第13話 サーカス列車

「尻の骨が折れたかもしれない」


 乗車口前の床に座り込んだケニーが涙目で尻をさする。額からも顔からもナイアガラのように汗が溢れ出している。


 窓から外を除く。4人が金網の外で銃撃戦を繰り広げている。まだ外には出られなそうだ。


 暗い車両の中、鼻をつく獣の匂いと強い視線を感じ背後を見る。真後ろの檻、暗闇の中に二つの光る目があった。


 そっと近寄る。


 厳重に施錠された檻には一頭の雄ライオンがいた。顔を覆う長い立髪、豊かな筋肉を宿した大きな身体ーー。剥き出しになった牙の隙間からは唸り声が漏れ、警戒心の籠った獰猛そうな目で威嚇するように私を睨みつけている。


 最後にライオンを見たのは、シドニーの動物園にボーイフレンドとデートに行った時だ。彼がトイレに行っている間、私はずっとライオンの檻の前で待っていた。ライオンたちは珍しくもない客に興味を示すことなく、退屈そうに欠伸をしたり昼寝をしていた。


 このライオンも同じように檻の中にいるけれど、あの動物園で出会ったライオンたちとは何かが違った。巨大な身体全体に纏う生命力か、獰猛で威厳に満ちた雰囲気か。


「初めまして、ライオンさん。そんなに怒らなくたって大丈夫よ、私は怖い人じゃないわ」


 ライオンは後退ってまた唸った。


 恐る恐る檻に近づいたケニーが叫び声をあげる。


「ギャー!! ライオンだ!! 何でここにライオンがいるんだ?!」


 次の瞬間、この世の全てを飲み込まんばかりに大きく開けられた獅子の口から「ブオオオッ」と地が割れんばかりの烈しい咆哮が響き渡った。


「ひいぃ〜!!」


 驚いたケニーは腰を抜かし床に尻餅をついてしまった。未だライオンは「グアウウッ、ブホホウウッ」と威嚇の鳴き声を上げ続けている。


「ケニー!」


 ゴトン……


 直後、線路を車輪が転がる音とともに車両が揺れ、窓外の景色がゆっくりと動き出した。


「げ……マジ?」


 ケニーの右腕を両手で掴み力を込めて身体を起こそうとするも、尻に根っこが生えたみたいに頑なに動かない。このままでは檻の中のライオンと一緒に知らない場所に行く羽目になる。


「ケニー、早く降りないと!」


「無理だ、腰が抜けた。尻も痛い」


「そんな……」


 檻の前で腰を抜かしている伯父を一人置いて列車から飛び降りるなど、薄情なことができるはずもない。


 空気が吐き出されるシュッという音の後、汽笛が響き渡る。加速した列車は車輪の音を響かせ、速度を上げ始める。


 私は途方に暮れた。


 巨大なジャングルの王者はその間も、大きな檻の中をのしのしと音が聞こえそうな足取りで歩き回りながら威嚇の声を出し、強い光を放つ目力でもって私たちを睨みつけている。鍵が開けられたら今にも飛びかかってきそうだ。


「怖くないよ」


 檻の前まで近づいてもう一度話しかける。ライオンは突然の来客に心を許す気配はない。彼はもう一度大きく咆哮を上げ、ケニーはひぃっ、とまた小さく叫んだ。


 冷静に考えると、銃撃戦にあった時点でケニーは腰を抜かしていてもおかしくなかった。命からがら銃撃戦から生還したあとで、檻の中のライオンに腰を抜かすケニーが不思議といえば不思議だ。


「誰かいるのか?」


 車両の連結部のドアが開いて、誰かが中に入ってきた。暗闇でシルエットしか見えないが、髪は短く細身だ。手に握られた電灯から放たれる光線に目が眩みそうになる。


「誰だ、お前ら?」


 その声は声の低い女性のもののようにも、声の高い男性のもののようにも聴こえた。入り口ドア横にあるスイッチを押すパチンという音がしたかと思うと、天井の真ん中に吊り下げられてあった豆電球のあかりが灯り、相手の容貌が明らかになった。銀色の髪、切長の緑色の目をした青年ーー。年は私と同じくらいか。色白で整った顔立ちをしている。細身で小柄、中性的な雰囲気であるが、男性であろうことが分かった。彼は私たちの顔をじろじろと眺めると、「ここで何やってるんだ? 泥棒か?」と聞いた。


「おっす! おらネロ!」


 挨拶をした後でハッとした。私、本当は女なんだった。しかも、銃撃戦と列車が動き出したショックで一人称が変わり悟空風の自己紹介をしてしまった。


「そこのおっさんはなんで軍服着てんだ?」


 青年は私の性別について突っ込む様子もなく、床に座り込んでいるケニーに向かって顎をしゃくった。


「初めまして、僕はケニー。ゲーム好きの変なおじさんさ」


 ケニーは腰を抜かしたままの姿勢でひらひらと手を振った。青年の眉間の皺は先ほどより濃くなり、視線の感じからして明らかに不審者を見るそれだった。


「僕はこの頃アルゼンチンに引っ越してきたんだ。趣味は泳ぐこととサッカーをすること。この人は僕の伯父なんだ。良い人だよ、ゲームもすごく上手いし。君もあとで教えてもらうと良いよ」


 今更女性口調になっても驚かれる気がして、少年っぽい口調を保ったまま自己紹介をした。青年の視線は不審者を見るそれからはみ出し者を見るそれに変わった。彼は私を上から下まで値踏みするように眺め、「お前、女みてえだな」と感想を述べた。


「これからはジェンダーレスの時代が来ると思うんだよね。男らしさとか女らしさを語るのは古いっていうか。それよりも自分らしさが大切っていうか」


 混乱状態になると人というのは普段より饒舌になるらしい。案の定青年は怪訝な顔をしている。


「……変な奴」


「ところで、ここには何でライオンがいるんだい? 君のペット?」


 ケニーが青年に問いかけた。


「ペットじゃない、こいつらは芸をするんだ」


「芸をするのか? アシカみたいに?」ケニーが驚く。


「お前らここがどこだか全然分かってないようだけど……。これ、サーカス列車だぞ」


 どうしても事態が飲み込めなくて伯父と顔を見合わせた。サーカス列車なんて見たのは、『地上最大のショウ』という昔のアメリカ映画の中くらいのものだ。その映画に出てきたサーカス列車はいつ終わるとも知れないくらい長くて、団員たちが中で寝泊まりしながら世界中を巡業していたっけ。


「サーカス列車って、今もあるんだ……」


 そういえば10年ほど前、列車巡業をしていたアメリカの有名なサーカス団が興行を終え、団員や動物、その他の機材や道具などの移動と運搬に使っていた列車がオークションに出されたとニュースで言っていたのを思い出した。


「今列車で巡業してるサーカス団なんて滅多にない。大体のサーカス団は専用のキャンピングカーで巡業してる。列車を使って巡業してたアメリカの有名なサーカス団だって廃業した。


 親父は元々イギリス人だった。サーカス学校でアクロバットを学んだけど脚を怪我してパフォーマーになれなかった。代わりに団長になる道を選んだ。


 10年前、学校時代の先生が団長をやってたアメリカの大きなサーカス団が廃業になるってんで、そこで使ってた電車を譲り受けて修理して移動に使うことにした。親父の……団長のこだわりなんだよ。少しでもコストを下げて、効率よく移動して公演するために……」


「君のお父さんは団長さんなの? そりゃあすごいや」


「別にすごくなんかねぇよ。親父はーー」


 青年は何かを言おうとしたあと、言葉を飲み込んで小さく首を振った。


「よそ者のお前らには関係のないことだ」


 その後青年は「次の駅で止まったら、さっさと降りて帰れ」と言い残して去り、入れ違いで同じ髪色の少女がドアから入ってきた。


「あら、新しいお客さん?」


 少女の容貌から先ほどの青年の妹だろうと予想できた。髪と目の色が全く同じだったからだ。高校生くらいだろうか。銀色のウェーブのかかった長い髪で、先ほどの青年と違い穏やかな物腰で、相手を包みこむような深い優しげな瞳をしていた。そして、こんな雰囲気を持つ人を私は確かに知っていた。


「君はさっきの男の子の妹?」


「ええ、そうよ」


 笑顔の柔らかい少女だと思った。細められた目の中にある温かく潤んだ緑色の瞳はまるで、水の豊かな草原のようだった。象やしまうまなどの動物たちが草を喰み、時折柔らかな地面に横たわって心地よいまどろみの中を漂うような。


 彼女の名前はルチアといった。17歳で、先ほどまでいた兄はミラーとといい、彼らは2つ違いの兄妹らしい。


「ミラーはブランコ乗りなの」


「へぇ! ブランコ乗りっていったら花形じゃないか」


「まあね。他には曲芸師や火吹き男やジャグラーなんかもいるわ。うちのショーを観たら、絶対に虜になる」


 オーロラとサーカスを観に行ったとき、すごく興奮して感動したことを思い出した。家に帰って夜ベッドに入ってからも、昼間見た光景が瞼の裏に焼きついて離れなかった。遊園地のあちこちに貼られたロープに並ぶ三角フラッグ、子どもたちに囲まれながら風船を配るクラウン、売店から漂うポップコーンの匂い。火の輪くぐりをするライオンと、空中を飛び交うブランコ乗りたちーー。まるで夢の世界にいるみたいだった。だけど、サーカスを観たのはこの日が最後だった。


「ところでこの列車は、どこに行くんだい?」


「この後ブラジルのサンパウロで公演をして、南米の国の都市をまわってから船でアメリカに向かうわ。私たちは世界中を旅してるの、ロンドンで最終公演なのよ」


 ロンドンーー。夢にまで見た響きだった。オーロラの住んでいる場所。オーロラに会いたい。たとえ地球の反対側にいたとしても、もし彼女の顔を一目でも見られるならーーCDを渡して今までの感謝を伝えられるのなら、何を投げ出してもいいと思った。ブエノスアイレスでの鬱屈したつまらない毎日よりも、彼女に会えるかもしれない可能性の方が何千倍も輝いて見える。


「ねぇルチア、僕をロンドンまで連れてってくれない?」


「「ええ?!」」


 ルチアとケニーが目を丸くした。突拍子もないアイデアだと分かっていたけれど、ただ前へ前へと進むこの列車のように、私の心はもうすでにはるか彼方にある国に向かっていた。


「どうしても会いたい友達がいるんだ。彼女に渡したいものがあって……」


 ルチアは眉根を寄せて困ったようにうーんと唸った。


「基本的にこの列車は、サーカス団の人しか乗れないのよ……」


「お願い、何でもやるよ。動物の世話でも掃除でも、アクロバットでも綱渡りでも何でも……。動物は好きなんだ。扱いにも慣れてる。前に家で猫を飼ってたし……。お母さん方のおばあちゃんの家では牧場を営んでた。ニワトリや馬や牛や山羊や、豚もいる。犬もね」


「そうなの?」


 ルチアの顔がぱっと明るくなった。


「うん。だから、動物のちょっとした体調の変化にも気づけると思うよ。治療まではできなくても、世話くらいはできると思うんだ。掃除だって餌やりだって何だってするからさ、この通り!」


 両手を合わせて懇願をする私に、ルチアは少しふむ、と考えた後で「パパに聞いてみるわ」と笑顔を見せた。


「パパは厳しいけど、私の言うことなら大体聞いてくれるの。今は酔っ払って部屋で寝てるけど……。明日の朝、聞いてみるわ」


「ありがとう」


 ちなみに今までルチアに言ったことはでまかせでも誇張でもなく、全て事実だ。父親の実家はメルボルンにあって祖父母が牧場を営んでいた。幼い頃から長期の休みなどで祖父母の家に泊まりに行くと、動物たちの小屋の掃除や餌やり、牛の乳搾りや馬の身体を洗う手伝いをさせられた。動物たちの出産に立ち会ったこともある。だから他の人よりは動物の扱いに慣れている自信があった。何より私は小さな頃から動物が大好きだった。動物がいない生活が考えられないくらいに。


「あ、そうだ! それと……」


 ルチアは何かを思い出したように隣の車両に駆けて行った。

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