第20話 竜

 言葉を失った。

 人間ってのは圧倒的な存在に遭うと何もできなくなるらしい。そのくせ頭の中だけははっきりしてて、驚くほど素直に考えることが出来る。

 もうだめだ、とか。

 こりゃ死んだ、とか。

 そんなわかりきったことは今更考えない。あるのは目の前に迫っているものがなにか。それを精一杯理解することだけに集中している。


 竜だ。

 それもこれまで見たどんな物体よりも大きい化け物である。


 比喩じゃない。山の稜線の向こう側から飛び出した頭部が見える。山よりも大きく、空に映る月や太陽よりも大きい。まるで山が動いたのかと思ったが、それ以上に大きな生物が動いているのだ。

 そして、その目が俺たちを捉えている。

 何故か、それだけは確信をもって理解できた。

 なんなんだ、あれ。

 

「…やりやがった」

 

 凛子の呟き。

 そこでようやく現実に引き戻される。

 けれど事態はなにも変わらない。ゆったりとした動きで蠢く竜が徐々に大きくなっていく。そのスピードもけた違いだ。一瞬でも目を離せば、倍どころか十倍にもなっている予感がある。

 だから目を離せない。

 このままここにいたらどうなるのか、わかっているのにただ見ていることしかできないのだ。

 抵抗も、逃亡も無意味。

 咆哮を聞き、目の前の光景を見た時点でそれを悟ってしまった。


『提案があります』


 先輩の声。

 凛子とレオンが跳ねるようにこちらを見た。

「…なんだと?」

『提案があります』


『もうこんなことやめませんか?』


 凛子の顔が激情に歪む。レオンの猫面も初めて苦々しいものに変わった。

 知らなかった。

 先輩は意外と煽り好きだったらしい。表情は見えなかったが珍しく声音の響きに感情が籠っているような気がした。

「っざっけてんじゃねーぞ、てめえ! わかってんだろ! あれを解き放ったらどーなるかなんてのは、あんたらが一番わかってんだろーがっ!」

『ええ、もちろん。だからこそやったんです』

「はあっ?」

『わかっているでしょう?』


『あなた達には二つの選択肢しかありません。彼を開放するかこのまま死ぬか。たとえこの世界が滅んだとしても既に縁が結ばれている。断ち切らない限り、いつまでも祟りは解けませんよ』

 

「…いかれてやがる!」

 凛子は吐き捨てるように言う。

 レオンは黙ったまま、もう一度化け物の方を見た。…後悔した。おれもつられて見てしまったせいで、現実を改めて思い知らされる。視界の六割は白銀の体躯で埋まっているのだ。

「わかった、受けよう」

「おい!」

「無駄だ。あの化け物を追い出すには巫女の力を借りねばならん。もはや交渉の余地もない」

「んなことはわかってんだよ! けどあいつはあれを目覚めさせたんだぞ! それを見逃せってのかっ!」

「我らは罪を糺すためにいるのではない。なによりも生存することが最優先事項だ」

「…ちっくしょう!」

 凛子が叫ぶ。

 …どうでもいいが、マジで時間がない。

 既に馬鹿でかい巨体の影で周囲は暗く、視界にはあの馬鹿でかい巨体の一部しか見えていない。頭上では大きくあけ放たれた口。生々しい口腔と無数の牙。あと数分。いや、数十秒で降ってくる。

「おい、ヒス女! こいつを返したらあたしらとあの化け物の縁も切るんだよなっ?」

『ええ。遺憾ですが、このままこちらに連れてこられても迷惑ですから』

 凛子が右腕を掲げ、振り下ろした。

 直後膝下まであった不快感が消え、両手足首にあった拘束が消える。

 突然の空宙からの落下。体勢を整えようとして。

 

「先輩?」


 迫る牙。

 目前にある脅威が一瞬意識から外れた。

 幻のように薄れているが、目前にいるのは間違いなく先輩だった。

 

 その姿があまりに美しすぎて、おれは言葉を失ったのだ。

 

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