第10話 救いの手

 「あらあら、あなた大丈夫?」


 ベトベトに濡れた髪の毛のまま路地を歩いていると、通りがかりの人に声をかけられた。話し方と服装、見た目は一見女性のようだったが、声と体型は男性だった。長くてボリュームのあるローズピンクのパーマヘアは、ウィッグかもしれない。


「そのままじゃ大変でしょう? こっちにきなさい」


 彼ーーいや、彼女は詳しく事情を聞こうともせずに私の手を引いて、近くのスポーツジムに連れて行った。


「ここで身体を洗いなさい」


 彼女は窓口で私の分のお金を払ってくれ、シャワーを浴びさせてくれた。厚いカーテンで仕切られたシャワールームで熱いお湯を頭から浴び、備え付けのシャンプーで傷んだ髪にまとわりついたグレープジュースを洗い流しながら、涙がまた溢れて来た。


 今度は悔しさや怒りじゃなかった。こんな最低な状況でも、助けてくれる人がいたことにほっとして胸が熱くなったのだ。これでみっともない格好を家族の誰にも見られなくて済む。ただでさえ離婚問題と口論で精神的に参っている母と祖母に、余計な心配をかけたくなかった。


 シャワーを終えドライヤーで髪を乾かし服を着てロビーに戻った私に、先ほどの人物は微笑みかけた。


「その髪の色、素敵よ」


「ありがとう」


 彼女は私にロビーの自動販売機のアセロラサイダーを奢ってくれ、長椅子に座る私の横で鼻歌を歌っていた。どこかで聞いたことのある歌だったが、題名を思い出せなかった。


「私もね、昔はよく虐められたのよ。この通り、人と違うからね」


 暗いムードにならないようにあえてそう努めようとしているのか、明るい口調で彼女は言った。


「あの時はこれからいいことなんかない、死んだほうがマシだなんて思ってたけど、今ならわかるのよ。人と違うことは悪いことじゃない、むしろすごく楽しいことだって」


 彼女はその輝くライトブラウンの目で私を見つめた。沢山の痛みや悲しみを受け入れ乗り越えてきたような、思いやりと慈愛に満ちた色の瞳だった。その時何故か、彼女には話せるような気がした。これまで誰にも言えなかったことを。


「私はずっと人に合わせて生きてきたの。好きでもない男の人と付き合って、誰かの意見に同調したり、面白くもないジョークに笑ったり……。確かにそうしてれば楽だったの、誰かに嫌われることもぶつかることもない。だけど、心のどこかではずっと違う気がしてた。まるで、自分じゃない他人の皮をかぶって生きてるようで……」


 女性は何度も頷いた。


「私も前はそうだったわ。だけど今は、自分に嘘をつかないで生きようと思ってる。むしろ、正直に生きる道以外考えられないって感じね。確かに自分自身を曝け出すことで辛いこともあるかもしれない。でも、私にとっては自分を偽って生きることの方が何千倍も辛いわ」


 彼女はまた私に微笑みかけると、ぽんと肩に手を置いた。


「きっとあなたも見つけられるわ、自分の道を。あなただけにしかできないことを」


「そんな日が本当に来るかしら」


「ええ、きっと来る」


 別れ際彼女は言った。


「あなたとはまた会える気がするわ、じゃあね」


 何度もお礼を伝彼女と別れたあと、乗り込んだバスの中で考えた。


 もし本当に人生をやり直せるとして、何をしたいだろう。幼い頃はバレエやサッカー、ダンスなんかに挑戦したけれど、どれも続かずに辞めてしまった。最初のうちは楽しくても、途中で友達と争うことが嫌になってしまうのだ。仲良しの友達も競技になるとライバルになってしまう、その状況が苦しくなった。多くの習い事には、誰かと争わないといけないという代償がついてくる。できることなら誰とも争わないでいたいけれど、それは甘い考えなんだろうか。


 誰とも争わないでいい、それでいて自分が幸せだと感じられる道を探したいなんて、男性になりたいと願う以上に非現実的な願いのかもしれない。


 その日の夜、ベッドの中である一つの思い出を思い出していた。小学5年の時にオーロラのお母さんとオーロラ、そして私の三人で遊園地にサーカスを観に行った時の夢だった。


 三角フラッグが張り巡らされたアーチ型の入り口を潜った先にある赤と白の縞模様の三角テントの先端には、イギリスの国旗がはためいていた。入り口の前には長い順番待ちの列ができていて、売店のワゴンからは綿菓子の甘い香りが漂っていた。


 私たちはポップコーンの入った箱を片手に空中ブランコのショーに歓声を上げ、ゾウの見せる芸に驚嘆し、虎の入った檻の真上で綱渡りをするクラウンを見てはらはらした。オーロラは綱渡りを見ている間中、自分の目を両手で覆っていた。


 サーカスが終わってテントから出た後に、オーロラは言った。


「サーカスって楽しいけど、空中ブランコや綱渡りをしている人を見るのは怖いわ。いつ失敗して落ちるかと思うと、心配で怖くて気が気じゃないの。今日もクラウンの人が虎に食べられてしまうんじゃないかって怖くて……」


「落ちないように訓練してるのよ。それに大体は、落ちてもいいように下に網があるもの」


「もしその網が破れたらどうするの?」


「破れないようにできてるのよ、きっと」


「ブランコの人が失敗して、弾みをつけた瞬間に真後ろに飛ばされて壁にぶつかるかもしれないわ」


「そんなことあるわけないでしょ」と私は思わず吹き出したが、オーロラの顔は真剣そのものだった。


「100%ないなんてありえないわ」


 どんなに安心させようとしてもオーロラは、「高いところでやる芸は、もう見たくないわ」と言うばかりだった。


「そう? 綱渡りやジャグリングって楽しそうじゃない? 私、クラウンにならなってもいいかも」


 子どもながらの無邪気さで能天気なことを言った私に向かって、オーロラはとんでもないというように目を丸くした。


「アヴリル、本気で言ってるの? 絶対にダメよ、危険だから!! あなたがそんな危ないことをしてるのを、私はとても見てられない!!」

 

「私は落っこちて死んだりなんかしないわ。もしも死んだら、幽霊になって毎晩あなたに会いに行く。そして枕元で囁くの、『オーロラ、オレンジピールのマフィンをよこせ。ついでにチョコチップスコーンもよこせ』って」


 オーロラは吹き出した。釣られて私も笑った。私たちはいつもこうして馬鹿馬鹿しい話をして笑っていた。


 テントの外の売店でアイスキャンディーを買い、入り口の外にいたクラウンにもらった麒麟の形の黄色い風船を持って遊園地を歩いた。途中オーロラがアイスを落としてしまって、私のを分けてあげた。


 そのあとオーロラのお母さんに見守られながら、二人でジェットコースターや観覧車に乗った。私は観覧車からシドニーの街を見下ろしながら、どうかこの楽しい時間が終わらないようにと願った。オーロラとこうしてずっと遊んでいたかった。できることなら、もう一度時間を戻してサーカスを観るところから始めたかった。すでに日は沈みかけていた。向こうの山にかかるオレンジ色の夕焼けを見ながら、寂しい気持ちになった。観覧車から降りたら魔法が解けてしまうような気がして。


「また来ましょう」


 観覧車が下に着いた時、気持ちを見透かしたみたいにオーロラが声をかけてくれた。


「そうだね、また来ようね。約束!」


 私たちは指切りをした。


 オーロラと過ごした日々をこうして懐かしく思い出す日が来るなんて、あの時は思ってもみなかった。過去の思い出は楽しくて幸せなほど、苦しみと切なさを伴う。もう二度と帰って来ない時間だと知っているから。


 ブエノスアイレスに来てからというもの、以前にも増してありとあらゆる物事をオーロラとの思い出と結びつけて考えるようになった。それほどまでに、シドニーでの彼女との日々は喜びと笑いに満ちていて、彼女とよくカラオケに行った帰りに飲んだチョコレートバーのミルクチョコフラペチーノの味並みに濃かった。


 『ハリー・ポッター』の映画の中でハーマイオニーがマクゴナガル先生から時間を巻き戻す時計をもらったけれど、もしあの時計が手に入ったら、もう一度あの時に戻りたいとお願いするだろう。

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