第28話 白昼夢

 竜。


 その言葉を聞いて、ようやく思考が正常に戻った、と思う。

 いや、そもそも、なんでおれは饅頭のことを延々と考えていたんだ? そんなことよりつっこみ所が満載じゃないか。


 金縛りに掛けられた時か? いや、もしかすると朝目覚めた時点で何かおかしかったのかもしれない。


 少なくとも、今どれだけやばい状況なのかをようやく把握した。いや、させられたのだ。

 

 せんせんふこく、と言った少女の視線。 

 

 あれは竜に迫られた時のそれと同じ種類のものだった。全身に鳥肌が立ち、生物としての格の違いを自覚させられる感覚。今も覚えている。


 いや、だからといってそんなことを信じろと言う方がありえな、


「あ、疑ってる。ちょっと待ってね」


 瞬間、少女が消えた。


 と、同時に金縛りが解けた。

 けれど葉っぱは未だに宙に浮いたまま。周囲は不自然なほど静まりかえっている。


 自分の呼吸すらうるさく感じる空間。


 動けるはずなのに動けない。動いたらまずいと頭のどこかで誰かが言っている気がした。


 もちろん、錯覚だ。


 けれど、今騒いでどうにかなるのか。この場から逃げ出したとしてこの世界が元に戻るかもわからないのだ。だめだ、また無駄なことを考えている。そんなことよりもあの娘がこの場に現れた理由を考えるべきだ。宣戦布告、と言っていた。文字通りだとしても。はっきり意味不明すぎる。いくらなんでもあの少女が、


「これで、いいでしょ」


 竜、だなんて。


 お約束と言えばお約束。


 上空から響いた声に見上げて見れば、そこには果たして、あの日見た竜がいた。

 太陽の光を弾く白銀の鱗。快晴の青空を埋め尽くす巨体はこの世の物とは思えない。とぐろを巻いて浮かんでいる巨体からゆっくりと頭部が迫ってきた。


 いや、相変わらず遠近感がおかしい。面貌は先ほどの少女からはかけ離れた恐ろしい印象だった。彫刻で見たそれの数倍は怖い。その上視線がおれに固定されているもんだから全身から冷や汗が吹き出して止まらない。顎どころか瞼にまで汗がかかり、目に入って染みる。


 少女、竜はそれをただ見下ろしている。


「うん、やっと信じてくれたね。…あれ、もうしゃべれるよね。どうしたの?」


 不思議そうに首を傾げた。その動きだけで腰が抜けそうになる。たぶん一瞬だ。彼女がその気なら一瞬でおれは食われる。いや、ただ近くを通っただけで吹っ飛ばされて死ぬだろう。


 それがリアルに想像できて、言葉を発することすら出来なくなっていた。


「あー、カズ君。ビビちゃった? 困ったな、こういう時どうすればいいんだっけ? 怒鳴ったらかわいそうだし、そのままにしとくわけにもいかないしー」


 今更ながらこの声が頭の中に直接響いていることに気付く。その響きがあまりに優しくて、困らせているおれの方が間違っているのかと思った。


 けれど、


「しょうがないなー。お腹一杯だけど、わかんないからなー。いただきまーす」

 

 それ自体が間違いだったと思い知らされた。


 突然、彼女は大きく口を開いた。


 無数の牙と滑った咥内。喉奥は暗く、なにも見えない。強烈な突風が吹き抜け、思わず身構える。


 そして、おれは見た。


 凄まじい勢いで周囲の建物や木が吸い込まれていく。いやそれだけじゃない。これはもっと恐ろしい光景だった。


「うそだろ…」


 コンビニのおばちゃん。上空へ吸い込まれていくのは物だけではなく人間もだった。見知らぬ人たちが自分自身への危機を自覚せずに消えていく。


 一人二人ではない。


 無数の人間が彼女に飲み込まれていく。


 なにを。


 なにをしているんだ、こいつは?


「うえ、もういいや。ふんふん。なるほどなるほど。こういう場合は笑えばいいのか。なんだ、間違ってないじゃん」


 にっこりと。


 竜はその厳めしい面貌を柔らかい表情へと変化させた。その笑顔があまりに不気味すぎて、気持ちが悪かった。


「お前、今なにした…?」


「あ、やっと話してくれたぁ。もう、怖いのはわかるけど会話くらいちゃんとしようよ。私達殺し合うんだからさぁ」


「だから、なにしたんだよっ! いま、その、食ってただろ!」


「うん、食べたよ。だって食べないと君たちのことわかんないし」


「なにを、言ってるんだ?」


 意味がわからない。

 下手に言葉が通じているからますますわけがわからない。食べて、わかる? なにをいってるんだ、こいつは? いや、それよりも今食われた人たちはどうなった?


「んー、まだまだ意志疎通が難しいなぁ。でもおなか一杯だしなぁ。ま、ついでに声かけたんだし、今日はこれくらいでいいかな?」


 それだけいって、彼女はおれから視線を外した。そのまま遙か上空を目指し、長い巨体をくねらせる。


「それじゃ、またね、カズ君」



「私が食べるまで死んじゃだめだからね」



 響く声は最後まで優しげだった。

 おれは空を見上げていることしかできない。

 その白銀の巨体が空に消えるのを最後まで眺め、おれは意識を失った。

 

                  ✴︎


「…は?」


 気がつくと見慣れた天井が視界に広がっていた。


 背中の感触も慣れ親しんだベッドのそれ。窓から差し込む日差しは強く、思わず目を細めた。


 夢、だったのか。


 上半身を起こして部屋を見回した。普段となにも代わり映えしない光景。枕元にあるスマホをつかみ時間を確認する。


「うっそぉ…」


 時刻は午前十時。


 さっきコンビニを出た時と同じ時間だ。考えたくはないが、どうやら本当に夢を見てしまったようである。


「いやいや、ありえねえだろ。あれ、夢じゃねえだろ」


 あの生々しさ。


 今思い出すだけでも寒気が走る。夢にしてはいくら何でもはっきり覚え過ぎている。


 とにかく、先輩に話さなければ。


 すぐに電話しようとしたがやめる。どこからどいう話せばいいのか、整理する必要がある。


 一階の台所に降り、コップに水を注ぐ。

 一息にのみ干した後、顔を洗った。

 だめだ、まだ頭がすっきりしない。

 居間のソファに座り、テレビを点けた。

 その瞬間、おれはさっきのことが夢じゃなかったことを悟った。


「速報が入りました、ガス爆発です。昨日暴風雨によって甚大な被害を受けた山白市の被災地で大規模なガス爆発が発生しました。近隣住民の多くが被害に合われた模様です。現在のところ死亡者は十名を越え…」


 ニュースキャスターが読み上げる内容は途中から頭に入ってこなかった。

 画面に映った光景があまりに衝撃的だったからだ。

 爆発によって火災が発生している場所はあのコンビニだった。生中継らしいカメラの映像は流れ続ける。

消防車が何台も並び、黒い煙があちこちであがっている。放水が幾重も弧をを描いている。

 夢じゃない。

 あの少女とおれは会ったんだ。

 

 そして、人が死んだ。

 

 人が死んだんだ。

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