畜生
尾八原ジュージ
熊め
最近、山から下りてくる熊がどっと増えた。母数が増えれば中には変な奴もいるもので、病欠明けのある朝、おれがオフィスに出勤すると、先月無断欠勤を続けたまま退職した新入社員の席に、体長二メートルくらいはありそうなでかい熊がヌンと座っていた。おれは思わずキャンという声と共に飛び上がった。
「あっごめんごめん。
課長が教えてくれたが、納得がいかない。急に今日から一緒に働く仲間です、と紹介されても受け入れ難い。熊だぞ。
「いや〜今マジで山やばくて。食うもんとかガチでなくって。したら人間社会に適応してった方が、絶対いい暮らしできるじゃないすかぁ〜なんつって!」
熊は軽率そうな喋り方をし、最後にブヒッと声を出した。不細工な笑い声のせいか、周囲の皆も一緒に笑った。
「木下さんでしたっけ。おれのことは
熊山だと。なんだそのそのまんまの苗字は。
こんな熊丸出しのやつが人間社会でやっていけるものか――と思いきや、おれが高熱を出してぶっ倒れていた一週間の間に、熊山はずいぶん皆になじんでしまったらしい。
「木下くんがいない間、熊山くんが給湯室のシンクの掃除やってくれたのよォ。ほら、きみの当番だったでしょオオ?」
お局の
「へー。熊って器用なんすね~」
などと言って流してみたのだが、すでにオフィスの中はおかしくなり始めていた。
「あっそうそう木下くん、
課長に突然そう言われて、おれはまたキャンと声を上げた。鐘餅といえば、大口顧客のひとりではないか。
「いやぁ、君が休んでる間にさぁ、ピンチヒッターとして熊山くん連れてったら、えっらい気に入られちゃって」
嘘だろ。なんでだよ。
「なんでおれよりその熊がいいんですか。納得いきません」
おれが課長に文句を言うそばで、熊山は困ったような顔でペコペコしながら「すみません……」などとほざく。周囲はおれたちを遠巻きにヒソヒソ――と、どうやら熊山ではなくおれのことをヒソヒソやっているらしい。
「自分がいない間に助けてもらってたっていうのに、何? あの態度」
「あれって差別じゃないの」
「熊山くんがかわいそうよねェ」
おれは自分のやったことが予想以上の悪手だったと、ようやく悟った。
翌日も熊山は出勤してきた。おれが出社してきたときには、熊山はもうパソコンを立ち上げ、会社で契約しているビジネス系月刊誌のページをめくっていた。おれに気づくと黒くてでかい頭をぱっと上げ、「木下さん、おはようございます!」といい声で挨拶した。
「おお……おはよ」
気まずくてそんな風に返すと、熊山は顔だけでニィッと笑った。おれはぞっとした。牙を剥き出したその顔は、見るからに捕食者側のものだった。
「今週末の
その日、課長にそう言われておれはひっくり返りそうになった。頭の中身が沸騰しそうだった。それは本来、おれが行くはずだったイベントではないか。担当者のひとりとして先方に挨拶をし、お菓子を配ったり屋台を運営したりして顔を売る。そういう貴重な機会ではなかったのか。
「課長! この熊、やきそばとか作れるんですか!?」
「焼きそば作るのは俺がやるよ。熊山はとなりで立っててくれればいいから。来場者には子供も多いしな、みんな驚くぞぉ~」
「いや驚くのは絶対驚きますけど、危険ですよ! 熊山が子供を襲ったらどうするんですか!?」
「そんなぁ、おれ絶対にそんなことしませんよぉ。爪も切りましたし、ねっ?」
熊山はあわてて否定したが、その必死さがおれには怪しく見えた。どんなに優しそうでも、愛嬌があっても、熊山はでっかい熊だ。ひとたび奴が暴れれば生身の人間などひとたまりもない。家族連れが集まるハウスメーカーのイベントがどうなってしまうのか、考えただけでも怖ろしい。イベント当日の日曜、ふと目にしたスマートフォンに通知されるおぞましい内容のニュース速報――目に浮かぶようだ。現場は阿鼻叫喚の地獄絵図、歴史に残る大惨事となるだろう。もういい。おれの知ったことか。
そして週明け。
熊山は当たり前のように出勤し、各種ニュースサイトを今か今かと目を皿のようにして見回っていたせいで寝不足のおれに「木下さん、おはようございます!」とほざく。
「いやぁ、熊山くんのおかげでイベントは大成功! 大盛り上がりだったよ!」
課長は大満足らしい。
「いやいや、皆さんのおかげですよ〜」
熊山は肩をすくめ、照れて短い爪で頭を掻いた。癇に障る動作だと思った。
その日の昼休み、おれが喫煙スペースでたばこをふかしていると、熊山がやってきた。
「チス木下さん、おつかれで〜す」
「んだ熊山……おまえタバコとか吸うんかよ」
「いや吸わないスけど、木下さんとあんましゃべったことないな〜と思いまして。おれ何か失礼なことやっちゃいましたかね?」
「別に。お前のことが嫌いなだけだよ」
うっかりそう言ってしまってから、おれはしまったと思った。が、熊山はにんまりと笑っていた。捕食者側の笑みだった。
「やだなぁ木下さん、そんなこと言わないでくださいよぉ」
おれは急いで煙草の火を消し、喫煙所から飛び出した。
翌日出勤すると皆がなんとなく冷たい。馬場谷のババアなどはあからさまに厭な顔をする。どうもおれが熊山をいじめたという話が出回っているらしい。
おれはいたたまれなくなって、オフィスを飛び出した。
街並みを見渡すと、いつのまにかちらほらと熊が混じっている。あいつらは仲間なんかじゃない。山から下りてきて、最初からそこにいたものの居場所を奪い、人間社会に適応しようとしているんだ。居場所をなくしたものは奴らの代わりに山中を彷徨い、どんぐりを食って暮らさねばならない。そして大多数の人間はそのことに気づかないのだ。なんと狡猾で邪悪な生き物だろう、熊ってやつは。
課長から電話がかかってきた。おれは「体調が悪いので早退します」と言って電話を切った。
「なぁ木下よ」
次の日も無断欠勤していると、課長がおれのアパートまでやってきた。
「お前が一番熊山のことをわかってやれるんじゃないかと思ったがなぁ」
小汚い煎餅布団の上に座り込んだおれは、牙を剥き出してうなった。会社を休んで引きこもっているうちに、おれはだんだん人間としての理性を失ってきていた。牙もひげも尻尾も出しっぱなしで、もはや見た目は完全に元通り。
つまり狸の姿に戻っていた。
「課長。あんな変化の術も使えないやつに、でかい顔させといていいんですか」
「いいんだよ、重要なことなんだ」
課長が言った。ふたりきりだから油断しているのだろう、これも狸のひげを出して、ぴんぴんと動かしている。
「熊だけじゃない、これから変化の術が使えない同志たちが次々に山を下りてくる。熊たちはその先鋒隊なんだよ。人間どもはいずれ我々を警戒することを止め、心底から信頼するようになる。そのための布石なんだ。まずは我々狸や狐が変化の術を使って人間社会に溶け込み、社会的地位を得る。それから熊たちがやってくる。彼らは我々のサポートを得て、動物の姿を丸出しにしたまま、社会の中でのし上がる。我々の中では、熊がこの任務に最適だ。見た目は親しみがわく上に、いざとなったら戦うこともできる。な? そうやって俺たちにとって都合のいい社会を作る。そこに適合しない人間どもは、皆山に追いやるんだ。なぁ木下、おれたちはそういう世界を成し遂げようと語り合ったじゃないか」
「あんたわかってないな」おれは鼻で笑った。「熊山は、おれたちもいいように利用するつもりですよ。あいつが時々見せる顔、あんた知らないでしょう。貴様らなどいつでも食い殺せるんだぞって、そういう顔をしてますよ」
「木下」上司がおれの肩にぽんと前脚を置いた。「お前疲れてるんだよ、休め」
翌日、おれは出社した。変化の術を使い、熊山の姿になって。
そして声をかけてきた馬場谷のばばあの顔を、鉤爪のついた手で殴り飛ばした。
馬場谷の顔は抉れ、社内は荒れに荒れた。どこからか備え付けの銃が発射され、おれは尻尾を砕かれたショックで狸の姿に戻ってしまった。
「おれは残念だよ。今日のランチは狸汁だ」
課長はそう呟き、冷たい目でおれを一瞥した。
おれはオフィスの隅に吊るされ、狸汁専門の料理人が来るのをなすすべもなく待つしかなかった。熊山のことを最期に睨みつけてやろうと待ち構えていたが、何があったのか奴は一向に出社してこなかった。
やがて一報が届いた。なんと熊山は、一山越えたところにある牧場でひそかに肉牛を襲っていたのがばれ、昨夜現行犯で射殺されたのだという。聞けば、牧場は前々から熊の被害に悩まされていたのだそうだ。
おれは嗤った。
「ははは、何が人間社会に溶け込むだ! やっぱりただの畜生じゃねえか!」
そう言って吊るされたまま延々と嗤い続けた。そのけたたましい声を遮るように、ようやくやってきた料理人がオフィスのインターホンを鳴らした。
畜生 尾八原ジュージ @zi-yon
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