第32話 アレキサンドラ

 謹慎きんしん中の身であるアレキサンドラは、オブライエン公爵邸の中、自室に閉じ込められていた。


 閉じ込められるとは言っても、そこは寝室だけでなく、居間、客間、浴室など、生活に必要なものはすべてそろえられている、贅沢ぜいたくな一角だ。


 部屋の入り口には騎士が立ち、特定の侍女以外の出入りはできないにしろ、アレキサンドラに生活の上で不自由はなく、公爵令嬢として必要な面目は立てられている。


 今、アレキサンドラは大きなお茶のお盆を持って入ってきた侍女を見ながら、考え込んでいた。


 扉の外には、騎士が2名、見張りとして付いている。

 父は連行され、邸内に父がいる気配はなかった。

 判決が出るまで、すでに牢に入れられているかと思われた。


 アレキサンドラにも自由はない。

 部屋にやってくる侍女も、いつもの侍女ではなく、態度は硬いし、一切彼女と話すことはない。


 部屋で待機することもないし、アレキサンドラの世話も最低限のみだった。

 アレキサンドラは深い緑の簡素なドレスを着て、長い髪も簡単にまとめただけ、という姿で、静かに室内で過ごしていた。


 本を読んだり、刺繍をしたり、時には誰かに手紙を書こうかと思いつくこともある。しかし、その手紙が相手にきちんと届けられるのか、アレキサンドラには確信がなかった。


「カイル様……」


 アレキサンドラは皇帝の名前を呼ぶ。

 彼女は自分の父が何をしたのか、すでに察していた。


 もはや自分は罪人の娘。

 カイルを思う気持ちはあるが、もうこの想いが叶うときはないだろう。

 アレキサンドラ自身も、自分への処罰しょばつを待つ身なのだから。


 そんな時に、侍女がいつものお茶の支度とともに、カイルからの短い手紙を届けてきた。

 あわてて手紙を広げると、そこにはカイルの手で、簡単なメッセージが書かれていた。


『アレシアがあなたと共に祈りたい、と言っている。応じるかどうか、返事を侍女に伝えてください』


 アレシアと?

 アレキサンドラはその意外な名前に、目を見開いた。


 アレシアなど、アレキサンドラがいなくなれば、1番に喜ぶべき人物だろうに。

 その時、アレキサンドラは思い出した。

 アレキサンドラはアレシアの服と飾り帯を預かっていたのだ。


「そうだわ。あれを返すんだった」


 服を自分にたくした時の茶目っ気のあるアレシアの顔を思い出して、アレキサンドラは数日ぶりに、くすり、と笑った。


 あまりにも大変なことが続いて、アレシアからの預かり物のことはすっかり忘れていた。

 アレキサンドラは返事を待っている侍女に微笑みかけた。


「ぜひに、とお伝えしてちょうだい」

 アレキサンドラははっきりとした声で言った。


「ぜひ、姫巫女様にお会いしたいと思います」

 侍女はうなづき、無言でアレキサンドラの部屋を後にした。


 アレキサンドラは立ち上がった。


 謹慎きんしんの身となってから、何かの予定ができるのは初めてのことだ。

 アレシアがいつ来るのかはわからないが、最低限の身だしなみだけはしておいて、バカにされないようにしなくては。


 アレキサンドラは改めて、広く豪華な部屋を見渡した。

 あれだけ大好きだったこの空間が、なんだか今はひどく味気ない、自分に不釣ふついなもののように見えた。


 父であるオブライエン公爵は逮捕、投獄とうごくされている。裁判の結果が出るのも時間の問題だろう。


(わたくし自身も……自分の身の振り方を、考えなければならない)

 たとえ、それが苦しく、恐ろしいことであっても。 


 アレキサンドラの元にアレシアがやってきたのは、それから2日後の午後のことだった。


 思いがけないことに、カイルも同行していた。

 久しぶりに見るカイルとアレシアは、以前よりも自然に会話を交わしていて、カイルがアレシアに同行したのも、彼女の安全を危惧きぐしたものと知れた。


「さあ」

 アレキサンドラは、わざとぶっきらぼうな、高慢こうまんな声でアレシアに声をかけた。


「あなたの寝間着のような服と、ご立派な飾り帯はこちらですわ。きちんと保管しておりましたから。それが心配だったのでしょう?」


 そんなことを言って、アレキサンドラは小さな包みをアレシアに差し出した。


 アレシアは丁寧に礼を言って、受け取った。

 そんなアレシアはいつも通りの服装だ。


 白の麻の長衣に、同じく白い絹のチュニック。

 同じものを何枚も持っているのだろう。

 しかし、飾り帯はしていなかったので、神殿の他の巫女達と変わらない姿に見えた。


 アレシアは嬉しそうに受け取ると、すぐに絹刺繍の飾り帯を腰に巻いた。

 カイルはそんなアレシアをただ、嬉しそうに見つめている。


 アレキサンドラはそっと息を吐いた。


「カイル様、わたくし、ずっと考えていたのですが……」

 組んだ両手が微かに震えていた。


「わたくしも罪をつぐなうべきかと。このお屋敷には、いられませんわ。もとより、この家を継ぐ者はもういないのです。わたくしは、もし許されるのであれば、出家して、修道院に入ろうと、そう思っております」


「アレキサンドラ」

 カイルが表情を変えた。


「……確かに、率直に言って、あなたが今まで通りの生活を送れる保証はない。しかし、出家とは。もう少し、待ってもらえないだろうか?」


「ご品格はあるけれど、お年寄りの、道徳の先生のような殿方の後妻になるのは、お断りいたしますわ。わたくし、わがままな女ですの。そんな良い方には、相応しくありませんから」


 アレキサンドラは泣き笑いのような表情を浮かべていた。


「わたくしは、心から皇帝陛下を想っておりました。いささか、自分よがりな方法ではありましたが……それにもようやく気づけたのです。ですので、どうか、一生をかけて罪をつぐなわせてください」


「アレキサンドラ」

 アレシアが声をかけた。


「あなたが願っていることは、何ですか? よろしかったら、わたしと、一緒に祈っていただけませんか……?」


 アレキサンドラは顔を上げた。

 その頬は涙で濡れていた。


「……祈る? ああ、姫巫女様は、女神様に祈りを届けてくださるのでしたね。たしかに、今のわたくしには女神様の御加護ごかごが必要かもしれません」


 アレキサンドラは柔らかく微笑んだ。

 それは、彼女にこんな顔ができるのか、というようなやさしい表情だった。


「わかったわ。お願いします、姫巫女様」


 アレシアはうなづくと、アレキサンドラの手を取った。

 2人を淡い金色の光が包む。

 アレキサンドラがはっきりとした声で言った。


「わたくしは、ランス帝国の平和と繁栄はんえいを願います。皇帝カイル陛下の長寿ちょうじゅと素晴らしい治世ちせいを。帝国の人々のより良い暮らしを、心から願っています」


 アレキサンドラの願いに、自分自身の願いは入っていなかった。


 アレシアはとっさに言う。

「アレキサンドラ、カイル様も一緒に祈っても構いませんか?」


 アレキサンドラはうなづいた。

 カイルもアレキサンドラの手を取り、3人は手をつなぎ合った。アレシアはアレキサンドラの最善のために、アレキサンドラの心と合わせて祈った。


 そこでアレシアの目に映ったのは、簡素なドレスに着替えて、ひそかに孤児院を訪問するアレキサンドラの姿だった。


 時にはやんちゃな男の子に泥をつけられ、目を丸くしながらも、アレキサンドラが不機嫌ふきげんになることは一切なかった。


 年長の女の子達には、読み書きと刺繍を教えていた。

 アレキサンドラの刺繍は美しく、少女達はうっとりとその出来栄えに見惚みとれながら、1針1針、心を込めて、刺繍を施していた。


 少女達はアレキサンドラの繊細せんさい指遣ゆびづかいを熱心に見習い、やがてとても美しい作品を作れるまでになった。


 バザーでその刺繍を見て感心したある大きな仕立て屋の夫人が、これから少女達に刺繍をいくつかお願いしたい、とシスターに話している場面も見えた。


 アレキサンドラは少女と手をつないで一緒に立ちながら、それは誇らしげに見えた。


 赤い髪が、燃えるように輝いて、アレキサンドラを美しく見せていた。

 そんな様子は、カイルにも伝わったのだろうか?

 アレシアとアレキサンドラが目を開けると、カイルは心を決めたように言った。


「アレキサンドラ、あなたの称号は剥奪はくだつ、領地、公爵邸も返上してもらう」


 アレキサンドラはうやうやしく頭をれた。

「かしこまりました。おおせの通りに」


「これからは、ハロウェイ子爵令嬢と名乗るように。あなたの母方の姓だ」

「え……?」


「結婚前にあなたの母上が養子に入った家だ。後継がいなくて、現在は断絶しているが、あなたがこれから引き継げばいい。そして、帝国の孤児院と女性のシェルターの運営を手伝って欲しい。自分の欲のためではなく、国のために働くことはできるか? ハロウェイ子爵令嬢?」


 今や、アレキサンドラはぽかんとして、カイルを見つめるばかりだ。

 カイルはうなづいた。


「あなたは実際に罪を犯すことを拒み、父の悪事には染まらなかった。名誉回復の機会を与えよう。帝国に尽くしてくれ。私の兄弟達がことごとく殺害された今、皇家につながる者はほぼいない。あなたは先代皇帝にえんのある数少ない私の家族だ。国のために、あなたにも働いてほしい」


 アレキサンドラは声を失って、カイルをただ見つめた。

 やがて、そこに喜びの涙が、あふれてきたのだった。

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