第30話 蛇少女R
「はっきり言わないと気づかないんじゃない?」
「え?」
いつの間にか傍らにいた狐面の少女が言った。おれの服の裾をひっぱっている。物言いたげ視線を向けられてもここまで議論が白熱している場で声を出すなんてそれこそできないというかなんというか。
そんな言い訳じみたことを考えていると、
「言わなきゃいけないことがあるんじゃないの?」
再度、そんなことを言われた。
…ああ、そういえば。
こんなどうでもいいことを気にしている場合じゃなかった。
こんな無意味な会話を聞いている時間も、先輩が詰られている状況も、おれが無視されている現状なんてそれこそどうでもいい。
なにより、大事なことがあったんだ。
「先輩、実は」
一歩踏み出す。
先輩は正面を向いたままおれを無視している。関係ない。先輩の肩をひっつかんで正面を向かせる。そして赤い瞳を見据え、一言告げるだけだ。それだけをすればいい。そうすればあの子が喜んでくれるはず、
「動くな」
気がつけば。
何故か頬に畳を押しつけられていた。い草の香りが鼻をつく。起き上がろうとしたが手足どころか全身を押しつけられ、まるで動けない。
視界には襖と畳。
声を発しようとして声まで出なくなったのに驚いた。
「こら、しっかりしなさい」
カンナの声。
普段よりも優しい声に更に驚いたが、次の瞬間には言葉を失った。
視界に、パンツが見える。
白パンだった。
「ほら、これで大丈夫」
ぽん、と頭に手を置かれた。
いやそんなことよりもまだパンツが見える。ずっと見ているせいか皺の一つ一つまで見て取れるようになった。いや、なんだ。下着をここまで凝視したことはないが、意外に皺が目立つ。しかも妙に生々しいというか、なんというか。こうしているとパンツの向こう側がはっきり妄想できるというか実は見えてるんじゃないかって、
「がはっ!」
側頭部に激痛が走る。
踏みつけられたと理解したときには体重を乗せられ、畳にめり込みそうになる。ていうか、頭がマジでつぶれるってーか、マジで死ぬって!
「いだだだだだだだっ!」
「い・つ・ま・で・見・て・ん・の・よっ!」
「わがっだ! わがっだがらっ!」
「わかってないッ! まだ見てるっ!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い…!
喉元から出た言葉は既に意味をなしていない。側頭部に加わる圧力は増すばかり。歯を食いしばって堪えようにも目の前の光景がすばらしすぎて力が入らない…!
「あんたもいつまで見せてんのよっ! 痴女なのっ?」
「…ふん。そいつが正気に戻らないのが悪いのよ」
ゆっくりとパンツが視界から遠ざかっていく。
それを無意識に目で追っていたらとどめの一撃を食らった。
「……!」
悶絶。
踵でこめかみを踏み抜かれた。下手すりゃ首が折れてる。痛みのあまり畳を転げ周りながら何とか生きていることだけは実感できた。
と。
急に吐き気が。
『あははは、随分乱暴だね。お兄ちゃん、死んじゃったんじゃない?』
声が。
あの時の少女が聞こえる。
頭が痛い。頭の中をずきんずきんと脈打って、吐き気がどんどん増していく。全身を押さえつけていた手はいつの間にか消えていたのに、起きあがることができない。
なんだよ、これ。気持ち悪すぎる。
「やっと出てきたましたね」
『だってお兄ちゃん死んじゃいそうだし。ひどいなぁ、仲間なんじゃないの?』
「自爆テロをかますような化け物に言われたくはありません」
『自爆テロ? なにそれ? んー、やっぱり、人間って難しいなぁ。いろんな事を知ってるんだもん。ま、いいや』
『ばれてるなら、顔、見せた方がいいよね』
吐いた。
腹から喉を通って何かを吐く。それがゲロとはまるで違う固形物だということはすぐにわかった。だだ視界に写るそれを見て、さすがに頭の中が真っ白になった。
白蛇だ。
真っ白な鱗を纏った蛇が中空でとぐろを巻いている。
「ほら、こっち」
吐き気と頭痛が不自然なほどきれいに消え、代わりに妙な脱力感が支配する。畳にうずくまっていると襟首を誰かに引っ張られた。
カンナだ。
「一体、なにが」
「いいから、おとなしくしてなさい」
ずりずりと部屋の端の方に引きずられる。そのまま、何故か背中から抱き抱えられた。
背中に柔らかい感触。耳元にかすかに淡い吐息が聞こえる。なによりシャンプーの良い香りに身体が硬直した。
「ちょ、おい、カンナ…!」
「いいから大人しくしてなさい」
ね、と耳に息を吹きかけられた。
鳥肌が立った。
良い意味じゃない。むしろ、気味が悪すぎる。
まるで消えない脱力感のせいでろくに頭が働かなかったが、いくら何でもおかしすぎる。
いや、おかしいと言えばはじめからおかしかったんだ。
この部屋の状況も、あの夢みたいな現実も。
いや、そもそもの話。
おれは何をしにここに着たんだっけ?
『あーごめんごめん。スマホってやつもってないし、手紙を書くにも字も書けないからお願いしたんだよね。でも、思ったより効き過ぎたからさ、ついでに来てみたんだ』
蛇がしゃべった。
もう何に驚いて良いのかもわからない。
蛇は空中で身をくねらせながら、おれを見下ろしていた。
と。
「こんにちは、お初にお目にかかります。星野真衣と申します」
先輩が亜衣に車いすを押されて進み出た。
おれと白蛇の間に陣取った。
『これはこれはご丁寧に。初めまして。名前はまだないですが、一応神様みたいなもんです』
白蛇が快活な声で言う。
見た目はは虫類なのに、不思議と仕草が人間くさい。いや、くさすぎる。
おれが少女の姿を見たせいなのかもしれないが、それにしたって不自然すぎた。
不意に、白蛇と目があった。
瞬間、違和感の理由がわかった気がした。
ああ、なるほど。
こいつはあのときより更に人間を食ったんだ。
『さて、さっそくだけど死んでくれる?』
ウインク。
爬虫類がやるにはあまりに人間臭すぎる仕草をして、舌なめずりまでしやがった。
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