傷
少年の名前は、館崎亮介といった。
館崎亮介は華子の通う学校とは異なる地区に通う、同学年の男子だった。
華子の感情は衝動的なものだった。館崎亮介と同じ学校にいないことをこれほど悔しく思ったこともない。――お礼を言いたい。そう、お礼だ。自分はあくまでもお礼を言いたいのだ。これは、そういう話。
しかし、館崎亮介と巡り合う機会はほとんど訪れなかった。時折、公園で他の人と遊んでいる様子は見ることができた。が、声をかけることはできなかった。そう行動を移そうとしたとき、自分の身体は思い通り動かなくなる。
毎日、ソワソワした一日を過ごすようになった。脳内では、館崎亮介と会うことができたあとの、後日談が上映されている。
――すげぇー綺麗じゃん。その目
リフレインされる台詞。耳元に強く残る彼の声。たった一瞬。それだけがすべてだった。
館崎亮介を見かけると、彼がいなくなるまで遠くで見ることが増えた。長い時間、眺め続けた。そのたびに、館崎亮介の知らぬ間に、彼のことを知った気になる。
――すげぇー綺麗じゃん。その目
あの人だけが、自分をわかってくれる。
他の男子は、子供なんだ。あの人だけが特別なんだ。華子は館崎亮介の隣にいる自分の想像を膨らませようとした。その自分はいかにもお姫様のように扱われていて、今にして思うと、
*
「ハナ、最近なにかあった?」
母からそう尋ねられたとき、華子は目を丸くした。母が華子のことを聞いてくること自体が珍しかったからだ。後の話によると、どうやら母もまた、男ができていたらしい。自分の恋愛モチベーションが高まっていたからこそ、華子の変化にも気づいた。
「……別に」
華子はそっけない態度で返した。
「……えぇ、そうかなぁ?」
母はすっとぼけたような声をあげる。
母はゆらゆらと揺れている存在だ。とても波がある。良いときは調子が乗る。悪いときはたちが悪い。最悪なのは本人に自覚症状がないということだ。
「なにかあったら、お母さんに相談してね。ハナの役に立ちたいもの」
「……そうだね」
役に立つことなんて、金輪際なかったが。
*
今日も学校では目について虐められた。
しかし、以前のように気分が沈むこともなかった。この目を綺麗と言ってくれる人がいたからだ。他の人の言葉は些細な問題に過ぎない。
あの出会いから半年が過ぎている。華子は内心、館崎亮介にお礼を言うことを諦めていた。ただ眺めるだけ。それで十分だった。
その日は偶然だった。夕食の買い物帰り、コンビニから出てくる館崎亮介を見つけたのだ。華子は一瞬足を止めた。館崎亮介は華子の存在に気づくことなく、歩き始めていた。華子はその背中をゆっくりと追いかけた。
ただ、付いていくだけだった。あわよくば、は期待していない。期待できるほど、自分を良く思えていない。
ある種の偶像化だ。館崎亮介という男子が、華子の知る中で、一番の理想となっていた。整った顔立ちも、少し
館崎亮介はこのままどこに向かおうとしているのだろうか。入り曲がる道が続く。華子はその背中を追うのに必死だった。館崎亮介が角を曲がった。華子は小走りで近づいていき。
「――なあ、なに?」
目の前に、館崎亮介の顔があった。華子は息を呑む。慌てた様子で、逃げようとする。だが、館崎亮介の思いの外強い視線に身体は硬直してしまっていた。
「お前、俺についてきてたよな? なんか用があるわけ?」
華子は頰が熱くなるのを感じた。バレていた。恥ずかしい。羞恥心が全身に広がっていき、悶える。
「あの、その……、えと」
「は?」
館崎亮介は華子のたどたどしい言葉を前に顔をしかめた。何を言っているのか聞き取れない、という顔をした。――そもそも、まだ何も言っていない。
……そうだ、お礼だ。華子は、その目的を思い出す。自分は、館崎亮介にお礼が言いたかった。それを思い出すと、次々と想いが溢れ出す。
「あ、えっと……」
言葉を紡げ。頭の中にあるものを、一つ一つ音にしていく。
「あの、覚えて、ますか?」
館崎亮介は華子の言葉に目を丸くした。それからじっくりと華子の顔を見るようになる。視線が貫く。華子は館崎亮介が答えるまでの間、居心地の悪い沈黙を味わった。
やがて、館崎亮介は答えた。
「……いや。あんた、だれ?」
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