< 第二章 > - 先遣 -
前回、循環について話をしたが、この循環というシステムがもたらしたものは、生物にとって非常に大きな貢献を果たした。
しかし、実際にそうなのだろうか。
泡細胞が桜雲星に誕生してからこれまで、生物たちは酸素無しで生きてきた。小さいながらも、懸命に栄養を摂り、生存圏を広げ、捕食し捕食される関係とは言え、生態系という一つの大きな社会を作り上げてきたのだ。
彼らの主なエネルギーは硫化水素をはじめ、鉄やメタン、アンモニアなどを酸化する(電子を奪う)ことで得られていた。
ところがそこに突然、酸素を大量に作り出すものと、酸素を大量に消費するものが現れたのだ。
酸素無しで生きてきた泡細胞や異微、原核泡生物たちにとって、この酸素は死に至る毒物であり、不要なものだったのだ。
それを好き放題撒き散らすものと、それを大量に消費して我が物顔で闊歩するもの、まさに無法者の登場である。言わば有毒ガスをまき散らしながら街を練り歩くテロ集団のようなものだ。
このテロ集団が酸素という毒物で環境を破壊し、泡細胞や異微、原核泡生物たちを安住の地から追いやっていったのだ。
住処を追われた泡細胞や異微、原核泡細胞たちは、酸素に耐性を持つか、もしくは深海や地中深くの酸素が届かない場所へと逃げ込むかの二択しかなかったのだ。選択をしなければ、死滅するしか道はなかった。
いや、彼らに選択の余地はなかったのかも知れない。「選択するのではない、選択されるのだ」から、彼らに選択肢が与えられることもなかったし、そもそも彼らに選択権なんてなかったのだ。
生物にとっての進化とは、他者を追いやることなのである。それが現実である。
私が大学で学んだ進化の神髄がまさにこれなのだ。進化とは残酷で恐ろしいものであると。
「選択するのではない、選択されるのだ」、選択されたものだけが、この世界を我が物顔で闊歩することを許される。まさに自然淘汰、弱肉強食、優勝劣敗、適者生存の理であり、「動物性真核泡細胞」と「植物性真核泡細胞」はこうしてこの地位を勝ち取っただけなのである。
いずれにしても、「動物性真核泡細胞」と「植物性真核泡細胞」はこの世界に誕生したのだ。今更時間を巻き戻すことはできないし、たとえできたとしても、意味はない。
なぜなら、進化の方向が環境耐性の獲得に向いているだけでなく、他者との生存競争に打ち勝つことでもあり、自分の子孫を生存させることが至上の命題となっているのだから。たとえ戻したとしても、同じことが起こるはずなのだから。
とにかく、彼らは自分たちの生存環境を自ら作り上げていったのだ。環境耐性を身につけるのではなく、自分の住みやすいように環境の方を変えてしまったのだ。
人間の社会で、世の中生き辛いからと言って、好き勝手に世直しをしていたら、それは犯罪であるし、単なるテロリストである。
しかし、生物の世界では、弱肉強食、優勝劣敗、好き勝手に世直ししても、他者を駆逐すれば、それが正義なのである。
こうして、「テロリスト」たちが自分たちの都合の良いように環境を変え、酸素という高エネルギーを生み出す物質を手に入れたのだが、彼らの進化はもちろんこれで終わりではない。
彼らの命題は子孫の生存である。細胞一つだけで生きていくよりも、仲間と協力して生きていく方が生存競争に勝てると踏んで、群体というコミュニティを作り出したのだ。しかし、以前にも話をしたとおり、このコミュニティは意思の疎通が取れずに破綻をしてしまう。
そこで、彼らは仲間とコミュニティを作るのではなく、自分自らが分裂増殖して、多細胞化していったのだ。すると、細胞同士の意思の疎通がきちんと取れる多細胞生物が誕生し、生存率も格段と向上した。
やがて、それぞれの細胞が役割分担を固定化し、分化していくことで、更に生存率を上げ、形質も様々に変化していった。
㎛単位の小さな単細胞生物が、数㎝から数mにまで巨大化していく様は、まさに圧巻と言うほかなかった。
気がつけば、形状も細長いのから、丸っこいの、平べったいの、またウニみたいに棘が沢山出ていたり、全身を繊毛で覆われていたりと、ありとあらゆる形状の生物が誕生していた。
まさに百花繚乱、百花斉放である。その種類は私の把握できる数を遙かに超えてしまっていた。自動計数の能力でもあれば正確に把握できるのだろうけど、そんな能力はないし、まぁ正確に把握したところで大した意味はないから、まぁいいか。
彼らの進化を促した要素は多岐にわたり、多細胞化、環境耐性の獲得、生殖方法の進化などが含まれるのだが、その中でも最も重要な要素は、光合成をおこない、高エネルギー源である酸素を生み出す生物が現れたことである。更に、この酸素と言う高エネルギー源を利用できる生物が出現したことも大きな進化の一歩だった。
植物性真核泡細胞から多細胞の植物に進化したことによって、利用できるエネルギーの量が格段に増えた。無尽蔵とも言える水と光を利用することでエネルギー源を確保できるのだから、これに飛びつかない手はない。
これまで利用してきた、硫化水素や鉄、メタン、アンモニアなどをエネルギー源の主体から外し、様々な植物が我先にと「水」をエネルギー源の主体に切り替えていったのだ。
こうして、エネルギー源を確保した植物たちは、大量の酸素を水中に放出し、環境を大幅に変えていった。酸素が大量に放出されたことにより、水中にあった鉄イオンがドンドン減少し、硫酸イオンはドンドン生物による循環システムに利用されていった。更に水中の塩分濃度も水循環によってドンドン低減していき、まさに環境の大変革が起こったのだ。
この環境の大変革にいち早く対応したのが、動物たちである。
単なる小さな多細胞に過ぎなかった動物たちも、徐々にその形質を変化させ、餌の獲得が有利になるように、運動機能や消化器系などを発達させ、餌の捕獲から消化吸収までを効率化していった。
更に、他者よりも大きくなれば、自分が食われないで、食物連鎖の頂点に立てるとでも思っているのか、巨大化競争に拍車がかかっていったのだ。
様々な形質の出現と、巨大化競争によって、第一次生物爆発時代へと突入した。このように、動物たちが弱肉強食を絵に描いたような、食うか食われるかの世界を展開していたのに対し、植物たちは相変わらず小さな多細胞のままで、フヨフヨと平和に水中を漂っていただけだった。もちろん動物に捕食されるものも多数いたので、平和だった訳ではないが。
こうして水中の世界は、生存競争を勝つために様々な工夫を凝らした形質の、様々な生物たちが出現し、一挙に賑やかな世界へと変貌していった。その一方、次の段階の準備に入るものたちがいた。
そう、誰よりも準備が早かったのが、異微たちである。
そして、何の準備かというと、上陸である。
良く物の本には、「生物は新天地を求めて上陸した」などと簡単に書かれることも多いが、実際にそんなことはなかった。彼らが上陸したのは、単なる偶然であり、環境耐性への過酷な進化を遂げた、その果てでのことだったのだから。
当然、彼ら異微の上陸が一朝一夕で実現した訳ではない。
過酷な進化を長い年月をかけておこない、上陸できる形質に変化していかなければならなかった。
私は、上陸しようとするこの異微たちを「異微特殊部隊」と呼ぶことにした。まさに軍隊のごとく「進化」という名の過酷な訓練に耐え、生き延びたものだけが新天地に辿り着ける、先遣隊を任された特殊部隊のように思えたからである。
「異微国」の国民たちは、いつものように原核泡細胞や真核泡細胞を襲い、「人口」をドンドン増やしていた。最近では巨大な多細胞生物が登場し、彼ら異微たちにとっては獲物に困ることがほとんどなかった。ここが水中である限りにおいては。
ところが、この「異微国」において大きな問題が発生したのだ。
その問題とは、彼らの生息地がドンドン浅瀬になっていったことなのだ。地殻変動や堆積物の影響によるものだろうが、何が起こっているのかは、おそらく彼らには分かっていなかっただろう。
しかし、何が起こっているかは分からなくても、彼らの生存に必要な水がドンドン減っていることは容易に理解できる話である。
「異微国」の国民たちは、このままでは生き残ることは難しいとして、安住の地を離れるか、この地に残り環境の変化に耐えるかの二択を迫られることになったのだ。
そこで彼らが下した決断が、国民を二分することだった。
安全な水中へと住処を変えるものたちと、この地に残り、ひたすら環境の変化に耐え、たとえ水がなくなっても、住み慣れたこの地で生きていくことを選んだものの二つである。
国民の大多数は、安全な水中へと大移動を始め、生き残る道を選び、残るものたちに別れを告げて去って行った。
残った異微たちは、まさに強者、豪傑、達人、精鋭のものたちである。まぁ逃げ遅れたとも言うが……。
それはともかく、彼らには厳しい試練が待ち受けていたのだ。
とまあ、こんな物語が展開した訳ではないが、浅瀬になる過程において、波に浚われ水中へと移動したものと、浚われずに残ってしまったものとに分かれたことは事実である。
さて、残ったものたちである異微特殊部隊の話であるが、彼らの適応能力は非常に高かったものの、それでも陸上の環境は彼らにとっても非常に過酷であった。
彼らにとって陸上というのは、人間にとっての宇宙にも等しい場所で、そう簡単に生存できる場所ではない。
人間にとって空気がないと生きられないように、異微たちにとっては水がないと生きられないのだ。
まず異微特殊部隊の彼らは、宇宙服ならぬ、「地上服」を開発していった。
水中では対処が簡単だったことが、大気中では途端に難しくなるのだ。それが、乾燥、紫外線、放射線、酸素、重金属、高濃度塩類などなど、挙げたら切りがないが、こういったものから身を守る必要があったのだ。
この地上服、多糖類や粘着物質、粘液によるカプセルなどで形成されたいわゆるバリアみたいなもので、外部環境から身を守り、特に乾燥に対して効果を発揮したのだ。
そして、この地上服ができると、今度は体質改善をしなければならない。地上には先程も述べたように、危険な物質が様々蔓延っており、地上服だけでは防ぎきれないのだ。
そこで彼らが開発したのが「
「光反応酵素」は、特に光合成をおこなう異微たちに見られるが、紫外線によるDNAの損傷を防ぐため、光を吸収しエネルギーへ変換するために作り出された酵素で、DNA保護とエネルギー利用の両立を可能にしたのだ。
「過酸化水素分解酵素」は、酸素の多い環境では、どうしても体内にできてしまう、有毒な過酸化水素を分解するために作られた酵素で、この過酸化水素を分解することで酸素中毒を防ぐ効果がある。
このような様々な酵素を開発することで、彼らは地上服では防ぎきれない、危険物質から身を守っていったのである。
こうした涙ぐましい努力をして、彼らは地上に出る準備を着々と進めていったのである。
そうした彼ら異微特殊部隊がおこなった最大の仕事が、栄養源の確保である。水中では簡単に栄養源である生物を捕獲できた。
ところが、陸上には自分たち以外誰もいないのだ。時折押し寄せる水の中に、生物が混じっていることもあるが、そんなことは極まれ、栄養源の安定確保は彼らにとっての至上命題でもあったのだ。
そこで彼らが目指したのが地中である。
幸いにも、彼らの生息域は土壌が泥だったので、保水力もあり、生物の死骸や有機物などもある程度含まれていたので、それを分解する酵素を開発しさえすれば、なんとか生き延びるための栄養源の確保は叶うのだ。
こうして、死骸や有機物を分解する酵素を開発した異微特殊部隊は、地上においても生き残る術を獲得したのである。
ただ、その副産物として、彼らが排泄する物質が土壌を改良し、泥やヘドロだった場所が、土として蘇っていったのは、彼ら異微特殊部隊のあずかり知らぬことである。
こうして異微たちは、生物上陸の先遣隊として大きな役割を図らずも果たしていったのである。
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