第14話

 かおるは子供の手を引きながら路地裏を逃げ惑っていたが、やがて立ち止まり壁に手をついてはあはあと肩で息をした。

 左腕から夥しい量の血液が流れていた。なぜか体のあちこちが痛かった。出血性ショックによる目眩がかおるを容赦なく襲った。


 一瞬、子供の調理を辞退すれば良かったのでは、と思った。が、かおるは頭を振った。かおるが断った所でなにも変わらない。黒木は他の料理人に子供を殺させるだけだ。


「お姉さん、大丈夫…?」

 子供が心配そうな顔でかおるを見上げていた。かおるはもうこれ以上逃げることに限界を感じていた。


 せめてこの子だけでも逃してあげなければ。


 かおるは血の気の引いた顔に笑みを浮かべた。

「うん、大丈夫。私は少し休んでから行くから、君は先に逃げて」

 かおるは子供が身を隠せそうな場所がないか探した。そして少し先の料理店らしき店舗の裏に排水溝があるのを見つけた。


 かおるは子供を連れ、排水溝まで地を這うような気持ちで移動した。

 そして最期の力を振り絞りコンクリートで出来た排水溝の蓋を開けた。中は汚く狭かったが、子供が這って移動できるくらいの広さはあった。


「入って。ここを伝ってできるだけ遠くへ逃げて」

 子供は何か言いたそうだったが、かおるの必死さを感じ取り、大人しく排水溝の中に入った。かおるは蓋を閉めた。


「大丈夫?動ける?」

 蓋に顔を寄せてかおるは子供に囁いた。

「うん…」

「見つからないように静かに動いて。人通りの多いところまで行けたら助けてって言えば誰か来てくれるはずだから。早く」

「怖い…」

 子供は涙声でそう言った。かおるは子供を励ますため嘘を吐いた。

「私も後で行くから泣かないで。さあ早く行って。あいつらが来ちゃう」

 コンクリート越しに耳を澄ますと、子供が遠ざかっていく音がかすかに聞こえた。


 かおるは立ち上がり、ふらつきながらその場を離れた。身体は鉛のように重く、激しい目眩と吐き気、頭痛に苛まれながらかおるは自分の命がここで尽きる運命だということを悟った。

 今自分にできることは子供を隠した排水溝から可能な限り離れることだと信じ、壁を伝い歩きしながら一歩一歩進んだ。


 追われる気分とは嫌なものだとかおるは思った。かおるは常に追う側だった。獲物がどんな気持ちかなんて考えたこともなかった。もしかしたら今その報いを受けているのかもしれないとかおるは思った。


 やがてかおるの身体は限界を迎えた。

 かおるは一歩も動くことが出来ず、路地裏のゴミバケツの横に座り込んだ。左腕を押さえてみたが、無常にも血液は流れ続けた。目を開けていることすら苦痛だった。


 意識が朦朧とする中、何者かの足音が近づいてくるのが聞こえた。黒木とその仲間だろうとかおるは思ったが、もう逃げるだけの体力はなかった。


 黒木と拳銃の男はかおるを発見すると 、かおるを挟んで両側に立った。黒木は屈んでかおるの顔を覗き込んだ。


「おや、こんなところにいましたか。男の子はどうしました?」

 嘲笑うような口調の黒木にかおるは無言で答えた。

「何とか言えや、オイ」

 拳銃の男がすごんだ。それでも目を閉じたま動かないかおるを見て黒木はにやりと笑った。

「拷問にかけて聞き出してもいいんですよ?…と言いたいところなんですが、それに耐えられるほどの元気もなさそうですね」

「…」

 かおるは沈黙で答えた。黒木は背を伸ばしかおるを見下ろしながら言った。

「貴方には期待していたんですがね。『ソニー&ビーン』の次世代を担う料理人になれるはずだと」

 かおるはかすかにうめき声を出した。黒木は言葉を続けた。

「最期に聞かせてください。あの子供をそこまでして庇う理由はなんですか。貴方は今まで沢山の動物と人間を殺してきたはずではなかったのですか」

 かおるは苦痛に喘ぎながらやっとの思いで言葉を口にした。

「…私は子供は殺せません」


「なるほど」

 鼻白んだ表情で黒木は吐き捨てるように言った。

「初めに聞いておくべきでしたね、それは」

「この女、どうします」

 拳銃の男に聞かれ、黒木はため息を吐いた。

「とりあえずレストランに連れて帰りましょう。いいですよね、水田さん?」

 かおるの返事はない。黒木は何かに気づき、しゃがみ込んでかおるの顔を覗き込んだ。そして腕を取り、手首の脈を測った。

 かおるは絶命していた。それが分かると黒木は残念そうな顔をした。

「どうやら死んでしまったようですね。まあこれだけ出血すれば無理もないですが」

 そう言うとかおるの腕を自分の首にかけ、よっこらしょと担ぎ上げた。

「水田さんは死んでしまいましたが、今回のことの埋め合わせをしてもらわなければなりません。運ぶの手伝ってください」

「子供は?」

 かおるが落ちないよう支えながら拳銃の男が指示を仰いだ。

「引き続き捜索をお願いします。たぶんまだ近くに隠れてるでしょう」

「承知いたしました」

 狩を終えて巣に戻るハイエナのように、二人の男はかおるを引きずって『ソニー&ビーン』へと引き返していった。


 かおるは息絶える前にフレデリックのことを思い出していた。狩りの終わりにはよく二人でキャンプファイヤーをした。その時フレデリックがポツリと呟いた。


「かおる、この世界は食うか食われるかの戦いさ。人間も例外じゃない。どっちが悪いとかはない。それが生きるってことだから」


 漆黒の森の中、小さな焚き火は天に届けとばかりに燃え盛っていた。その煌めきは永遠に二人の狩人を照らし続けた。夜空には沢山の星達が、2人を見守っているかのように優しく瞬いていた。

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