第11話 Girl in the mirror

 起きたのは昼過ぎだった。知らないうちに流れ出ていた涙は頬の上で乾いていた。最近こんなことばかりだ。幸せで懐かしい夢を見ていた気がするのに、その輪郭は曖昧にぼやけている。


 部屋の白い壁が滲んで見える。朝ベッドの上で目覚めるたび、ここがシドニーの実家なのではないかと錯覚しそうになる。


 一階のダイニングにはケニーがいて、サワークリームをべっとりと塗った大きなナンのようなものにかぶりついていた。私は祖母が買い置きしてくれているお気に入りのグラノーラをキッチンキャビネットから取り出して深めの皿にあけ、冷蔵庫から牛乳を取り出して注ぎスプーンですくって食べた。蜂蜜の塗られた胡桃と甘酸っぱいベリー、カリカリとしたコーンフレークを一緒に噛み砕く。


「元気がないな」


 向かいの席でナンらしきものを齧っていたケニーが、私の顔を覗き込むように見た。


「そう?」


「ああ、何かあったのかい?」


 一瞬話すことを躊躇ったが、ケニーのあまりに優しい表情と声色のために打ち明けずにいられなくなった。


「実は……」


 私は例のCDのこと、ディアナたちに昨日された仕打ちを洗いざらい打ち明けた。ケニーは「そいつは酷いな」と眉を顰めた。


「お金を取り戻すことはできなそうかい?」


「できることなら取り返したいけど、無理でしょうね……」


 例えディアナの家を特定してお金を略奪したとして、あの屈強な下僕たちを使って復讐されることは目に見えている。彼女のことだから私が降参するまで執拗に追い続け、陰湿な嫌がらせを続けるだろう。それに、今頃あのお金は彼女のセンスの悪いアクセサリーかハッパにでも使われているだろう。


「だけど、大事なお金なんだろ?」


「うん……」


 何よりも大切なお金だった。何であの時ディアナを追いかけて、力ずくでも奪わなかったんだろう。痛みにうめく暇があるなら、あの忌々しい背中に飛び蹴りの一つでも喰らわせてやれば良かった。悔しさと情けなさが蘇り手が震え、鳩尾が痛んだ。


 今財布にあるのは、ほんのわずかの小銭だけだ。休職中の母や祖母を頼るわけにもいかないし、バーガー店の最後の月の給料が口座に振り込まれるまではあと半月もある。


「そうか……ようし、分かった」


 ケニーは立ち上がると、ダイニングを出て二階に向かった。そして今どき珍しい豚の貯金箱とミニハンマーを持ってきた。


「エリーゼ……」


 呟いた私にケニーは「何だい?」と首を傾げ、テーブルに貯金箱を置いた。ケニーの手に握られたミニハンマーが振り上げられ、やがて正義の鉄槌のように降ろされる。


「駄目!」


 制止するも一足遅く、陶器の割れるガチャンという音が響く。エリーゼが壊されたみたいで、何とも言えない気持ちになる。ピンクの破片に混じって現れたのは、大量コインの山に混じる数枚のペソ札だった。


「仕事をしてた時に少しずつ貯めてたものなんだ。だけど使い時が分からなくてね。良かったら、CDを買うのに役立ててくれ」


「ケニー、流石にそこまでしてもらうのは……」


 ケニーが必死に働いて貯めたお金だ。それを私が簡単に手にしてしまうのは申し訳なかった。


「いいんだよ、アヴィー。今が遣い時って気がするんだ。君の友達のために使ってもらえるなら、僕も嬉しいよ」とケニーは私の頭に手を乗せて微笑んだ。


「本当にありがとう。今度給料が入ったら返すわ」


「いいんだよ、出世払いで」


 粉々になった豚だったものを見つめる。ケニーの善意が嬉しい反面胸が痛んだが、今回は彼の優しさに甘えることにした。返さなくていいと言ってくれているけれど、お金は必ず返すつもりだ。問題は、あのCDがまだこの世に存在しているかどうかだが。


 ケニーと私はインターネットを駆使して、例のCDを探した。ネット上のありとあらゆるCDショップーー誰も知らないような外国のマイナーな店なども探して見たが、目当てのものは見つからなかった。駄目元で音楽のダウンロードサービスも検索してみたが、深夜までかかっても成果は上がらなかった。


「もしかしたら、絶版になっている可能性もあるな」


 ケニーは薄くなった頭頂部を手でさすり、大きな欠伸をした。


 試しにオークションサイトも端から端まであたってみたが、あのCDが出品された形跡はない。ここまでくるとあのCDは本当に存在していたのか、実は私とオーロラにしか見えない幻のCDだったのではないかというオカルトじみた考えまで浮かんでしまう。


「何とかして手に入る方法はないのかしら」


 普段ならCD一枚にこんなに固執することなどない。ここまで必死になっているのは、ひとえにオーロラという存在があるからだ。褒めて欲しいわけじゃないし、ありがとうと言われたいわけでもない。ただ彼女の喜ぶ顔が見たい。その一心だった。


 何十回目かわからない欠伸をかましたとき、レッド・ブルを飲み干したケニーが不意に神妙な表情で言った。


「これは、あんまりいい方法とは言えないんだが……」


 ケニー曰く、バラックエリアでは時々ぺネムという謎の老人が闇市を開いていて、どの店にも売っていないような掘り出し物が見つかることがあるらしい。これは長いこと地元に住んでいる祖母からの情報だというから信憑性が高い。


 問題は、そのスラムにある闇市に辿り着くまでにどんな危険が待っているか知れない点と、ペネムが市を開く時間が夕暮れ時から真夜中にかけてという、一番犯罪が蔓延る時間帯という点だ。


「だけど、そこに行けばCDを見つけられる可能性があるってことでしょう?」


「可能性としては高くはないけどね」と伯父はいかにも気が進まなそうに答えた。だが、CDの入手できる可能性が浮かび上がった以上、今の私に行かないという選択肢は存在しない。


「じゃあ、明日行ってくるわ」


 ケニーはたちまち蒼白になり、ぶんぶんと音が聞こえてきそうなくらい激しく首を振った。


「スラムに行くときは、絶対に一人で行っては駄目だ! 君のような女の子が一人で行ったら、乱暴をされたり盗難に遭ったり、下手をしたら殺されることもある!」


「なら、男に見える格好をしていけばいい?」


 ケニーは腕組みをしてうーん、と長く唸った。


「そもそも、あそこに一人で行くこと自体危険なんだ」


「大丈夫よ、いくら何でも殺されることはないでしょ」


 ふとバスで会った中年女性の顔が浮かんだ。彼女の鬼気迫る様子はまるで、命の危険すら示唆しているようだった。だがこのCDが手に入れられずに悶々としている時間のことを考えたら、例え危険であろうと行く方が正解であるかのようにこの時の私には感じられた。オーロラのためなら、命すら投げ出せる気がした。


「……仕方ない。君がどうしても行くって言うんなら、僕も腹を括るよ」


 ケニーは大きな決意を表すみたいに大きく息を吐いた。


「腹を括るっていうのは?」


 言葉の意味を測りかねて、私は聞いた。


「君と一緒に行くって意味だ」と伯父は微笑んだ。一瞬耳を疑った。長いこと部屋に閉じこもってゲームに明け暮れていた彼が発した言葉が、映画か何かの台詞みたいに聴こえたからだ。


「ケニー……本気?!」


「ああ、本気さ。冗談でこんなこと言えやしないよ」


「大丈夫なの? 外に出るのよ?」


「覚悟はできたよ、今」


 胸がいっぱいになって、ケニーに抱きついた。


「ありがとう、ケニー!」


 ケニーは私のために一世一代の決断をしてくれた。ずっと外界から隔絶されていた彼にとって、この決断は容易ではないはずだ。


「でも無理しないで。もし無理そうなら、一人で行くから」


「いや、君を一人では行かせない。決めたんだ、僕は外に出る。ずっと考えてたんだ、このままではダメだ、外に出るべきだって。ずっと母さんや姉さんには心配ばかりかけてきたけど、今が勇気の出し時だ。一人じゃキツイかもしれないけれど、君と一緒なら心強いよ。僕はやるぞ、生まれ変わってみせる」


 ケニーは拳を掲げた。


「じゃあ、私も気合い入れて髪を切るわ!」


「何でまた髪を?!」


「だって言ってたでしょ? 女の人が一人でスラムに行くのはマズイって。なら、女に見えない格好をしないと」


 ケニーは「その方がいくらかは安全……かな。う〜ん……」と煮えきらない。でも私は決めていた。明日だけ、女の私は捨てようと。


 夜中の3時に二の腕まで伸びた髪を鋏でバッサリ切った。真夜中の静けさと、普段ならありえない行動。まるで何かの儀式みたいだと思った。散髪用に作られていない大きな古い鋏の切れ味は最悪で、危うく耳たぶを切りかけた。自分で髪を切ったのなんて何年ぶりだろう。最終的に女性ではなくて、少年に見える程度にはなった。私ってこんなに童顔だったのかと、顔を覆う髪が少なくなった鏡の中の自分を見つめる。


 昔からこの灰色の目がどうしても好きになれなかった。いくら周りの人から容姿を褒められたって、自分の見た目に満足したことなんて一度たりともない。ブロンドで海のような蒼い目をしたクリスティと、アメジストのような紫色の目をしたオーロラのことがずっと羨ましかった。私なんか背は低くて胸もないから体型はダイナマイトボディとはいかない。顔も雰囲気も子どもっぽいから、髪を切ると実年齢より3歳以上は下に見える。


 結局のところ人というのは、無いものねだりをする生き物なのだ。容姿にコンプレックスがある人は美しい人に憧れる。自分に才能がないと感じる人は、才能に溢れた人に嫉妬する。もし自分に100%満足している人がいるなら会ってみたい。悪いところもいいところも、誰かを羨ましいと感じる自分もーー全てを受け入れて生きられたら、どんなに幸せだろう。


 鏡の中の自分に問いかけた。


ーー私は一体何者で、これからどうなりたい?

 

 答えは分からない。でもこれだから分かる。臆病な自分を変えるとしたら、きっと今しかない。私は鏡の中の自分と向き合った。漠然と変わりたいと思っていたけれど、具体的になりたい姿は?


 自分に自信を持ちたい。変化も困難も受け流し、自分を制圧しようとするような人間にすらも、怖がらないで立ち向かえるようになりたい。強くなりたい。オーロラのために。何より自分のために。


 まだ不安な顔をしている鏡の中の私を安心させようと、一度笑いかけた。

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