第6話 思い出

 翌日私は、しばらくの間お世話になる2階の自分の部屋を飾り付けした。スーツケースを整理していた時、シドニーの実家から持って来た木の写真立てに収められた一枚の写真が目にとまった。高校一年の学校行事であるキャンプで、友人のオーロラと二人で撮ったものだった。BBQのチキンを二人並んで変顔をしながら齧っているのを見て、何度目か分からない笑いが溢れた。


 オーロラと私は、小学校の時からの付き合いだった。4年生の9月に初めて同じクラスになった私たちは、席が隣だったこともあり瞬く間に打ち解けた。授業中に内緒話を沢山して先生に怒られることも多々あったし、私の教科書の落書きを見たオーロラの腹筋が崩壊することもたびたびだった。


 彼女はブラウンの長い癖っ毛で、目はアメジストのような紫色をしていた。彼女が笑ったときにその宝石のような瞳が細められると、全てのマイナスの感情が穏やかな海の波に包まれて、泡になって消えてしまうみたいな不思議な気持ちになった。


 オーロラは絵本作家になりたいという夢を持っていた。休み時間になるとよく教室で小さな女の子や、その友達の犬や馬や鳥などの絵を描いていた。どの絵も生きているみたいで可愛いらしくて、オーロラの純真な性格を表しているみたいで大好きだった。絵を褒めると、いつもオーロラは恥ずかしそうに笑った。どんなに褒められても控えめで天狗になったりしない。むし自分の才能に自信が持ちきれなくて、そんな自分自身に鞭打つように陰で努力を重ねる。彼女はそんな子だった。


 また、オーロラはマイペースでぼんやりとした子どもだった。天然でドジばかりするものだから、よくクラスの男子たちにからかわれていた。彼女を救うのは私の役目だった。オーロラがいじめられるたび、自慢のパンチとキックで男子たちを蹴散らした。


 オーロラは自分のことを不器用でノロマだと形容した。私からしたらため息が出るほど絵が上手くて、お菓子作りが天才的に上手な彼女をそんな風に感じたことはなかったけれど、オーロラは他の子どもと比べて自分ができない子であるという劣等感を持っているらしかった。


 4年の夏休み明け、体育の時間にクラス全員で自転車の練習をした。だがオーロラは一人だけいつまで経っても乗ることができず、後ろの車輪に補助輪を一つつけているのに何度も転んだ。それを見た男子たちが、案の定オーロラをからかった。オーロラは泣かなかったけれど、見ていた私は何故か泣きたい気持ちになった。


 放課後、私たちは公園で二人きりで自転車の練習をした。早くみんなに追いつきたいからと補助輪を外すと言い張ったオーロラは、二輪になった自転車で何度も転んだ。日が沈む頃には腕も脚も傷だらけになり、血が滲んでいた。


 何度めか分からない転倒のあと、オーロラはついに泣き出した。


「やっぱり私はみんなと違って出来ない子なんだわ。もう一生自転車になんか乗れない」


 地面に座り込み涙を流しているオーロラの髪を、私は何度も撫でた。


「オーロラ、別に自転車なんか乗れなくたっていい。あなたは誰よりも優しいし、話してて最高に楽しい。絵だってクラスで一番上手だし、お菓子作りもあなたにかなう子はいないわ。私はあなたがいてくれたらそれでいい」


 オーロラは私の顔を見て「ありがとう、アヴィー」とほっとしたように笑った。そのあと手で涙を拭うとまた立ち上がって、「もうちょっと頑張ってみるわ」と言った。


 日が沈む頃、ついにオーロラは転ばずに走れるようになった。


「やった! オーロラ、やったわ!!」


 私たちは嬉しさのあまり抱き合って喜んだ。私は知らないうちに泣いていた。オーロラは目を潤ませて私にお礼を言った。


「アヴィー、本当にありがとう。あなたのお陰よ」


 私はこの時思った。オーロラの笑顔を見るためだったら、私は何だってできると。勉強が苦手な私に教えるのはオーロラの役目だった。テスト前になると私たちはお互いの家で二人で勉強をした。時々、オーロラの幼馴染のクリスティも仲間に加わることもあった。クリスティはオーロラのことが大好きで、最初の頃は彼女のことを独り占めしたいあまり私を仲間はずれにしようとした。そんな彼女を、オーロラは嗜めていた。


「アヴィーも仲間に入れましょうよ、2人より3人の方が楽しいし」 


 そう言って。


 オーロラは優しくて、繊細な気遣いのできる子だった。


 独占欲が強く、少しでもオーロラと一緒にいたいクリスティは最初は私の存在に不満を持っているみたいだったが、3人でいる時間が増えると、だんだん私のことを仲間はずれにしなくなった。オーロラが何かの用事で遊べない時などは、2人で遊ぶくらいには仲良くなれた。


 オーロラの家で勉強をしている途中、私とクリスティが飽きてお喋りを始めると、オーロラは唇に人差し指を当ててしーっと声を出した。


「あと十分だけ頑張ろう。そうしたらお楽しみが待ってるから」と。


 クリスティも私もお楽しみの正体を知っていたから、残りの時間は口にチャックをし、最高密度の集中をして勉強した。


 休憩時間になると、オーロラの呼びかけとともに階下から彼女のお母さんが作ったおやつを持って現れた。オーロラのお母さんは、目の色以外はオーロラにそっくりだった。時々オーロラも、自分でお菓子を作ってご馳走してくれた。二人が作ってくれるお菓子は、どれもほっぺたが落ちそうなくらいに美味しかった。だから勉強がない日でも、私はしょっちゅうお菓子目当てで遊びに行っていた。


 オーロラと一緒にいると眠くなった。彼女はマイナスイオンみたいにただ近くにいるだけで相手の緊張を解いて安心させる、不思議な能力を持っていた。どんな人でもオーロラと話していると心を許してしまい、他の人に話せないことを話してしまう。私もそうだった。彼女の目に見つめられていると、本音が意図せずぽろぽろと口からこぼれ落ちた。そのどれもをオーロラは暖炉の火みたいに暖かい笑顔で受け止めてくれた。

 

 中学に入ってボーイフレンドができても、オーロラとの友情は健在だった。オーロラの優先事項はお菓子作りと絵を描くことだった。絵本作家になるのが夢だったオーロラは、しょっちゅうノートに絵を描いていた。それに私が勝手に台詞を付け足して、おかしな漫画を作ったりもした。


 クリスティがオーロラに失恋したのは高校2年の時だった。幼い頃からクリスティのオーロラに対する友情を超えた特別な気持ちには気づいていた。長い片想いが終わったあとの彼女の傷心ぶりは見ているのも痛々しいほどで、オーロラを忘れるために次から次へと相手を変えて派手な交際を繰り返した。


 受験が終わり卒業を控えてもなおクリスティの奔放な行動はおさまることを知らず、二股、三股は当たり前で、スキャンダラスな話題を振り撒き続けた。クリスティの行動を見ているのは辛かったし、それによってオーロラが傷ついているのを見ていられなかった私は、ある日クリスティを家に呼び出した。彼女の行動が自己破壊的で見ていて心配であること、このまま同じことを続けていても自分が傷つくだけだということ、オーロラも深く傷ついていることを伝え、こんなことはもうやめるべきだと伝えた。だがクリスティは頑な私の意見を聞き入れず、私たちは軽い喧嘩になった。それからクリスティとは以前より疎遠になったものの、オーロラと私は高校を卒業し、それぞれ別の大学に進学しても友達であり続けた。


 部屋の壁にオーロラや他の友人たちと撮った写真を並べ、一枚ずつ画鋲で止める。どの写真の中でも、私とオーロラは笑っている。


 高校に入ってからの習慣で、私はいつも日曜になるとゲリラ的にオーロラの家を訪れた。ベッドで眠っている友人を叩き起こし、ボウリングやカラオケ、ネイルやプールなんかに誘った。


 形ばかりのノックを2回して彼女の部屋に入るなり「オーロラ、カラオケに行くわよ!」と私が声をかけると、オーロラは最初眠そうに目をこすりながら「アヴィー、来るのが早いわ」とぼやく。でもぼやきながらも、彼女はいつも追い返したりしないで最後まで遊びに付き合ってくれた。


 この遊びの誘い方は多少強引ではあったけれど、今となっては良かったと思う。オーロラとの時間を沢山作ることができたし、最も楽しい方法で活用することができたから。私はあたかものちに私たちに降りかかる神様の悪戯的な運命をどこかで知っていたみたいに、休日になると彼女と遊ぶことにこだわっていた。恋人よりも優先すべきは、彼女との時間だったのだ。


 そして、その日はやってきた。


 オーロラは3年前ーー2025年の夏の終わりにイギリスに引っ越した。彼女が引っ越すと聞いて悲しかったけれど、泣いたらオーロラも悲しむんじゃないかと思ったから、引っ越す日まであえていつも通りに接した。彼女が引っ越す前の週末には一緒にボウリングに行った。何もかも今まで通りで、それが失われてしまうことが信じられなくて、オーロラの笑顔を見るのが辛かった。


 母曰く、オーロラが引っ越してから私は笑うことが少なくなったらしい。


 今一番会いたい相手は誰か? って聞かれたら、迷わずオーロラと答えるだろう。オーロラは今ロンドンに、私はアルゼンチンにいる。彼女とは3年以上会っていないし物理的には地球の裏側にいるのに、星の軌道のように見えない何かで繋がっている気がする。そんな保証なんてどこにもないのに、何故かそんな気がしてならないのだ。

 

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