1-2
「オレ、こういう者ですが」
にこにこと笑いながらその人はぼくに名刺を差し出した。怪訝に思いながら、しかしとりあえずぼくはそれを手に取って、目を通して、読む。
「⚪︎×商事営業二課係長
「おっとしまった」と、彼はぼくの手から名刺を引ったくった。「こっちはオフィシャル用の名刺だ」
オフィシャル用?
「こっちでーす」
と、改めて財布から別のものらしき名刺を取り出しぼくに渡す。さっきと同じようにぼくはそれを声に出して読む。
「陰陽連合(Y2N)J1-A-AD-10エリア支部長レッド・ウィリー」
彼はにこにこ笑顔を崩さない。
「こんにちは。オレ、レッド・ウィリーと言います。よろしくね」
ぼくは一言にそこそこ力を込めた。
「そうですか。それじゃ」
と言ってそのまま立ち去ろうとするぼくを“レッドさん”は制止した。
「ちょい待ちちょい待ち」
「急いでるので」
「君の名前はなんていうの?」
「個人情報保護法に引っかかるので」
「そんなこと言わないで」
「知らない人についていかないように言われているので」
「それはいいことなんだけどちょっとオレの話を聞いてくれやしないかい」
ぼくは思う。確かにこの人の話というものに興味があるというのは本音である。
しかし、だからと言ってこんな厨二な大人と付き合っているわけにはいかない。陰陽連合? レッド・ウィリー? 見たところアラサーのおっさんである。一見普通のサラリーマンだがこんな子どもにかまってくるだなんて見るからに怪しいし、こんな素っ頓狂な名刺を常備しているなどいい年をした大人とは思えない。それはもちろん、直前、“あれ”を倒してくれたのかもしれないし、つまりぼくを助けてくれたのかもしれない。しかしだからと言って、例えば不良に絡まれていました、助けてくれました、そしてそのあとその人と二人きりでお茶をします、という展開にはならない。そして万が一二人きりじゃなかったケースを想定するのは容易だ。ちょっとした話をちょっとする、というだけでも、迂闊な選択はできない。
客観的には、例えば“霊的”ななにかで繋がっている者同士の可能性もある、とは言える。しかしこれを“霊的”というには、“あれ”はぼくの世界で強いリアリティのもと存在し続けていた。あるいはぼくが自分のことを霊能力者だか超能力者だかと思っているならまた話は違ってくるのかもしれないが、しかしぼくは“なにか”が見えるだけでそれをどうにかできるわけでもそれでどうにかできるわけでもないのだ。その点、この人は“あれ”を“どうにか”できるように思えるが、だからと言って例えば不良に絡まれていました以下略というだけの話である。例えば音楽好き同士であるというただそれだけの理由で友達になれるわけではないのと同じだ。仮にこの人とぼくに何らかの運命的な共通点があったとして、しかしそれだけで中学一年生になったばかりのぼくが初対面のおっさんとわざわざ会話をするという危ういことはとてもできない。思考速度が結構速い自分、というのを、割と褒めてあげたいとぼくはいつも思っている。
「参ったな」
もうぼくはその人を背に帰路に着き始めているので、その人がいまどんな表情をしているのかはわからない。そしてそれが特に気にはならない。ぼくは早く帰っておやつタイムにしなければならないのである。今日のおやつは大好きなバナナケーキ。あれと濃いめのブラックのコーヒーを一緒に食するのがいまからのぼくの使命である。明日からいよいよ本格的に中学校生活が始まる。今日は明日からの日々に備えてゆっくり休もう——などと十三歳直前の子どもらしくぼくは半ばわくわくしながら歩いていたら、
それ以上歩けなくなった。
「え?」
目の前に見えない壁がある。
「え、え?」
どうしてもそれ以上前に進めない。なんだ? ここに透明な板でも置いてあるのか? そう思って右に左に進んだが、横に進むことと後退することはできたがどうしても前に進めない。ぼくは右手で“壁”に触る。感触がある。木の板のように固いなにかがそこにある……。
「消してごらん」
「え?」
と、その声に反応して後ろを振り返ると、すぐそばに“レッドさん”がいた。
「君ならできるよ」
「え、え?」
彼はぼくの両肩に手を置く。ぼくは不安を感じたが、それよりもいま目の前にある不思議現象に対する不安の方が大きかった。
「意識を集中させて」
と言われても。
「一点集中だ。訓練次第でどうにでもなるけど、いまの君には時間をかけた決定的な精神統一の必要があるだろう」
「なんですか?」
「まあまあ。とにかく、“これ”、消さなきゃお家に帰れないだろ?」
推測するに——この見えない壁は、この“レッドさん”の仕業。
ふとぼくは、ぼくは“あれ”を見たり触れたりすることはできるが、祓うことはできないんだよな、などという発想が、頭をよぎった。
ぼくは手の平に意識を集中させる——力を込める。
「足りないね。もっと“消す”ってことだけを考えて」
いつの間にかぼくは“レッドさん”の指示に従っていた。
一点集中。精神統一。意識を集中させる。
そのうち、ぼくは身体の内側から高まる温度を感じ始める。
「いいね。初めてにしては早い」
ここで不思議なことに、ぼくは一種の爽快感、開放感を覚えた。それは自分の中に存在し続けていた一種のストレスを解消するような……。
ぼくはさらに意識を集中させる。右手が熱い。熱くなってきた。いまならなんでもできそうだ、という不思議な感覚が生まれ始めていた。とにかくいまはとりあえずこの見えない壁を消すことだけを考える。力を込める。エネルギーを込める。ぼくは全身から凝り固まったストレスを発散させるように“壁”に手を強く押し当て——。
「“消えろ”」
レッドさんの言葉をぼくは自動的にそのまま繰り返す。
「消えろ」
するとその瞬間、壁は消滅し、そのまま前によろけそうになったがそれをレッドさんが支えてくれた。
「平気かい?」
やや疲労を感じたが、しかし、それよりもストレスを発散させることができたという爽快感の方が大きかった。
ぼくは後ろを振り返る。レッドさんと目を合わせる。どうやら彼はずっと笑顔のままだったらしい。
「上出来だよ」
ぼくはなんとなく——この人は、“自分と近い人”だという感触を、得た。
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