父娘との関係


「百合子はん、勝負は明日のお昼や。心をしっかり持たなあかんで。まあ、あなたなら大丈夫やろうけど。それに、優しそうなええ男やし……」


 母さんの声が、朝の暑さを切り裂いて姉の部屋から流れ出てきた。窓の外では、セミの鳴き声が夏の訪れを告げている。家の中は、母さんの元気な声と、姉の静かな返事だけが響いていた。


 朝の九時にも関わらず、その声には弾むような元気があった。若い頃、京都で舞妓をしていた母さんは、機嫌がいいときだけ京都弁を話す不思議な女性だ。


「あかね、あとはおまかせやで」


「はい、行ってらっしゃい」


 母と姉は、照りつける太陽の下、近所の神社へと歩いていった。その背中には、姉のお見合いが成功するようにという母さんの強い願いが感じられた。私は、窓辺に立ち、ふたりの姿が見えなくなるまで見送った。


 母さんはお見合いの準備に夢中で、久しぶりに笑顔を見せていた。本当に幸せそうなのは、お見合いをする姉ではなく、母親自身だったのかもしれない。若い頃の自分を思い出して、胸が高鳴っていたのだろう。


 一方で、姉ちゃんは鏡の前で、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「明日は、お見合いだよ……」その声には、夏の暑さを忘れさせるほどの期待と不安が混ざり合っていた。鏡に映る自分を見つめる彼女の瞳は、明日への希望を探しているようだったが、同時に、未知の未来への恐れも隠していなかった。


 父親の家業は、先代から受け継いだ看板屋だ。私は、幼い頃から、父さんとは大の仲良しで、何でも話せる関係だった。彼のような優しい男性を見つけて、結婚したいと心から願っていた。


 父親は筆と絵の具を持って全国を渡り歩き、銭湯の湯船に浮かぶ富士山や湖畔に咲く花の絵を描いていた。そんな父さんの職人としての夢に、私は誇りを感じていた。


 父親は入婿ではなかったが、母さんに逆らったことは一度もないほど優しい人だった。いつも職人気質で、私たちのとりとめのない話にも「うんうん、そうだなあ」と相槌を打っていた。


 百合子姉ちゃんのお見合いが決まると、父さんは大仕事を引き受けたと言い残し、母さんのことは気にせず、材料集めに行ってくると家を離れることが多くなった。

母親は「父ちゃんは愛する娘が嫁ぐかもしれないと聞いて、きっと寂しいのだろう」と笑った。


 けれど、本当のところは違っていた。


 父さんがサックスの楽器を手にして、近所の河原に出かけることを私は何度も見かけていた。ペンキまみれの指で人知れず、「愛する君と時と風の中へ」の曲を練習していることを私は知っていた。父親は愛する娘が嫁ぐ結婚式の日を夢見て、仕事の合間に汗水垂らし練習していたのだ。


 まだ誰にも言っていなかったが、上手い下手ではなく、父親の熱い想いに心を打たれた。きっと自分でも照れくさくなり、私たちに言い出せなかったのかもしれない。


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