、次の連休は旅行に行こう」


 嬉しくもないのに顔に笑みを張り付ける。こんなふうになったのはいつからだろう。

 その夜、沙羅の体に手を伸ばしてきた誠を「疲れているから」と拒絶し、体を離した。なんだか言い訳めいた行動に思えたからだ。

 誠が寝た後、こっそり鞄の中を見ると、一番奥のポケットからメッセージカードを見つけた。


[土曜日、楽しみにしています。ネクタイしてくれると嬉しい]

  

 女性の文字だった。灰色と黒では大分違う。疑いが疑いであるうちは、考え方次第でなかったことにもできる。だが、知ってしまったらもう戻れない。


☆沙羅の仕事中に母親が倒れる。 


 誠が出張だと言って、出ていった土曜日。

沙羅はペタルアトリエのカフェコーナーに立ち、自分が選んだ茶器とテーブルクロスに目を落とした。

工芸茶が映えるガラスのポットは、舌だけでなく目にも幸福をもたらしてくれる。


この店で提供すべきものは非日常でのひとときの安らぎなのだと、辻村が語った言葉を思い出す。裏方で働く身としては、楽しむ側ではなく楽しませる側なので、きついこともあるが、それ含めて充実した仕事だった。


テーブルクロスは、ナチュラルなリネン素材で、淡いモーヴ色が花々の色と調和している。お客様の属性によって、食器を変えるなどきめ細やかなサービスをしていた。

気づく人がいなくても、そういう気遣いがまたの来店を促しているように思う。

 

正社員の件は引き受けようと思い始めていた。誠に女性の影がちらつく以上、もしもの時に備えて経済力も必要になる。

本気か遊びかわからない。


──どうして私は何も言えないんだろう。


家にいたら誠への疑念で胸が押しつぶされていただろう。なにも解決してくれないとしても、美しいものは人の心の支えになる。

同時に、こうやって見ない振りをすることで、表立って波風を立てずとも、自分の中でなにかが死んでいくのをひしひしと感じている。


──向き合っていないのは自分も誠も同じなのかもしれない。けれど今向き合って、自分が壊れずにいられる自信がない。


 問い詰めて、女性と別れてもらって許すのか。それとも許さないで離婚するのか。

 自分のことなのに、現実味を感じない。

 そもそも本当に誠は不倫しているのだろうか。自分の被害妄想ではないのか。


 ぐるぐると回る思考を止めて、仕事に集中する。

 カフェのスタッフがお湯の温度を丁寧に確認して、ポットに注ぐ姿は様になっていて、わざわざ遠くまで足を運んで選んだ甲斐があったなと思う。


 季節ごとにインテリアの配置を変えて、常連客にも飽きさせない工夫がしたい。どんなふうに店内を彩ればいいか、頭の中で思いを巡らせる。


 休憩時間にスマートフォンを見ると、知らない番号から何度か電話が来ていた。かけなおすと、病院からで母が倒れて運ばれたらしい。 

 辻村のいる部屋に行き、早退させてほしいと言いにいった。 

 今日は比較的シフトに余裕がある日でよかった。


「どうした?」

「あの、母が倒れたって」


 顔面蒼白の沙羅を心配そうに辻村が見た。


「旦那さんにも連絡しないとだな。電車だと時間がかかるだろう」


 その瞬間、隠し切れないほど表情が凍り付いた。夫は今頃、おそらく別の女性と旅行に行っている。


 母一人、子一人だったぶん、普通の母子より精神的な繋がりが強い。依存と言ってもよい。母親は年を取るごとに、沙羅を必要としていた。


「夫はいいんです」


 なんでもないように言うのは難しかった。きっと顔に出ている。


「早退します。申し訳ありません」


 すぐにでも駆け付けたい。


「……車出すから、乗って」


 母が運ばれた病院は在来線を何度も乗り継ぐし、駅からも遠い。車であれば大分時間を短縮できるが、そんなことを頼むわけにはいかない。


「駄目です。そんな、仕事なのに」

「俺がそうしたいんだ。その方が早く着く」


 辻村は仕事をキャンセルし、沙羅に付き添うと言う。

 スタッフにするには、少し行き過ぎている。噂になるかもしれないと思った。


 渋る沙羅を強引に自分の車へ乗せ、二人は病院へ向かった。母が倒れて心細い中、別の女性といる誠に連絡できなかった。

 電話したら遅くなったとしても来てくれるかもしれない。けれども、沙羅にもプライドがある。


「旦那さんが来れない理由、聞いていい」


 運転しながら、一番痛いところを突かれる。けれど一人で抱え込むには限界だった。それでも辻村に言うのは、不適切だろう。

 辻村に自分が不幸な結婚生活を送っていると思われたくない。不幸そのものより、不幸だと人に知られることのほうが、時に辛いこともある。


「ごめん。出すぎた質問だった」


 決してプライベートに踏み込んでこない辻村が初めてした質問だった。その申し訳なさそうな言い方につられて、つい口がすべった。


「夫は別の女性と出かけてるみたいです」

「そうか」


 まるで予想通りだったかのように、なんの驚きも感じられない声だった。もしかしたら、隠し切れない寂しさがにじみ出ていたのかもしれない。


 車を二時間走らせ、病院に辿りついた時にはもう夕方だった。


「帰りは大丈夫ですから、帰ってください。本当にありがとうございました」

「いいから早く行ってあげて。帰る時は連絡して」


 そこらへんで時間を潰していると言って、辻村は去っていった。

 面会の手続きをして、病室に着く。点滴をしてベッドに寝ている母親がいた。


「沙羅、迷惑かけたね」


 顔色は悪いが、まずは意識がしっかりあることに安心する。


「大丈夫なの」


 意識があることに安心をしたが、医師から病状を説明されるまでは安心できない。


「一人で来たの? 誠さんは」


 土曜日で本来仕事は休みだから当然訊ねられる。


「仕事で連絡がどうしてもつかなくて」

「忙しいのね、仕方がないよ」

「心配だから、しばらく病院の近くのホテルに泊まろうと思う」


 母は誠を気に入っていて、あの人なら沙羅をずっと守ってくれるよと結婚前から言っていた。

 

「駄目よ。私より誠さんを大事にしないと」

「こんな時はお母さんを優先させてよ」

「ただ疲れがたまっただけだから」


 父親に裏切られた母は、沙羅が平穏な結婚生活を送っていることがなによりの安心材料なようだった。本当のことなど言えるはずがない。


 医師からはいくつか検査をするから、また来週来てほしいと言われた。暗に病状が悪いことを仄めかされ、絶望的な気持ちになった。


 実家の父に恋人ができて、家庭が荒れ始めた頃のことを思い出す。

 だんだん帰りが遅くなり、土日も出かけることが増え始めて、母は常にピリピリしていた。夜中に言い争う声で目を覚ますと、母が父を問い詰めていた。


『沙羅だっているのになにを考えているの! 私たち家族はどうでもいいって言うの』

『俺だって安らぎが欲しいんだ。家にいたってお前はイライラしてばかりでもう疲れたんだよ』


 刃物のような言葉の応酬に耐え切れず耳を塞いで、布団に潜り込んだ。


 翌朝起きると、両親はなにもなかったような顔をしていたが、家の中の温度が一気に下がったような気がした。

 そのあとも、表向きは普通の家族のようにふるまっていたが、ある時を境に父は帰らなくなった。

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