i
帰りのホームルームが終わると、亮介は教室を真っ先に飛び出した。
下駄箱で靴を履き替え、さっさと帰る。自分が明らかに沼にハマりかけているのを自覚していたからだ。よくわからない何かが、亮介を絡もうとしている。亮介を動かしていたのは、そうした見えない恐怖心だった。
しかし、下駄箱に到着すると、亮介は足を止めてしまう。――間が悪かった。そうとしか言いようがない。下駄箱には先客がいた。
若井チサ。彼女は靴を手に取り、固まっている。亮介と目が合って、気まずそうに視線を逸らす。
「……よぉ」
亮介は声を掛けていた。そうしなければならないと感じていた。若井チサは驚いたような顔を浮かべた。
「……話しかけてきて、いいわけ?」
「は?」
「元カノと一緒にいるところなんて、今カノにとっちゃキツイでしょ?」
「……なに、言って」
亮介は口を噤む。若井チサが口にしているのは間違いなく、草鹿華子のことだ。小さなズレだ。確かに草鹿華子は今の彼女である。しかし、意味合いが異なる。本当の意味での彼女とは思っていない。期限付きの、罰ゲームによって結ばれた関係だ。
だが、それを口にすることはできない。すべてが、今さらであり、弁明すべき術はない。
「――ねえ、リョウ」
リョウ、と若井チサは亮介を呼ぶ。
亮介をそのように呼んでくれるのは、これまで若井チサしかいなかった。交際している当時、呼び名が新鮮に思えた。二人だけの特別感があった。他の誰でもない、若井チサだったからこそ、許せた呼び名。
「あんた、あたしと付き合ってたとき、楽しかった?」
突然の問いだった。亮介は不意打ちに動揺した。意図が見えない問いを恐れた。
「……楽しかったよ」
「あたしのこと、好きだった?」
今度こそ、亮介は若井チサを疑った。あまりにもらしくない台詞だ。そんな女々しいことを言う女ではなかった。
「……今さらじゃねえのか?」
答える代わりに、亮介はそう言った。若井チサは亮介を見据えていた。どこか縋るような、強い自然だった。やがて、疲れ切ったような、息を吐く。
「……それもそうか」
若井チサは持っていた靴を置き履き替えた。亮介に背を向けて、足早に去ってしまう。亮介は彼女の背中を追おうとした。それなのに、足は動いてはくれなかった。
*
「――りょうくん?」
ハッとしたところで遅い。早く帰るために下駄箱まで直行したのに、背後には草鹿華子がいた。反射的に振り向くと、あの瞳が亮介を映していた。
「誰かと、話したよね?」
「……別に」
「若井さんと、話してたよね?」
――知っているなら聞くなよ。そう口の中では動いていた。ただ言葉にはできず、飴玉のように転がすだけに終わる。
「大したことじゃないっての」
「そっか」
草鹿華子は一歩踏み出し、亮介の手を掴んだ。
「それじゃあ、帰ろうよ」
亮介は頷くことしかできなかった。
草鹿華子と並び、学校の門をくぐる。帰路の道をゆっくりと歩いた。草鹿華子は今日一日のあった出来事をさも楽しそうに話していた。その喋り方も、笑みも、振る舞いも、何もかもに既視感がある。生まれながらのものではなく、硝子細工のように作られた、異物感が抜けきれない。
それを、草鹿華子は容易に取り繕う。自分の振る舞いを客観的に認識し、その上で、自然であろうとしている。何が違う。自然さの中にある不自然さ。そのズレが、草鹿華子を際立たせる。危うさが人を惹きつける。
「ねえ、りょうくん」
「ん?」
「今日ね。ウチに人がいないの。わたしの家に来ない?」
露骨なまでの誘い方だった。が、今の彼女には
「行かない」
「じゃあ、また今度ね」
ちゃっかり外堀を埋められた。今度、というのが具体的にいつになるのか。そう遠くないと予感する未来に亮介は憂鬱になる。
「代わりに、寄り道しない?」
そう言いながらも、草鹿華子は既に別の道を歩き始めていた。亮介は困惑しながら、彼女の跡を辿る。
「りょうくんの家はさ、この近くだよね?」「ああ」
なんで知っているんだろうな、という疑問は口にしなかった。
「わたしもね、昔はこの辺に住んでたの。一度引っ越して、また戻ってきた」
「ふぅん……」
草鹿華子が行った場所は、公園だった。幼い頃、亮介もこの場所で遊んでいたことがある。遊具はブランコしかない。そんな錆びついた場所が、亮介の幼少期の象徴だった。
「……りょうくんはよく、この場所で遊んでたよね?」
草鹿華子の呟きに亮介は目を見開いた。草鹿華子は亮介の反応をよそに、ブランコに座り込んだ。一度地面を蹴る。ゆらゆらと、ブランコは揺れる。美しい少女が、揺蕩う。
「お前は……」
亮介は草鹿華子を見据えていた。
「――お前は、誰だ?」
本音の台詞だった。草鹿華子はブランコを止める。ふふっ、と彼の言葉に微笑んでいた。
「草鹿華子だよ」
「違う」
「草鹿華子以外の、何に見えるの?」
そう、草鹿華子に間違いはない。
ただし、それは亮介の知っている草鹿華子とは異なっていた。あのイモ女。おどおどとしていて、服装においても最低限を下回るような、そんな弱点だらけの少女。
「……わたしは、草鹿華子」
草鹿華子はブランコから離れた。一歩ずつ、亮介に近づいていく。
「あなたのことが好きな、草鹿華子」
草鹿華子との距離が近づく。亮介は彼女の言葉に首を振っていた。
「違うだろ。お前は、俺のことが好きなわけがない。だって、俺の方から告白をしたんだから」
「わたしは、ずっと前から好きだった。
そんなことはありえない。そう口にしようとした。しかし、
「ねえ、リョウくん。あいしてるよ」
これが罰ゲームなのか――……。
亮介は、自分の罰を改めて理解した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます