30.母一人子一人

*****


 登校中。

 緑の葉から露が滴り落ちる爽やかな時間帯。


 良くも悪くも地域密着型の商店街を通ることがある。朝っぱらからコロッケを揚げている店があり、それが目当てというわけだ。安易な油物の摂取などと思わなくもないのだが、そこは高校生の代謝の良さでカバーだ。


 コロッケをはふはふ食べながら歩いていたところで、人影に出くわした。右手の路地から出てきて、立ちはだかるようにして俺の前に立ったのである。男? 男だ。たぶん男だろう。とはいえフードを目深にかぶっているのでいまいち判別がつかない。小柄で細身ということもある。にしても、暑い時期にあって黒のパーカーとは。まあ、黒い学ランを着ている俺もたいがいだが。


 ――用件があることは見ただけでわかった。


「少し待っていてくれないか。食べてしまう」


 コロッケをもぐもぐ食べる。

 ゆっくり咀嚼する。

 べつに急いでやる義理などない。


 少々ぬるさを増したミネラルウォーターを飲み、ボトルをスクールバッグにしまった。


「待たせた。確認だ。何用だ?」

「あなたの喧嘩を、偶然、見たんです」


 暗澹とした不穏な声。

 それでいて、少年の無垢さ無邪気さを覚える声。


「僕は空手をしているんです」

「偶然だな。俺もそうだ」

「相手をしてほしいんです」

「それはおまえがふさわしいかによる」

「行きます」

「わかった、まあいい。かかってこい」


 ダッシュからの、思いきりのいい踏み込み。顔面への正拳。首を左に傾けてかわしたものの、その鋭さは頬を掠めた。やる、なかなか。


「バッグは置いたほうがいいですよ」

「そうだな。失礼したようだ」


 スクールバッグを静かに地面に置くと、次の瞬間、また踏み込んできた。間違いなくかなりの使い手だ。が、習い事だろう――そうである分、顔面を殴ることにも殴られることにも大して慣れていない。弱点を突こうかとも考えたが、フェアじゃない気がして、だからこちらはボディーを打つことに終始した。腕力が同等であればいい勝負になったかもしれない。しかし相手はかなり劣る。そのうちツケが回ってくる格好で、あからさまに押され始めた――俺が押し始めたということだ。


 極端なインファイトから身を引く格好で、俺は二歩三歩、四歩五歩と退いた。相手は肩で息をしているが、俺はなんともない。基礎体力にも差があるようだ。しかしスタミナを鍛え、肉体の活性化に持続性を持たせるにあたってこの強靭な輩は怠けるだろうか。なにかわけがある? だったら、それはなに?


「あなたの喧嘩を……僕は見たんです」

「それはもう聞いたが、それがどうかしたか?」

「一目で憧れました。僕もあなたのようになりたいと考えました」

「おまえは強い。なれるだろう。というより、俺は大した存在じゃない。そうでなくとも憧れるのはよくないな。ヒトを理解することから遠ざかってしまう」

「それでもあなたみたいになりたいなぁ……」


 男がいきなり片膝をついた。

 口からおびただしい量の血を噴き出し、前のめりに倒れた。


 俺は慌てて近づき、しゃがみ、男を仰向けにし、上半身を抱き上げた。


「おいっ!」


 男はがふっがふっと血を吐く。


「救急車を呼ぶのが先じゃありませんか?」


 そのとおりだ――が、おまえは微笑んでいる場合か。


「待ってろ。死ぬなよ」


 俺はスマホを手にした。



*****


 救急車に同乗し、病院まで付き添った。いきなり集中治療室送りだなんてことにはならなかったが面会については謝絶となった。俺はもう一度、今度はきちんと男と話をしてみたいと思った。だからしばらく待たせてもらおうかとも考えたのだが、状況から考えて、急に会えるわけもないだろう。


 だから帰路につこうと――正確には学校に向かおうとしたわけだが、病室の前から立ち去ろうとしたところで、急いで階段を上ってきたのだろう、紺色のパンツスーツ姿の女性と出くわした。四十くらいだろうか。肩までの黒髪を振り乱していて、顔色は真っ青。おぼつかない足取り。ふらふらふらふら歩いてきて、つまずいて転びそうになったので俺が身体を支えた。「ありがとう」という声は震えていた。なんとかといった感じで向かった先は、くだんの男の病室だった。面会謝絶の札を見て、女性は絶望したようにへたり込み、そして子どもみたいに泣き出してしまった。



*****


 事の次第をそれなりに説明した上で、院内にあるカフェに女性と入った。俺はブラックを、女性はカフェオレをオーダーした。「たまには甘い物もね」と言って微笑む。優しげで魅力的だ――が、どうしたって疲労の色は隠しようがないらしい。


 小さな四角いテーブルを挟んで、俺はまず「名前を伺いたいです」と伝えた。「あの子の? それともおばさんの?」と返ってきた。「できれば、彼の」と答えた。


「シンゴよ。私のたった一つの宝物。そしてその宝物が最近見つけた宝物があなただってことなんでしょうね」

「俺が?」

「いろいろあるのよ。とにかく、シンゴはあなたにあなたに憧れてるの。でも、それももうおしまい。おしまいなのよね……」


 否が応でも深刻な気分に陥ってしまう。

 だから、「どういうことですか?」とは怖い顔で訊いたことだろう。


「内臓がね、悪いの。癌とかじゃないんだけど、とにかく悪性の病巣でぼろぼろなんだって。あと半年ももたないだろう、って……」またぽろぽろ泣き出した。「あの子、まだまだ子どもなのに、人生これからなのに、酷い話でしょう?」

「そうは思いますが……」

「ああ、ごめんなさい。こんなこと言われても困っちゃうわよね。初めて会う、しかも高校生の男の子に、私はなにを話しているんでしょうね」


 一転、穏やかな気持ちにさせられた。

 母親とはかくも美しい存在なのか。


「息子さん、シンゴの憧れが俺だと伺いました」

「うん。そう言ったわ。それがどうかした?」

「いえ。だったら俺にはできることがあるんじゃないかなって」

「えっ」

「もう半年しかないとおっしゃいましたが、裏を返せばまだ半年もある。付き合いますよ」



*****


 シンゴが望んだのは短期決戦だった。病のせいで体力がないものだから、一週間だけ、そこにターゲットを絞って、自らを追い込んだ。自分の身体と心を極限の状態にまで仕上げるべく気合いを入れてがんばった。涙ぐましい努力だ。だが俺は同情したりしない。冷たくできているからだ。かかってくるならかかってきたらいい。俺は容赦しない。ぶち殺すくらいの気概で迎え撃つ。


 ――河原。


「僕があなたの喧嘩を見たのがここだった。美しかった……ほんとうに」


 美しい喧嘩をした覚えなどないが、喧嘩をした覚えはないこともない。


「パネコーの連中でした。誰も手出しができないはずの怖ろしい高校。なのにあなたは立ち向かい、あるいは受けて立ち、やっつけてみせた。その瞬間に思ったんです。ああ、僕の最後の喧嘩の相手はあなたにしたい、って……」


 耳にする分には大げさな話でしかないのだが、彼の場合、実際に命がヤバい。だったら、一人の敵と見なして、最高にハイな状態で相手をしてやらなければならない。


「とても有意義な一週間でした、肉体的にも精神的にも。ここまで追い込めたことは初めてだった。いまなら僕は神取さん、あなたに勝てるかもしれない」

「四の五のほざくな。とっととかかって来い。冥土のみやげに恐怖を教えてやろう」

「行きます」

「来い」


 負けるなシンゴ、がんばれ!!

 パンツスーツ姿のお母上が、土手の上から両手をメガホンにして叫んだ。

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