第5話 ケニー伯父さん

 空港からの40分のドライブのあと、祖母の家に着いたのは20時を過ぎた頃だった。


 祖母は私たちに温かい郷土料理と得意のチェリーパイを振る舞った。


「疲れたでしょう、たくさん食べてゆっくり休みなさい」


 久しぶりに会う私に祖母は愛情深い眼差しを送った。


 長旅の疲れでほとんど食欲がなかったけれど、せっかく作ってくれた料理を食べないのは悪いと無理やり胃に押し込んだ。


「無理に食べなくてもいいのよ」


 食べている途中祖母は優しく声をかけた。


「無理なんかしてないわ、すごく美味しい! もっと食べたいところだけど、もうお腹いっぱい」


 祖母は「そう、じゃあまた明日食べなさい」と微笑んだ。


 夕食後、伯父のケニーの部屋に向かった。祖母の息子であり母の弟であるケニーは、今年40歳になる。15年前に広告会社を辞めてからというもの、再就職することもなく趣味のゲームをしながら家に引きこもっている。


 彼のことは大好きだ。幼い頃から母に連れられて泊まりにくるたびに、ケニーはいつもマリオカートや三國無双などのテレビゲームで対戦してくれた。幼い私は伯父がわざと負けてくれているのにも気づかずに、何度もガッツポーズをして勝利の歓声を上げたものだった。


「やぁアヴィー、久しぶり」


 ドアを開けた時、テレビと向かい合うように設えられた黄色い革張りのソファで背を丸めて漫画を読んでいたケニーは、顔を上げて私に微笑みかけた。


 私は一通り部屋を見渡してケニーの横に腰を下ろした。


「また漫画増えたわね」


「だろ? 君が好きな『クレヨンしんちゃん』も全巻揃えたんだ」


 ケニーは前に会ったときよりもおじさんらしくなった。丸顔とぽっこりお腹は相変わらずで、頭頂部の髪は薄くなり、笑うと目尻に皺が寄る。だけど目が細まってくしゃっとなる優しい笑顔も、語りかける時の柔らかい声もケニーのままだ。


 元々コミックカフェのようにしたかったというケニーの部屋は、テレビとドアのある場所以外の壁が黒い本棚で覆われていて、中には好きな漫画が全巻びっしり揃えられている。部屋の真ん中には同じく黒い木のテーブルがあり、ゲーム用のノートパソコンが一台置かれている。


 入り口ドアの脇にはコーヒーメイカーと重ねられたコップが置かれている。


 幼い頃からこの部屋にいるのが好きだった。祖母と母が喧嘩をすると、いつもここに逃げてきた。一日中いても飽きなかった。好きな漫画を読み終わる前にシドニーに帰るのが名残惜しかった。数年後にまた来る時には新しい漫画やゲームが増えていて、心が躍った。


 ケニーに誘われるがまま、マリオカートで対戦をした。気づけば時間を忘れて一時間以上遊んでしまった。


「アヴィー、強くなったな」


 とケニーは感心したように笑った。


 私たちはシドニーとヴェノスアイレスで離れて住んでいるときも、よくインターネットのバトルゲームで対戦していた。時にはRPGでパーティを組んで一緒に戦うこともあった。私のアバターの名前は『ライオンガール』だ。ゲームのスタート時、たまたまついていた子ども部屋のテレビでディズニー映画の『ライオン・キング』を放送していた。名前はそこから取った。


 ケニーのアバター名は『クレイジーおじさん』だ。自分で変なおじさんと自虐するあたり、いかにもケニーらしい。


 ひとしきりゲームで遊んだ後、まだ読んでいなかった『クレヨンしんちゃん』の47巻を読んだ。ちょうど、松坂先生の恋人の徳郎さんが飛行機事故で死んでしまう回だった。


「徳郎さん、死んじゃうんだね」


 大きな心を持つ骨マニアの徳郎さんと、厚化粧でセンスの悪いブランドの服ばかり着ているツンデレの松坂先生を陰ながら応援してきた身としては、二人の恋の終わり方はあまりに悲しすぎた。

 

「ああ……。僕もショックだったよ、二人には幸せになってほしかったからね」


 パソコンで『グランド・テイル』というRPGをプレイしているケニーも、残念そうに項垂れた。そのあと、ゲームを一時停止した彼はぽつりとつぶやいた。


「僕はきっと、40代のうちに死ぬ」


「どうしてそんな悲しいことを言うのよ?」


「この間ニュースでやってたんだ。インターネットゲームを三日間ぶっ続けでプレイしてた、カリフォルニア州の40代の男性が死んだって。きっと僕もこのままだと同じ道を辿ることになる」


「だけどあなたはそんなに長い時間プレイしてないでしょ?」


「そうだけど……。どのみち僕は、長く生きられない気がしてならないんだ」


 ケニーの短所は、こんな風にマイナス思考すぎるところだ。以前のケニーは、少し内気なところはあったものの気を許せる遊び仲間も何人かいて、一緒に出かけたりもしていたらしい。彼が仕事を辞めたのは15年前のことだった。広告代理店でウェブデザイナーの仕事をしていたケニーは職場で一部の同僚たちから嫌がらせを受け、精神を病んで退職した。それからというものマイナス思考ぶりが加速を極め、私の前でネガティブ発言を連発することもたびたびある。


「ネットゲーム友達のネッドとジョエルにこの間、近いうちに死ぬかもしれないと話したんだ。そしたら奴ら何て言ったと思う? 『家にあるゲームを全部俺によこせ』『いや俺のもんだ』って、オンラインゲーム上で喧嘩を始めたんだ。しまいに、『きっかり同じ数を山分けするから、誰になんのゲームを遺すか、今すぐ二人分の遺言状を書け』って詰め寄る始末さ」


「うわぁ……」


 何て醜い争いなんだろう。遺産や土地を巡る大人たちのドロドロの争いなら、テレビドラマで何度も観た。だがゲーム一つを巡っても、人はここまで醜く変貌するものなのか。私がケニーだったら人間不信になって、余計にマイナス思考の迷宮に入り込むに違いない。


 ケニーは項垂れて大きくため息をついたあとで言った。


「だから僕は二人に言ってやった。『君たちのような薄情者にやるゲームなんて一つたりともない。全部姪のアヴィーに遺す』ってね」


「そんな……」


 ケニーの気持ちは、胸がいっぱいになるくらいにありがたい。だけどケニーが死んでしまうのだけは嫌だ。彼は私の数少ない理解者の一人で、いつだって心強い味方だった。学校の人間関係や恋愛のこと、家のゴタゴタのことなんかで行き詰まって相談をすると、一つも否定することなく話を聞いてくれて、いつも冷静で的確なアドバイスをくれた。ケニーに話すとモヤモヤした悩みもどこかに飛んでいって、ペパーミントオイルで頭をマッサージしたときの何倍もすっきりした気持ちになった。


「気持ちはすごく嬉しい。だけど、ゲームなんて要らないから、あなたに生きていてほしい」


 ケニーには幸せでいてほしい。絶対に死んでほしくない。いつまでもクレイジーおじさんとライオンガールで対戦していたい。クレイジーおじさんがいなくなったら、ライオンガールの存在意義なんてなくなってしまう。ケニーが死んだら、きっと私も死んでしまいたくなる。


「ありがとう、アヴィー。君は数少ない僕の心の友だ」


 ケニーは泣き出しそうな私に向かって、優しく目を細めた。


 ケニーの部屋のソファでうたた寝をしていたら、祖母が二人分のバニラアイスクリームを持ってきてくれた。昨日賞味期限切れでパサパサになった変なパンを食べたおかげでお腹を下しているというケニーの分まで平らげたあと、シャワーを浴びて自分用に用意された寝室に向かった。私が眠っているうちに、ケニーが一階から荷物を運んでくれたらしい。スーツケースと貴重品の入ったバッグが床に置かれている。


 荷解きは明日やることにして、疲れた身体をベッドに横たえた。肌に触れる冷たいシーツと、柔らかい枕とマットレスのほどよい硬さが心地よい。


 アルゼンチンに来たくて来たわけじゃない。シドニーに残る気になれば残れたのにそれをしなかったのは、マイペースで適当で気分屋で、家を散らかし放題のだらしない父親と二人で暮らすのが嫌だったから。何より離婚により精神的に不安定になっている母を一人で行かせたくなかったからだ。母のことが特別好きなわけではない。父のことも嫌いなわけではない。どちらについていくかは、幼くない私にとってはそれほど重要ではなかった。


 これまでずっと、周りに流されるがままに生きて来た。今回だってそうだ。確固たる意思や信念なんてない。大学に入ったのも辞めたのも成り行きに任せた結果で、運命に抗おうともがくことなど選択肢になかった。


 恋愛においても言えることだ。中学の頃から告白されるままに付き合っては、言われるがまま別れることを繰り返して来た。本気で好きになった相手など一人もいなかった。相手を深く知りたいと感じたことすらなかった。相手と同じものを好きになれば相手のことを少しは好きになれるだろうかと思って、相手の好きな音楽を聴いたり、相手が観たいという映画を一緒に観に行ったりもした。出かける時も行き先を決めるのを相手に任せていた。自己主張をしてくれと言われれば、その場しのぎに遊園地やビーチなど、友達がデートで行くような場所を挙げてみたりした。でもどれもちっとも楽しくなんてなかった。それでも相手に合わせるのは、相手を傷つけたくないし、嫌われたくないから。波風を立てたくないからだ。


 これからも、私はこうして生きていくんだろうか。本当にやりたいことが見つからず、心から愛せる相手に出会えないまま死んでいくのだろうか。生ぬるい安心しか与えてくれない普通の枠にはまって、周りに流されるまま……。本当にそれでいいんだろうか。


 アヴリルのあの曲のサビの最後のフレーズを大声で叫ぶことができたら、どれほど幸せだろう。

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