34.連日の風間
*****
暗闇の中、のっぽなデカい水槽の水色を前にして、風間と手を繋いでいる。風間は私服においてもミニスカートがデフォルトらしい。ほんとうにセクシーな脚だ。ふっと触れたくなる――なんていうのはジョークである。俺は男かもしれないがあいにくヘンタイではない。
魚ばかりだなと思う。水族館の水槽なのだからあたりまえなのだが。にしても、どうして俺たちは手を繋いでいるのか。風間が不躾に、あるいは無作法に握ってきたからだ。「嫌じゃなかったら握り返して」と言われた。握り返しはしなかった。ただ拒みもしなかった。変な奴だなとは思わなかった。ただ「風間も女なんだな」――とも思わなかった。俺たちは高校生だし、それ以上でも以下でもない。――最近、俺はわりとどうでもいいことに頭を割いているような気がする。まあ、いたずらに脳を休ませておく理由もない、か。
「次、生まれ変わるなら、魚もいいかな、回遊魚」
「どうしてだ?」
「一心不乱に泳ぐことだけ考えればいいわけでしょう?」
「一心不乱に泳ぐことだけをしたいのか?」
「まさか」
「なんだ。違うのか? よくわからないな」
「神様がニンゲンにもたらした複雑性が、私は嫌いじゃないからね」
ときどき、風間は小難しいことを言う。
それとも意外と入り組んだ思考回路の持ち主なのだろうか。
――この問題も、わりとどうだっていい。
「あんた、中途半端だよね」
「なんの話だ?」
「うん」目を細め、泳ぐ魚を眩しそうに見やる風間。「だってさ、ハーレムじゃない?」
ハーレムか。
言われてみるとそのとおりだ。
――異論をぶつけたかったりもする。
「少なくとも、香田は違うだろう?」
「そうかな。案外、好きだと思うけど」
「付き合いの長いおまえでもわからないのか?」
「あたしもリリも、男と遊ぶなんてことなかったから」
風間は周りに迷惑にならない程度に、「あははっ」と笑った。
「なんというかこう、不意打ちしちゃった自覚はあるんだよ」
「誰に対してだ?」
「だから、サキに対して」
微笑みをこぼした、俺の口元。
「俺は俺だ。他者からの評価でなにかが変わるということはない」
風間の優しげなその目、その瞳。
「あんたさ、ウチの部、真剣に抜けたいと思ってるでしょ?」
べつに驚きはしない指摘だった。
「仮にそうだとして、なにか問題が?」
「差し当たり、ないね」
「だろう?」
「うん。でも、やっぱりサキは悲しむよ」
「部活動という繋がりはなくとも友人はやれる。問題ない」
「問題あるよ。ただの生徒同士っていうより、部活動の仲間だっていうほうが、まだ繋がりは強いんだから。違う?」
俺は肩をすくめ、それから「違わないな」と言った。
「おまえがなにを言いたいのかはわからないが、桐敷とはこれからもそれなりに付き合うさ。幸い、あいつはいい奴だしな」
「そうしてあげてよ」
風間はいっそう、優しげに微笑んだ。
*****
好き同士でもないのに――と考え、当然、帰り道は手を繋ぐことなく歩いた。「えー、いいじゃーん」などと冗談とも本当ともつかないことを風間は言ったが、その抗議の声について俺は無視した。手を繋ぐことも髪に触れ合うこともセックスをすることも大差ないと判断しているのが俺である。
「どうする? 晩ご飯は食べて帰るって言ってあるけど」
「愛娘のその申し出を許すご両親の考え方が不可解だ」
「愛娘だなんて誰が言ったの?」
少し驚き「違うのか?」と問うた。
「まさかまさか」風間がスキップして前に出た。「愛娘でありまくるに決まってるじゃない」
おかしな日本語だ。
俺がそんなふうに指摘してやると、風間は振り返り、こちらを向いた。
「今日は楽しかったよね?」
「確認しないと不安なのか?」
「ほんの少しだけ、ね」
なにも答えることなく、風間とすれ違う。
暗闇の中にあって、それなりに賑わいを見せる繁華街。居酒屋ばかりなので通ることは若干気が咎めたのだが、なにせ近道に当たるものだから、通ることにした。俺も風間も外見――その年齢については微妙なところだろうと思う。フレッシュな高校生に見えるだろう。いっぽうで堂に入った成人に見えなくもないだろう。だから呼び込みに遭ったりもする。「ちょっと飲んで帰ろっか」とウインクするのは風間だ。意味のないジョーク。この時間を楽しんではいるのだろう。
――パンパンパァンッ!!
明らかに銃声と思しき音が響き渡ったのはそのときだった。男のそれも聞こえるが、女性のそれのほうがはるかに高く聞こえる。悲鳴とはそういうものだ。
驚くべきは、風間の行動。
どうすべきか、俺が刹那迷うともう走り出した。
「馬鹿! 風間、戻れ!!」
風間、ほんとうに愚かな奴だ。
どうして一目散に現場に向かう?
俺たちは関係ないだろうが。
そうでなくとも、相手は銃だぞ?
足の速さは同等だ。
だから出遅れた分、追いつけない。
そのうち、「ねえちゃん、あぶねーぞ、逃げろ!!」という野太い声が聞こえた。風間が曲がったほうへと右折する。銃声が鳴る、パンパァンッ!
「風間!」
呼んでも戻ってこない。返事すらしない。もはや向こうに銃を構えた男は見えている。狭くはない道路。遮るものもろくにない状況。「風間!」ともう一度呼んだ、大きな声で。風間はまっすぐに駆けていく。風間、教えてくれ。どうしておまえはそこまで無鉄砲なんだ? なにに飢えている? なにが足りない? なにがおまえを掻き立てる?
視線を一心に前へと注ぐ。ダメだ。拳銃の射線がもろに風間とかぶってる。風間ならよける? よけるかもしれない。ただ確信がない以上――。
まだもう少しなら速く走れる。
――間に合え。
風間の背を追う。
追いつけ。
追いつける。
追いついた。
風間の左の肩を右手で掴み、彼女のことを乱暴に引き下がらせた。へたにかわしたら後ろの風間に当たるかもしれない。それが怖くて、俺は両手を広げ、立ちはだかることを選択するしかなかった。――相手はまるで素人だった。それでも右の肩に一発もらった。弾が切れたらしい。僥倖。走って走って顔面に右の飛び蹴りをかましてやった。どしゃっと倒れたわけだが銃を放さなかったので、右手の手首を思いきり踏みつけてやった。「いてーっ! いてーよっ!!」と悲鳴を上げる犯人殿は二十代なかばといったところだろうか。すぐにジャケットのポケットからスマホを取り出して警察に連絡を入れた。万事オッケー、結果オーライ。
近づいてきた風間が犯人殿の右の側頭部をつまらなそうにぽかっと蹴飛ばした。気絶した犯人殿。「神取くん、あんた、走るの速いじゃん、すごいじゃん」と風間は目を丸くした。
「だいじょうぶなの? 撃たれたみたいだけど」
「問題ない。掠めただけだ」
「御礼なんて言わないよ? だってあたしがやれたんだからね」
「わかっている。俺が勝手に突っ走っただけだ。帰るぞ」
「あーらら。嫌味の一つくらい、聞いてあげるのに」
俺はもう一度、「帰るぞ」と言った。
最近、損ばかりしているような気がする。
突拍子もなく、漱石の「坊ちゃん」を思い出した。
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