資料7ー第3話

 ——こんばんは、あなたのお名前は?




 視線を上げるとマリー・ブラントが立っていた。タイトワンピースに身を包み、黒の網タイツから伸びるヒールはシーツに穴を開けてしまいそうなほど鋭かった。


「〜〜〜〜っ!」


 痛みによる吐息が出る。


 ——「〜〜〜〜っ!」っていうの。素敵な響きね。このあとはどんな予定なの?


 私は心の中の全てを吐き出そうとした。ありったけの誹謗中傷で、マリー・ブラントの顔をくしゃくしゃにしたかった。


「〜〜〜〜〜〜っ!」


 けど、なにも言えない。


 臀部に何度目かの衝撃が走り、私はベッドの上に倒れ込んだ。叩かれたショックで尿道が緩み、数ミリリットルの小水が下着にシミを作る。


 それを見た男は醜く腐った笑みを浮かべていた。




     ***




 深夜、私たちは行動を開始した。


 十二号室のドアをノックすると痩せた青年が出てくる。無職で元エンジニアのイアン・テイラーだ。


「はぁい」と挨拶すると、

「や、やあ」と彼はぎこちなく返答した。誰が見てもわかる童貞の反応だ。


 背後から〝彼〟が硬質角を伸ばし、素早く脳天を突いた。青年は反応するまもなく眉間に穴を開けて絶命する。


「やはり下等種。脆弱な体だな」


 吐き捨てるように言うと、〝彼〟は次の目的地へと向かった。

 だが、事前に打ち合わせしていた場所と違う。


「ちょっと、レスターの部屋は反対側でしょう」


 そう。イアンの次はレスターを殺す予定だ。今晩中にイアン、レスター、ティアーナの三人を討てば人間側の態勢は崩れ、翌日には勝利を手にすることができる。そういう計画のはずだった。


「あぁ、だが予定が変わった」


 〝彼〟は足を止めた。


「どうも我のことを甘く見てる奴がいてな。人数的に不利な状況からの勝利には確固たる〝信頼〟と完璧な〝連携〟が必要だ。しかし其奴は我のことを〝信頼〟していないらしい」


 再び歩みを進める。〝彼〟がどこに行こうかわかった時、私の心臓は大きく拍動した。


 六号室、〝彼〟の部屋だ。


「だからいま一度、我との〝信頼〟を確かなものとする必要があるのだ。これは残り二人を殺すよりも遥かに価値が——」


 私は一歩で彼の間近に行くと、背中から出した硬質角で脳天を突き刺す!




   はずだった。




「クックックッ。貴様は何か勘違いしてるようだな。我が〝命令〟しか使えない無能な次期当主だと思ったか」


 〝彼〟はノールックで肩から硬質角を出して私の攻撃を受け止めた。

 そして、こちらを向いた。


 〝彼〟の顔は歪み、いくつもの黒いシワで埋め尽くされていた。シワの一つ一つはまるで生きているかのように蠢いている。


 顔に刻まれた黒いシワの一つ、顔面の下部にあるシワが〝彼〟の顔の外縁に沿って三日月状になった。……笑っているの?


 〝彼〟は私の首を掴むと勢いよく壁に押し付けた。カハッと渇いた声が出る。


「我は非力だから命令してるのではない。《絶対的な力があるから貴様を下僕として使ってやっているのだ!》」


 全身が痙攣する。根源的恐怖とも呼べる冷たい感情が身体中を駆け巡る。


「ぜ、絶対的な力ですって? 臆病の間違いじゃなくって?」


 顔全体のシワが垂れ下がった。


「《生意気な言葉はそれだけか? 夜が明け、自分はなんと惨めで愚かな行為をしていたのだろうと屈辱に塗れて大便をひり出すほどの後悔に嘆く行為はそれだけで充分か?》」


 全身に〝彼〟の言葉が響き渡る。朝日の下で変わり果てた自分の姿が鮮明に思い浮かぶ。


 きっとこれまでの私であれば、声にならない叫び声をあげていただろう。もしくはベッドに篭り、謝罪の言葉を無限回唱えていたかも知れない。




 でも今は違う。




 私は口角を上げた。


「フフ……そうね。あなたにかける言葉は十万行あっても足りないわ。けど、これだけは言える。私はこの行いを後悔したりしない」


「グアァッ!」


 黒いシワが歪み、〝彼〟は手を自身のうなじへ当てた。そして〝何か〟を掴むとグッと引き抜いた。




 一本の注射器だった。




 太い針が取り付けられた注射器はガスケットが外筒の底面と接しており、中身が完全に注入された状態になっていた。


「だ、だれぇだ!」


 〝彼〟は私の首から手を離し、後ろを向いた。




 そこには死んだはずのアレックスがいた。




 蘇った老医は手を後ろで組み、顎を引いて彼のことを見ている。


「なん、で、生き、てる」

「イバブラジンSですよ。心拍数を極限まで抑えて仮死状態にする。まあ、端的に言えばワシは死んでなかったのです」


「な、ん、だ……って?」


 早速効き始めたか。アレックスが注入したのは複数の薬品を混ぜ合わせた〝私たち用〟の筋弛緩剤だ。これを脳髄に打つと、私たちの思考速度・体感時間は急激に遅延し、周囲の物事がとても遅く感じられる。


 は性格はクズだけれども頭脳は明晰だ。おそらく自分の現状を(彼が感じる)短時間で理解したのだろう。彼の表情には怯えと恐怖と、ほんの少しの怒りが浮き上がっていた。


 私は背中から六本の硬質角を出す。


 息が上がる。



「き、さぁ、むぅぁあぁあぁ————」

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