第12話 バラックエリア

 翌日の夕方、私とケニーは家を出た。ケニーはずっと部屋のラックに並ぶゲームソフトの整理をしたり、胃炎を起こしてトイレに行ったり落ちつきなく歩き回っていた。怖いのも緊張するのも当たり前だ。10年以上外に出ていないのを何のリハビリもなく、よりによってアルゼンチンで一番危険なスラムに行く羽目になってしまったんだから。それもこれも私のため。すごく申し訳ないけれど、ケニーのためにこの機会を無駄にしてはいけないとも思う。今外に出なければ、彼は残りの人生をずっとあの狭い部屋の中で送ることになるかもしれない。


 私は祖父が生前使っていた地元の草野球チーム「フクロモモンガズ」の帽子ーー中央に黒いモモンガのマークのついたオレンジ色のベースボールキャップを被り、緑と白のボーダーの長袖Tシャツの上にブルーのデニムのオーバーオールを羽織った。夜に冷え込むと悪いから、グレーのフード付きパーカーを羽織る。部屋の全身鏡に映してみたら、なかなか決まっている。元々ぺったんこな胸と童顔なのもあり、すぐ見破られないくらいには少年に見える。


 貴重品を擦られないよう背中にリュックを背負った。ケニーは一人サバイバルゲームをする時用に買った迷彩柄の軍服を着て、背中にはものものしい黒い大きなリュックを背負っている。彼曰く、これは勝負服なのだという。


「ケニー、本当に無理はしなくていいわ。私一人で行ってもいいし、何なら延期しても……」


 今朝から何度この台詞を言ったか分からない。だが、返って来る言葉は毎回同じだった。


「いや、今日行かないとずっと引きこもりニートのままだ。人生を変えるには、今しかないんだ」


 伯父の額には脂汗が浮き、手はずっと鳩尾の上を抑えている。格好だけはイカついが、ぽっこりお腹に丸顔でつぶらな瞳の彼は、どこからどう見ても屈強な兵士ではなかった。だが10年ぶりに外に出る彼からしたら、これが精一杯の気合いの入れ方なんだろう。


 バス停に並んでいると、前に並ぶ老人が怪訝な目で私たちを二度見してきた。


「私たちって、やっぱかなり怪しい?」


「怪しいのは君よりも僕の方だ。だけど怪しまれたって平気さ、どうせ僕は変な《クレイジー》おじさんだし」


 ケニーは前を向いたまま、まるで自分に言い聞かせるみたいに答えた。彼がありったけの勇気を振り絞ってここに立っている姿を、祖母と母に見せたかった。今日二人は用事があっていなかったから、母宛にケニーと出かけるとメールを送っていた。きっと帰って報告したら喜ぶに違いない。


「ケニー、本当にありがとう。私はあなたが誇らしいし、側にいてくれて心強いわ」


「当たり前だろう、姪っ子のためなんだから。ここで一肌脱がなくてどうする」


 バス停についてからずっとハンカチで顔の汗を拭いているし、迷彩のカーゴパンツに覆われた脚は細かく震えているけれど、今日のケニーは最高にかっこよかった。


 バスに乗り込むなり、乗客の視線が一気に私たちに集中した。私よりも主に迷彩服のケニーに。意図せず注目の的になってしまったケニーは、誰とも目が合わないように意識して天井を見上げているみたいだった。私はロボットのように硬直している彼を誘導して、一番後ろの席に向かった。ここなら誰かと目が合うことも少ないだろう。


 バスが走り出す。ケニーはしばらく無言で貧乏ゆすりをしながらハンカチで汗を拭き続けていた。


「私、男に見えるかな?」


「ああ、男っていうより中学生か高校生の男の子みたいだけどな」


「じゃあ、サバを読んで年齢は18歳ってことにしとこうかな」


「気づく人は気づくかもしれないけど……今の君の姿を見たら、初対面の相手は男の子だと思い込むだろうよ」


「なら、あなたは全然怖くない軍人?」


「そうかもしれないな」


 ケニーは気持ちを整えるように大きく深呼吸をした。


「アヴィー、もしスラムに行ってもCDがないかもしれないよ。そしたらどうする?」


「だとしても、見つかるまで探すわ」


「君はそのオーロラって子のことが、よっぽど大事なんだな」


「もちろん。だって、小さな頃からずっと一緒にいたんだもの。地元の友達の中では一番付き合いが長いし、沢山お世話になったし」


 本当は理由なんかどうだってよかった。オーロラを喜ばせたい、そのためにCDを手に入れたい。ごく単純な動機と感情に突き動かされている自分が本当で、それ以外は嘘に思える。


「もし万が一ギャングに襲われるようなことがあったら、君は僕を置いて逃げるんだぞ」


「そんなことしない。あなたを見捨てて逃げたりたりなんかしないわ、絶対に」


「本当かい? 僕はいざとなったら君を見捨てるかもしれない。そしたら思う存分僕を恨め。君と二度とゲームができなくなったって仕方ない」


「もし私を見捨てたら、後であなたが寝ている間に枕元に大量のガラガラ蛇を放ってやるわ」


「参ったな、蛇は苦手なんだ。せめて鰻か何かにしてくれないか。チンアナゴとか」


「鰻はヌメヌメしてて泥臭いから嫌。チンアナゴは海底にしかいないから、簡単には取って来れないわ」


「そしたらガラガラ蛇だって同じだ。第一、ガラガラ蛇ってどこにいるんだ?」


「さあ、分からない。ジャングルかどこかかな」


 数秒後、私たちは二人同時に噴き出した。彼とのこんな下らない会話がとても楽しかった。


 私には分かっていた。ケニーはこんなことを言っているけれど、いざとなったら絶対に私を見捨てはしないだろう。私だってケニーを見捨てない。私たちはいつだって名コンビなのだ。


 ケニーは勇敢だ。こんな軍人のような格好をして自分を奮い立たせようとしなくたって十分に。


 バスを降りた瞬間から、市街地とは明らかに違う不穏な空気に包まれた。


 5分ほど歩くとスラムに着いた。舗装されていない通りには、強い風が吹いたらすぐに吹き飛んでしまいそうな簡素な作りのバラック小屋が所狭しと立ち並ぶ。コンクリート作りの家もいくつかあったがほとんどの家の屋根はトタンで、中には衝立をドア代わりにしている家すらある。地面からは土埃が舞い、あちこちにタバコの吸い殻や酒瓶、使用済みの注射器、履き古した誰かのサンダルなどのゴミが散乱している。日用品や食料を売る小さな店もいくつかあったが、レジカウンター付近の煙草や酒類の並ぶ陳列棚のほとんどが盗難防止の鉄柵でガードされている。


 シャッターにスプレーで下品な落書きがされた建物の前には若い男たちがたむろしていて、彼らの領地へ足を踏み入れた私たちにギラついた目を向けてくる。


「ねぇ、ケニー。さっきからすごい見られてるんだけど……」


「気のせいだ……」


「有名人になった気分ね」


「そうだな」


 ケニーは上方の交錯しているいくつもの黒い電線と、その周りをけたたましい鳴き声を上げて飛び交う烏の群れを見つめている。まるで鳥までもが私たちに警戒を促しているみたいだ。


 必死に平静を保とうと努めているのだろうが、ケニーの声は緊張して震え、額には再び脂汗が滲み出していた。


 恐怖を感じない代わりに、突き刺さるナイフのような人々の視線が痛い。


 すれ違った黒いタンクトップ姿の男性が私たちに向かって逆ピースサインを作り、両目に当てる仕草をした。咄嗟に笑顔を作ってピースを返したら、「あれは、『危険だから帰れ』っていう意味だ」とケニーが慌てて耳打ちした。


 コンクリート造りの家の前で、煙草を吹かしている中年男性がいたので声をかけた。ペネムという老人を探していると伝えると、彼は険しい顔をして手を顔の前で振った。


「帰った方がいい、ここはお前たちのようなのが来るところじゃない」


「ペネムにどうしても会いたいんだ、会わないと帰れないんだよ」


 男子たちと頻繁に関わってきたから、彼らの口調や仕草などは容易く真似ることができた。問題は、どう声色を似せても女性にしか聞こえないこの声くらいだろう。


「坊主、よく聞け。あそこに行くのは、ペネムの知り合いや親戚なんかの顔の知れた連中だけだ。お前らみたいなのが行ったところで、護衛に銃で追っ払われるだけだ。怪我だけで済んだらいいが、命の補償はできん」


 男の台詞からどうやら男に化けるのに成功しているのだと知り安心した。


「あなたはペネムの知り合いじゃないの?」


「あのじいさんとは古い付き合いだが、それがなんだ?」


「なら、僕たちをそこに連れて行ってくれない?」


「なぬっ」男は驚いたように声を出した。


「頼むよ、お礼はするからさ。実は探してるものがあるんだ。ここにあるかどうかわからないけど、確かめるまで帰れない」


 男はここがいかに危険か、ペネムのところに行くことがどれほど命懸けの行為かについて身振り手振りを交えて説明し、私は友達のためにどうしても手に入れないといけないものがあるということ、危険なのであればついてきてほしい、たとえついてきてもらえなくても行くつもりだと伝えた。男と私の数十分にも渡る押し問答を、住民たちが警戒と好奇の入り混じった目で見ていた。


 そのうちケニーが「それなら……」とつぶやいて、リュックを開けて財布の中から札束を取り出した。


「姪っ子が友達のために、どうしてもペネムって人のところに行きたいと言ってる。これでどうか、頼まれてくれないだろうか」

 

 男は最初躊躇っていたが、根負けしたみたいに大きなため息と一緒に頭をかき、しぶしぶその金を受け取った。


「良いか、俺はただの案内役だ。お前たちに何か

あっても、命までは守ってやれん。自分の身は自分で守れよ」


「ありがとう、おじさん!」


 喜びのあまり抱きつきたい衝動にかられたが、流石に住民たちの目が痛いのでやめておいた。


 男の名前はラウルといった。ラウルは廃品回収の会社を営んでいるらしい。会社といっても自宅の裏の倉庫に事務用の机と、社員たちが廃品を入れる袋のつまれた台車を何台も押し込んだ即席の仕事場といったほうが正しいらしい。働いている人間は5歳くらいの子どもから80歳の老人まで幅広く、50人ほどいるそうだ。彼らはスラムの中や市街地周辺の瓶や缶などのゴミを拾い、生計を立てているという。


「ここは銃の音がして、盗難車が走り回るのが当たり前の場所だ。お前たちには別世界に見えるかもしれんが、俺たちにとっちゃここが全てだ。俺はこの場所で生まれて、ここの生活しかしらん」


 ラウルはポケットからタバコを取り出すと、先端をライターに近づけ火をつけた。


「俺の叔父は、俺がまだガキの頃に銃撃戦に巻き込まれて死んだ。叔母はそれで頭がおかしくなっちまって、どこかに失踪したよ」


「それは、とても辛かったですね……」


 躊躇いがちに相槌を打つケニーの横で、私はすれ違う人間たちの刺すような視線を感じていた。彼らはただ私が何者なのか訝しんでいるのか、はたまた値踏みしているのか。狭く物騒な世界しか知らない人々の目には、外部の人間というだけで異端に映るのか。


「ねぇ、どうして彼らは僕らをあんなにジロジロ見てくるんだい?」


 ラウルはそんなことも分からないのかという呆れ顔をしたあと、「警戒してるんだろう」と答えた。


「お〜い、みんな。僕たちは危険じゃないよ! ちょっと用があって来ただけなんだ、良かったらこっちに来て話そうよ!」


 シャッター前にいるグループに向かって手を振ると、彼らはニヤニヤ笑いを浮かべながら目配せをしあった。


「余計なことをするな。茶化されたと思ってキレる奴もいるからな」とラウルに言われて身を竦める。


 不安を掻き消すためにあえて戯けて見せたのだが、私の行動はこの場所では逆効果になりかねない。


 そんなラウルは前を見たまま「ここがどんな場所か、お前たちもすぐに分かるさ」とつぶやいた。


 ラウルのガイドでペネムの元に向かう間も、纏わりつく好奇と警戒の視線が消えることはなかった。


 その老人は、2ブロックほど歩いた先の廃工場前であぐらをかいていた。建物の外壁は下品な落書きで無惨に荒らされ、シャッターは破られ、中は古いタイヤや壊れた家電、そのほか空き缶やスナック菓子の殻、誰かのボロボロになった服、壊れた車の部品や古タイヤ、使い物にならない家電などが無造作に積み上げられたゴミ山になっている。暗闇の中、廃工場のゴミ山はあまりにも不気味な様相を呈している。


 無造作に生え散らかした白髪頭の老人は、肩のところが破れかけた薄汚れた白い長袖シャツを着て、荒い布製のズボンを履いている。左目が灰色に濁り、私たちを見る淀んだ目に無言の圧力を感じる。老人の後ろには腰に銃を携えた2人組のタンクトップ姿の男たちが立っている。両方とも角刈で顔の見分けがつかないから、おそらく双子だろう。彼らの鷹のような目が私たちを捉えると身体が強張った。横のケニーに目をやる。額からは汗が滴り落ち、顔色を失い脚は震えている。私ですらこうなのだから、彼の緊張と恐怖は計り知れない。今にも倒れそうな伯父の背中を軽く叩き「大丈夫よ」と囁くも、耳に入っていないみたいだ。


 老人の前に敷かれたブルーシートの上には薄笑いを浮かべた不気味なフランス人形や、動くかどうかもわからない旧式のパソコンやTV、故障してさえいなければ災害時に役立ちそうな手回し式のラジオ、表紙が破れて題名すら読み取れない分厚い辞書のようなもの、ジャグリングに使う古びたコマのようなものや呪術的要素でもありそうな謎のお面もある。更にはオレンジのピルケースに入った薬までもが雑然と置かれている。値段は書いていない。


 ラウルは私たちのことをペネムに紹介した。     


「彼らがどうしてもお前に会いたいと言うから、連れてきた。どうやら探しているものがあるらしい」


 私は軽く自己紹介をした。名前はアヴリルではなく、前に観たオスカーをとったサーカス映画に出てきたライオンと同じ『ネロ』と名乗った。後ろで固まっているケニーのことも紹介し、右手を差し出した。老人は私の手を握り返すこともなく、尚も私とケニーに向かって淀んだ灰色の目を向けた。


 至る所から感じるスラムの野次馬の視線は、通常の40倍は痛いが気にしちゃいられない。


 相変わらずペネムは一言も口を効かず、後ろの双子に関しては早く立ち去れと目力で牽制しているみたいに見える。


 私はブルーシートの上の品々をじっくりと物色した。使えるか分からないガラクタまがいの物たちに混じって、1枚の白い正方形のCDケースが横たわっている。ジャケットはなく、上から見ただけではタイトルは分からない。それを手にとってケースの背を見たとき、一気に気持ちが高揚した。そこにはマジックでこう書かれていた。


ーー『スリランカ料理店で流れているBGM』


 興奮のあまり叫び出しそうになった。CDがここにあるかについては半信半疑だったのだ。スラムに来たのはダメ元だったし、目当てのものが手に入れば幸運といういわば賭けみたいなものだった。それが、自分が心から欲しいと願っていたものが今目の前に現れるなんてとても幸先がいい。


 この時の私は楽観視していたが、すぐに自分の考えの甘さを思い知ることになる。


「このCDはいくら?」


 老人は無言で右手の指をニ本立てて見せた。


「2000ペソか!」


 少し高いが、昨日ケニーからもらったお金で十分足りそうだ。だが老人は首を振って、再度その2本の指を突きつけるように近づけて見せた。


「2万ってことだ」


 ラウルに耳打ちされ、思わず「はあ?!」と叫んでしまった。


「そんなのぼったくりじゃないか! このCDは、シドニーの店で15ドルくらいで買ったはずだ!」


 食ってかかった直後、護衛の双子が腰の銃に手をやった。ビクッと肩が震え、心臓が早鐘を打つ。


「アヴィー、ここは言う通りにしたほうがいい」


 ケニーは震える声で囁いたあと、ポケットから財布を出して紙幣を数枚抜き取って老人に渡した。双子は顎をしゃくり早く立ち去るように促したが、私は一つも納得していなかった。


 まず、このジャケットも引き剥がされ明らかにコピーされたであろう代物が2万ペソなんてあまりにも高すぎる。異を唱えるなり拳銃をちらつかせて脅すのも全く道理にかなっていない。この間テレビショッピングでやっていた、音が静かで庭木の手入れもできる1万五千ペソのハイブリッド草刈機よりも高いじゃないか。しかもあの草刈機には、オマケとしてどんなしつこい油汚れもささっと取れるスーパー台所洗剤がついてくるのだ。


「せめてオマケをよこせ」


 私の要求に答えることなく、感情の読み取れない目を向け無言であぐらをかく老人。オマケつきでもまだ足りない。私はケニーとラウルのもう何も言うなという懇願にも近い視線を無視して交渉を続けた。


「2万ペソも払ったんだ。オマケをよこさないんだったら、さっさと金を返せ!」


「おい、もう辞めておけ」とラウルが肩を強く叩き、双子の睨みつけるような視線が向けられる。こんな理不尽なことがあるものか。思えばアルゼンチンに来てから理不尽な思いばかりしている。広場にいた青年と話しただけなのに彼のガールフレンドに目をつけられ、挙句友達に送るCDを買うために持っていた金も奪われた。ビンタを喰らうという、最低最悪な『オマケ』つきで。挙句、スラムに来てようやく目当てのものを見つけたと思ったら、予想を遥かに上回る額を提示され、命懸けでついてきてくれた伯父に高い額を払わせる羽目になってしまった。


 老人は薄ら笑いを浮かべながら、手元にあった薄汚れたフランス人形を私に差し出した。オマケという意味だろうか。映画に出て来たアナベル人形みたいに持ち主を取り殺したりしそうだ。


「そんな不気味なものーー」


 いらないと言いかけたその時だった。


ーーパンッ、パンッ


 銃声が闇を切り裂いた。


 双子のボディガードが銃を構える。


「伏せろ!」


 ラウルに促されるまま、私とケニーは頭を両手で覆って腰を落とした。素早く視線だけ動かして辺りを見渡す。2人の男が廃工場の影からこちらに銃を向けているのが見えた。


「嫌だ……まだ死にたくない」ケニーは声を震わせた。


 老人は忍者のような凄まじい逃げ足の速さで近くの大きなゴミ箱の中に隠れ、傍にいたボディガード2人が敵に向かって発砲した。


ーーパンッ、パンッ


ーーパンッ、パンッ


 夜のスラムに弾ける閃光、住民たちの叫び声、子どもの泣き声ーー。黒い人影たちが一斉に各々の家に逃げ込んでいく。


「銃撃戦だ、逃げろ!!」


 ラウルが逃げるのと同時に私たちも駆け出した。


 購入したばかりのCDを落とさないようオーバーオールの腹ポケットに入れ、建物の間を縫うように逃げる。振り向くと、私の10Mほど後ろを走るケニーは既に息を切らしている。運動不足の極みの身体を久しぶりに外に出したのだから当たり前だ。さらに後方からは角刈りの護衛2人が同じ方向に駆けてくる。まもなく追っ手二人の姿も現れた。これじゃあ逃げる意味がない。


 追っ手が放った銃弾が頬を掠め背筋がひやりとする。


 目の前に2Mほどのコンクリートの建物が現れた。その前にある大きな青いゴミ箱に飛び乗り建物のトタン屋根によじ登る。ケニーが登るのを助けたあと、隣のバラック小屋のトタンに飛び移る。ケニーも腹這いの姿勢から立ち上がり、やがて意を決したみたいにこちらにジャンプした。着地でよろけて落下しかけた彼の手を掴み引き寄せ駆け出した。背後ではまだ銃撃戦が続いている。


 私たちは今にも壊れそうなトタンからトタンに飛び移りひたすら全力で逃げた。


「アヴィー、一体どうなってるんだ?!」


 ケニーは汗だくでゼェゼェ息を切らし走っている。私の方こそ聞きたい。こんな生きるか死ぬか屋根から落ちて怪我するかの展開なんて生まれて初めてだし、出来るなら一生経験したくなかった。


「私だって分かんないわよ! てゆうか、何であいつら追っかけてくるわけ?!」


 ジャンプをして別の屋根に飛び移る。ケニーが飛び移るたび、風雨に晒され年季の入ったトタンがベコっと鈍い音を立てる。銃の音がすぐそこまだ近づいている。2対2の攻防を繰り広げる男たちは、本当の敵は私たちだとでもいうかのように同じルートを駆けてくる。まるでハリウッド映画のワンシーンのようだ。


ーーここで死ぬかもしれない。


 ディアナに金を奪われ散々な仕打ちを受けた時は、いっそこのまま死んでしまえたらいいと思った。こんな人生なんていらないと。だがいざ命の危機にさらされると途端に惜しくなる。


 オーロラの顔が浮かぶ。彼女にもう一度会うまではーー。このCDを渡すまでは、これまで一緒にいてくれたことへの感謝を伝えるまでは、どうしても死ぬわけにはいかない。こんな場所で銃撃戦に巻き込まれて犬死になんて尚更ごめんだ。


 間も無く視界のずっと先、住宅地の広がりが途絶えた先に灰色の鉄条網が見えてきて、その向こうの線路に止まる紺色の列車の姿が目に入った。背後ではまだ銃弾が飛び交っている。


「もうダメだ……。これ以上は無理だ、走れない」


 世にも恐ろしい追いかけっこの恐怖と、過剰な運動のために汗だくのケニーが苦しげに訴える。


 ふと屋根の真下を見ると、出しっぱなしの小さなトランポリンがある。こんなナイスなタイミングで最適な場所にトランポリンがあるなんて、地獄に仏というやつだ。


 私は体操選手だ。そう自分に言い聞かせて屋根から飛び降りた。トランポリンのゴムに両脚を弾かれた私は、高く飛翔して地面に着地した。一方、足を滑らせ背中から落下したケニーは尻からトランポリンにつっこんで、ゴムの部分をバリっという大きな音を響かせて突き破り、地面に勢いよく尻餅をついた。


「いってぇ!!」


「大丈夫? ケニー」


 丸い骨組みだけになったトランポリンの中にお尻が挟んでバタバタともがくケニーの大きな体を支え、ゆっくりと起こす。私たちは未だ続く弾薬の爆ぜる音から逃げるように、目の前の金網をよじのぼって線路の上に降りた。フェンスの向こうには紺色の30両の列車とその後ろに連なる20両ほどの貨車が停められていた。私たちは線路を突っ切り、真ん中の車両に飛び込み身を隠した。外ではまだ銃声が止まない。

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