醜い真実

 若井チサは夢を見ていた。

 とても幸福な夢である。舘崎亮介と過ごした日々。それは若井チサにとって輝かしい、願いでもあった。しかし、それは自分の手によって壊れてしまった。壊れてしまったからこそ、記憶は美化される。自分はもう、あれ以上の美しい思い出を作ることは叶わないだろう。心底、そう思った。

 若井チサの価値観はとてつもなく狭い。また、歪んでいる。自分の価値観を客観的に見ることができない彼女にとって、舘崎亮介との日々が必要以上に重く、呪のようにのしかかっていることを知らない。理解できない。

 そのため、草鹿華子にとっては、絶好の隙に見えたのだろう。

 若井チサを決定的に貶める一言は、若井チサを壊した。

 ――自分は愛されたいと思ったのは、いつ頃からだろうか?

 両親の異常さ。それを異常と断じて、弱さを正当化する自分。矛盾する二つの怒りが、常に若井チサにはあった。そして、その想いを舘崎亮介も抱いているように思えた。それが、二人を引き寄せた理由でもある、かもしれない。

 舘崎亮介もまた、心の闇を抱えている。彼はそれが弱みであると知っている。知っているから、見せようとしない。本質的な意味で、人を信じない。期待しない。そのスタンスは若井チサを共鳴させた。


 それが、すべて嘘だったのだ。


 この想いも、思い出も、出逢いも、告白さえも。

 あの愛は偽物だった。自分は騙されていたのだ。絶望で視界が真っ暗に染まる。自分という存在が分散していくのを実感する。

 不思議と、舘崎亮介に対する怒りが湧いてこなかった。おそらく、この恋やら愛やらは、確かな本物がどこかにあると、信じたいからかもしれない。――否、本物はあったのだ。

 帰りのホームルーム。若井チサは下駄箱で舘崎亮介と顔を合わせている。彼はどこか急いでいるように見えた。気のせいだろうか、若井チサの目には逃げているように映った。

 若井チサは舘崎亮介と目が合うと、体が固まった。熱く、濁るような想いが暴走する。驚いたことに、舘崎亮介の方から話し掛けてきた。

「……よぉ」

 それ以上、近寄らないでほしい。

 期待、させないでほしい。

「……話しかけてきて、いいわけ?」

「は?」

「元カノと一緒にいるところなんて、今カノにとっちゃキツイでしょ?」

「……なに、言って」

 舘崎亮介の表情が歪んだ。その反応を見て、若井チサは自分が喜んでいるのだと理解する。あたしは、嬉しくて仕方がない。もしかすると、草鹿華子との関係は歪み始めているのかもしれない。最初から、歪んではいたが。

 ……だとしても、若井チサと舘崎亮介の恋人関係もまた、歪んでいた。

 もう、彼女は、期待しない。

 絶望だけを、抱いている。

「――ねえ、リョウ」

 リョウ。そう呼んでいたのは自分だった。

 これは、自分だけの呼び名だったはずだ。

 ……認めよう。認めるしかない。自分は草鹿華子に負けたのだ。完膚なきまで、叩き落された。

「あんた、あたしと付き合ってたとき、楽しかった?」

 この偽物は、本当だった?

「……楽しかったよ」

「あたしのこと、好きだった?」

 ――馬鹿みたいな質問だ。

「……今さらじゃねえのか?」


 ――言って、くれないのね。


「……それもそうか」

 わかってはいた。ただ、壊すなら徹底的に壊してもらいたかった。

 今ある感情は一つ。あの草鹿華子に、一矢を報いることだけ。


  *


 事件発生時刻、十六時十二分。

 この記録は非公式のものであり、後に記される時刻には正確な時間は記されていない。この時間帯は、いわばの感覚である。

 そして、これは。

 その、にあった非公式な出来事である。


  *

 

 華子は見た。

 、若井チサが何かをいれる瞬間を。


  *


 若井チサはそっと草鹿華子の机にメッセージを残した。その後、屋上に向かう。

 自分がこれからする行為は、とても愚かなことだ。感情的で、醜い行いだ。それでも、先がない自分にはちょうどいいと思える行為だった。

 屋上の扉を開く。屋上から、地上を見下ろす。壮大な光景は、自分の悩みがちっぽけなのではないかと思わしてしまう。だからといって、この決意が揺らぐことはないが。

 自分は、死ぬ。

 けれど、ただでは死なない。その原因は、あくまでも草鹿華子だ。そのメッセージを、草鹿華子に残した。同時に、館崎亮介もメールで呼び出した。草鹿華子の机から、見つかる遺書。館崎亮介に、本性を見破ってもらいたかったからだ。

 ……今にして思えば、草鹿華子もまた、愛されたい人間だったのだろう。誰かに愛されたい。しかし、人を愛する方法を知らない。愛を知らない自分たちは、ひたすら狂っていた。

「――馬鹿らしい」

 若井チサは、屋上から飛び降りた。


  *


 華子はそのメッセージを見た。


 ――あなたをゆるさない


「ああ……」

 死ぬのか。あの女は。死ぬつもりなのか。

 ということは、これは遺書だ。せめてもの、自分を原因にしようとしているのか。小賢しい。ひどく、苛立つ。

 彼女が屋上に出かけてから、どれぐらいの時間が経っただろうか。おそらく、そろそろ行われるはず。

 華子は手に持つ遺書を見て、嗤う。

「……お前の思い通りにはならないよ」

 華子は、そっと、館崎亮介の机に遺書を置いた。

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