不貞のきっかけ

「最近、婚活はうまくいってるの?」


 泉誠は情事を終え、隣でまどろむ部下の麗香に声をかける。深い仲にある女性に、そんなことを聞くのは、お互い本気じゃないという意思表示と確認のためだった。


「いいえ。全然。いい人はみんな結婚が早くて」

「麗香ちゃんの理想が高いんじゃない」


 ホテルの一室で、麗香とそんな会話をする。婚活の話をすると最近麗香は少し不機嫌になるが、こんな話題を時々振らざるをえない。


 麗香と初めて寝たのは、妻の沙羅が不妊治療を始めてちょうど一年目のことだった。

やれタイミング法だ、卵子の数は限られているなど医学的な話と性行為を結び付けられ、なんだかそんな気分になれずにいた頃のことだ。

飲み会で酔いつぶれた麗香を送っていき、そういう雰囲気になってしまった。


 麗香は結婚願望が強く、条件が合う男性を紹介してくださいなどと普段から誠に言っていたくらいだから、特別な好意を抱いてくれていたわけではないだろう。

 ただお互いの欠落が、その時重なってしまい、以来関係を続けている。終わった後はいつもこれきりにしようと思うのだが、結局退屈な日常に刺激を与えてくれるものを求めていた。

 

「泉さんの奥さんの妊活はうまくいってるの?」


 探るように麗香がきく。麗香も今年で29歳だから、そろそろ周りが気になり、焦り出す頃だ。だからこそ別れを切り出したこともあるけれど、婚活のストレスの息抜きだからと言われずるずると付き合っている。


「さぁ……そもそも最近してないから」

「それって、私としてるから?」


 麗香が身を乗り出して、嬉しそうに訊く。その様子を見て、そろそろ潮時だなと思う。ただの婚活のストレス解消でいるうちはいいが、情が移るとまずい。


「いや、わからない」


 自分でもわからなかった。けれど沙羅の真面目さに少し気詰まりしていたのも事実だ。結婚生活で徐々に色あせていくときめきや欲望を麗香で補充している。

 結婚した時は、沙羅を守り抜くと決めたが、どうしてこうなったのか自分でもわからない。 


「真面目そうな泉さんでも、私とこんなことしてるんだもん。結婚なんてしなくてもいいのかなって思っちゃう」


 自分のことを棚に上げた麗香の発言に少々反発を覚えるが、自分も同じ穴のむじなだ。

 本当なら不妊治療について沙羅ときちんと話し合って、向き合うべきだ。自分は無理してまで欲しくないと言えば沙羅は泣くだろうと思うと、ずるい自分に負けてしまう。

  

 誠にとって沙羅が一番大切なのは変わらない。年賀状で友人に子が生まれたことを知るたびに、親戚の集まりで子供はまだかと言われるたびに、ひどく落ち込んでいる姿を見て、沙羅の気持ちがわからないと思う自分がいた。


 長い時間と費用をかけずとも、自然妊娠ができないなら諦めて夫婦で仲良く暮らす。誠にはそれが最善に思えた。

 だから男性不妊の検査のため、産婦人科に行ってほしいと言われ、そこで何をするか知り、逃げたくなった。


 子は授かりもの。無理をしてまで望まない。

 だか沙羅にそれを言うのはためらわれた。残酷な言葉だとわかっていたから。

 価値観の相違。異なることは愛情の妨げにはならない。けれど子供は一人では作れないようになっている。


☆転機


 仕事を始めて一か月。

 辻村と会うことはほとんどなかったが、沙羅が撮った写真を送ると丁寧な感想をつけて返してくれる。

 そのうちの一枚がSNSで広まり、集客に繋がったと言う。


[すごいよ。カフェのハーブティーと本を花と一緒に移した写真。閲覧が300万件超えてる。テレビと雑誌から取材が来たよ]

[お店のコンセプトがうけただけですよ]


 沙羅がしたのは、お店の雰囲気をそのまま映すようにしただけだった。

 素敵なお店だから、素敵な写真が撮れた。それだけのことだった。


 辻村は芸能人の結婚式や企業のイベントで会場を彩る仕事をしていて、店舗には月1回程度顔を出す程度だった。

 時々やってくる辻村に店員たちは緊張しても、その柔らかな人柄を尊敬していることは伝わった。

 今日は辻村がやってきて、スタッフルームで会議する日だった。


 正社員でもアルバイト店員でも辻村は有益な意見には耳を傾ける。

 こういう謙虚な姿勢には皆好感を抱いていた。仕事のクオリティには厳しいが、人としての器は大きい。


 学生時代、あちこち旅していた経験も関係しているのだろうか。

 あの頃はろくに就活もしない辻村を馬鹿にする人もいたけれど、今では立派に社会に貢献している。


「もっと厳しいことを言われると思ってました」


 一枚一枚写真を送るたびに、きちんと丁寧な感想をつけてくれた。時にはNGが出ることもあったけれど、納得のいく理由を説明してくれた。


「厳しさも必要だけど、あんまりやりすぎると委縮しちゃって創造性が失われるからね」

「そうかもしれません」


 たとえアルバイトが出した意見でもいいと思えば採用し、能力があるスタッフの報酬はすぐに上げた。

 時々普通の職場であるような争いもあったけれど、皆ペタルアトリエを愛していた。


 沙羅も今までしたどんな仕事より、没頭することができた。辻村はバイトの沙羅にも色々提案させた。

 今後茶器や、テーブルクロスなどの選定もしてほしいと言われた。

 前職で学んだことも多少生かせることが嬉しくなる。

 それに、辻村は心から褒めてくれる。それは沙羅に限ったことではない。


 ──こういう経営者だと従業員も頑張っちゃうだろうな。


 仕事はお金のためにするものだけれど、やはり人が喜んでくれる仕事はいいものだ。お客さんの満足そうな顔を見るたびに、幸せのおすそ分けを貰える。


「あの、平日だけって話だったんですけど、必要なら今後は土日も入れてもらって大丈夫です」

「いいの? それは助かるけど」

「はい。私今すごく楽しくて、いえ、充実していて、もっと頑張りたいんです」


 もともと平日しかシフトを入れていなかったが、誠が休日も仕事の付き合いをすることが増えて、思い切って土曜日も仕事を入れることにした。


 会議を終え、一日の営業がスタートした。今日はカフェのほうが混んでいたので、そちらの仕事を手伝うことになった。


 カフェではカレーやパスタなども出しているから、ランチ時子連れの主婦もたくさん来る。以前ほど子供を見ても辛い気持ちにならなくなっていた。

 満たされない気持ちが不妊治療をより辛いものにしていたのだと気づく。

 子供が欲しい気持ちは変わらないが、それを全てにしては余計苦しくなってしまう。


 今日はやんちゃそうな男の子が二人、店の中を探検している。

 おしゃべりに夢中な母親から離れて危ないことをしないように、ハラハラしながら見ていた。


 そのうち一人が走り出して、ガラスのショーケースにぶつかった。ショーケースがぐらついたのを見て、沙羅は走り寄った。


「危ない!」


 男の子を手で押すと同時にショーケースを支えようとしたが、遅かった。

 ゴンという思い衝撃と共に、床に倒れこんだ。


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