バラックエリア②

 その老人は、2ブロックほど歩いた先の廃工場前であぐらをかいていた。建物の外壁は下品な落書きで無惨に荒らされ、シャッターは破られ、中は古いタイヤや壊れた家電、そのほか空き缶やスナック菓子の殻、誰かのボロボロになった服、壊れた車の部品や古タイヤ、使い物にならない家電などが無造作に積み上げられたゴミ山になっている。暗闇の中、廃工場のゴミ山はあまりにも不気味な様相を呈している。


 無造作に生え散らかした白髪頭の老人は、肩のところが破れかけた薄汚れた白い長袖シャツを着て、荒い布製のズボンを履いている。左目が灰色に濁り、私たちを見る淀んだ目に無言の圧力を感じる。老人の後ろには腰に銃を携えた2人組のタンクトップ姿の男たちが立っている。両方とも角刈で顔の見分けがつかないから、おそらく双子だろう。彼らの鷹のような目が私たちを捉えると身体が強張った。横のケニーに目をやる。額からは汗が滴り落ち、顔色を失い脚は震えている。私ですらこうなのだから、彼の緊張と恐怖は計り知れない。今にも倒れそうな伯父の背中を軽く叩き「大丈夫よ」と囁くも、耳に入っていないみたいだ。


 老人の前に敷かれたブルーシートの上には薄笑いを浮かべた不気味なフランス人形や、動くかどうかもわからない旧式のパソコンやTV、故障してさえいなければ災害時に役立ちそうな手回し式のラジオ、表紙が破れて題名すら読み取れない分厚い辞書のようなもの、ジャグリングに使う古びたコマのようなものや呪術的要素でもありそうな謎のお面もある。更にはオレンジのピルケースに入った薬までもが雑然と置かれている。値段は書いていない。


 ラウルは私たちのことをペネムに紹介した。     


「彼らがどうしてもお前に会いたいと言うから、連れてきた。どうやら探しているものがあるらしい」


 私は軽く自己紹介をした。名前はアヴリルではなく、前に観たオスカーをとったサーカス映画に出てきたライオンと同じ『ネロ』と名乗った。後ろで固まっているケニーのことも紹介し、右手を差し出した。老人は私の手を握り返すこともなく、尚も私とケニーに向かって淀んだ灰色の目を向けた。


 至る所から感じるスラムの野次馬の視線は、通常の40倍は痛いが気にしちゃいられない。


 相変わらずペネムは一言も口を効かず、後ろの双子に関しては早く立ち去れと目力で牽制しているみたいに見える。


 私はブルーシートの上の品々をじっくりと物色した。使えるか分からないガラクタまがいの物たちに混じって、1枚の白い正方形のCDケースが横たわっている。ジャケットはなく、上から見ただけではタイトルは分からない。それを手にとってケースの背を見たとき、一気に気持ちが高揚した。そこにはマジックでこう書かれていた。


ーー『スリランカ料理店で流れているBGM』


 興奮のあまり叫び出しそうになった。CDがここにあるかについては半信半疑だったのだ。スラムに来たのはダメ元だったし、目当てのものが手に入れば幸運といういわば賭けみたいなものだった。それが、自分が心から欲しいと願っていたものが今目の前に現れるなんてとても幸先がいい。


 この時の私は楽観視していたが、すぐに自分の考えの甘さを思い知ることになる。


「このCDはいくら?」


 老人は無言で右手の指をニ本立てて見せた。


「2000ペソか!」


 少し高いが、昨日ケニーからもらったお金で十分足りそうだ。だが老人は首を振って、再度その2本の指を突きつけるように近づけて見せた。


「2万ってことだ」


 ラウルに耳打ちされ、思わず「はあ?!」と叫んでしまった。


「そんなのぼったくりじゃないか! このCDは、シドニーの店で15ドルくらいで買ったはずだ!」


 食ってかかった直後、護衛の双子が腰の銃に手をやった。ビクッと肩が震え、心臓が早鐘を打つ。


「アヴィー、ここは言う通りにしたほうがいい」


 ケニーは震える声で囁いたあと、ポケットから財布を出して紙幣を数枚抜き取って老人に渡した。双子は顎をしゃくり早く立ち去るように促したが、私は一つも納得していなかった。


 まず、このジャケットも引き剥がされ明らかにコピーされたであろう代物が2万ペソなんてあまりにも高すぎる。異を唱えるなり拳銃をちらつかせて脅すのも全く道理にかなっていない。この間テレビショッピングでやっていた、音が静かで庭木の手入れもできる1万五千ペソのハイブリッド草刈機よりも高いじゃないか。しかもあの草刈機には、オマケとしてどんなしつこい油汚れもささっと取れるスーパー台所洗剤がついてくるのだ。


「せめてオマケをよこせ」


 私の要求に答えることなく、感情の読み取れない目を向け無言であぐらをかく老人。オマケつきでもまだ足りない。私はケニーとラウルのもう何も言うなという懇願にも近い視線を無視して交渉を続けた。


「2万ペソも払ったんだ。オマケをよこさないんだったら、さっさと金を返せ!」


「おい、もう辞めておけ」とラウルが肩を強く叩き、双子の睨みつけるような視線が向けられる。こんな理不尽なことがあるものか。思えばアルゼンチンに来てから理不尽な思いばかりしている。広場にいた青年と話しただけなのに彼のガールフレンドに目をつけられ、挙句友達に送るCDを買うために持っていた金も奪われた。ビンタを喰らうという、最低最悪な『オマケ』つきで。挙句、スラムに来てようやく目当てのものを見つけたと思ったら、予想を遥かに上回る額を提示され、命懸けでついてきてくれた伯父に高い額を払わせる羽目になってしまった。


 老人は薄ら笑いを浮かべながら、手元にあった薄汚れたフランス人形を私に差し出した。オマケという意味だろうか。映画に出て来たアナベル人形みたいに持ち主を取り殺したりしそうだ。


「そんな不気味なものーー」


 いらないと言いかけたその時だった。


 ーーパンッ、パンッ


 銃声が闇を切り裂いた。


 双子のボディガードが銃を構える。


「伏せろ!」


 ラウルに促されるまま、私とケニーは頭を両手で覆って腰を落とした。素早く視線だけ動かして辺りを見渡す。2人の男が廃工場の影からこちらに銃を向けているのが見えた。


「嫌だ……まだ死にたくない」ケニーは声を震わせた。


 老人は忍者のような凄まじい逃げ足の速さで近くの大きなゴミ箱の中に隠れ、傍にいたボディガード2人が敵に向かって発砲した。


ーーパンッ、パンッ


ーーパンッ、パンッ


 夜のスラムに弾ける閃光、住民たちの叫び声、子どもの泣き声ーー。黒い人影たちが一斉に各々の家に逃げ込んでいく。


「銃撃戦だ、逃げろ!!」


 ラウルが逃げるのと同時に私たちも駆け出した。


 購入したばかりのCDを落とさないようオーバーオールの腹ポケットに入れ、建物の間を縫うように逃げる。振り向くと、私の10Mほど後ろを走るケニーは既に息を切らしている。運動不足の極みの身体を久しぶりに外に出したのだから当たり前だ。さらに後方からは角刈りの護衛2人が同じ方向に駆けてくる。まもなく追っ手二人の姿も現れた。これじゃあ逃げる意味がない。


 追っ手が放った銃弾が頬を掠め背筋がひやりとする。


 目の前に2Mほどのコンクリートの建物が現れた。その前にある大きな青いゴミ箱に飛び乗り建物のトタン屋根によじ登る。ケニーが登るのを助けたあと、隣のバラック小屋のトタンに飛び移る。ケニーも腹這いの姿勢から立ち上がり、やがて意を決したみたいにこちらにジャンプした。着地でよろけて落下しかけた彼の手を掴み引き寄せ駆け出した。背後ではまだ銃撃戦が続いている。


 私たちは今にも壊れそうなトタンからトタンに飛び移りひたすら全力で逃げた。


「アヴィー、一体どうなってるんだ?!」


 ケニーは汗だくでゼェゼェ息を切らし走っている。私の方こそ聞きたい。こんな生きるか死ぬか屋根から落ちて怪我するかの展開なんて生まれて初めてだし、出来るなら一生経験したくなかった。


「私だって分かんないわよ! てゆうか、何であいつら追っかけてくるわけ?!」


 ジャンプをして別の屋根に飛び移る。ケニーが飛び移るたび、風雨に晒され年季の入ったトタンがベコっと鈍い音を立てる。銃の音がすぐそこまだ近づいている。2対2の攻防を繰り広げる男たちは、本当の敵は私たちだとでもいうかのように同じルートを駆けてくる。まるでハリウッド映画のワンシーンのようだ。


ーーここで死ぬかもしれない。


 ディアナに金を奪われ散々な仕打ちを受けた時は、いっそこのまま死んでしまえたらいいと思った。こんな人生なんていらないと。だがいざ命の危機にさらされると途端に惜しくなる。


 オーロラの顔が浮かぶ。彼女にもう一度会うまではーー。このCDを渡すまでは、これまで一緒にいてくれたことへの感謝を伝えるまでは、どうしても死ぬわけにはいかない。こんな場所で銃撃戦に巻き込まれて犬死になんて尚更ごめんだ。


 間も無く視界のずっと先、住宅地の広がりが途絶えた先に灰色の鉄条網が見えてきて、その向こうの線路に止まる紺色の列車の姿が目に入った。背後ではまだ銃弾が飛び交っている。


「もうダメだ……。これ以上は無理だ、走れない」


 世にも恐ろしい追いかけっこの恐怖と、過剰な運動のために汗だくのケニーが苦しげに訴える。


 ふと屋根の真下を見ると、出しっぱなしの小さなトランポリンがある。こんなナイスなタイミングで最適な場所にトランポリンがあるなんて、地獄に仏というやつだ。


 私は体操選手だ。そう自分に言い聞かせて屋根から飛び降りた。トランポリンのゴムに両脚を弾かれた私は、高く飛翔して地面に着地した。一方、足を滑らせ背中から落下したケニーは尻からトランポリンにつっこんで、ゴムの部分をバリっという大きな音を響かせて突き破り、地面に勢いよく尻餅をついた。


「いってぇ!!」


「大丈夫? ケニー」


 丸い骨組みだけになったトランポリンの中にお尻が挟んでバタバタともがくケニーの大きな体を支え、ゆっくりと起こす。私たちは未だ続く弾薬の爆ぜる音から逃げるように、目の前の金網をよじのぼって線路の上に降りた。フェンスの向こうには紺色の30両の列車とその後ろに連なる20両ほどの貨車が停められていた。私たちは線路を突っ切り、真ん中の車両に飛び込み身を隠した。外ではまだ銃声が止まない。

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