第16話 カイルが育った農園

 アレシアがいつものように居間で朝食を取っていると、カイルがやってきた。


「アレシア、私の乳母がいる農園へ連れて行こう。私はそこで育ったんだ。ただし……」


 続きを聞いたアレシアの目が、丸くなり、大きく見開かれた。

 アレシアの返事も聞かずに部屋を出るカイルと入れ替わるように、何か大きな箱を抱えたサラが入ってきた。


「アレシア様、ネティさん、今日は忙しくなりますよ。これからカイル様のお供をして、別荘へ参ります。アレシア様の必要なものはすべてあちらにそろっていますので、お荷物は気になさいませんように。お食事を終えられたら、すぐ出発しましょう。馬車の準備はすでに整っています。それでは」


 アレシアとネティは驚いて顔を見合わせ、次の瞬間、ネティがサラの後を追って飛び出した。


「サラさん、お待ちください……! あ、姫様、お食事をしっかり取ってくださいね。今日はどんなスケジュールになるか、わかりませんから。わたし、細かいところをサラさんに伺ってきます!」


 それから1時間後、カイルはアレシア、ネティ、サラと一緒に、馬車に乗っていた。


 皇帝が乗っていることを示す、特別な馬車を仕立てて別荘に向かうのだ。

 今回、エドアルドは宮殿に残る。

 宮殿の正面入り口の大扉まで皇帝を見送りに出たエドアルドは、礼儀正しく、深くお辞儀をして、皇帝の出発を見守った。


「まもなく正式に皇后となる姫巫女が、帝国の気候にまだ馴染なじめず気分がすぐれないため、皇帝が急遽きゅうきょ別荘で体を休めることを提案した、ということになっている」


 カイルは馬車をゆっくりと移動させ、途中の町で昼食も丁寧ていねいに取った。

 食事は町の高級な宿屋でだったが、カイルは無表情でアレシアをエスコートし、護衛の騎士達が宿屋を囲む。


 町の人々がびっくりしている姿を、アレシアはちょっと困ったような表情で見ていた。


 別荘は、アンジュランスからそれほど離れていなかった。

 実際、アンジュランスの郊外にあって、帝都をあまり留守にすることなく、皇帝とその家族が気分転換と休息を取れるようにと建てられている。


 もっとも、別荘は帝国各地に何箇所もあるのだ。

 夕方には、鬱蒼うっそうとした森が見えてきて、その向こうにある湖が太陽の光を受けて輝いている様子が見えた。


「森はすべて別荘の敷地だ。帝都での暮らしに疲れた時、代々の皇帝と家族がここに来て心身をいやしている」


 アレシアはこれほど大きな森を見たのは初めてだった。

 敷地の中に入ってもまだまだ続く森の中の道を、興味深そうに眺めるのだった。


 別荘は湖に面していた。

 建物の外見は、まるで巨大なログハウス、といった感じ。現地の様式を取り入れた、どこか暖かみのあるデザインに仕上げられていた。


 アレシアの目を引いたのは、レンガを積み上げて作られた、巨大な煙突えんとつで、その背後で鉛色なまりいろのスレート屋根が左右に分かれている。

 湖を見渡す側には、ぐるりとウッドデッキが取り付けられていた。


「きれい……!」


 リオベルデは小さな国で、こんな大きな森や湖はない。

 思わずはしゃいだ声を出したアレシアを、カイルは思いがけずやさしい目で見た。


「帝都から近い。気に入ったなら、今度はゆっくり来よう」


 アレシアはカイルを見た。

 深い青の目が、青みがったグレーの目と出会う。

 アレシアは微笑んだ。


「ありがとうございます」


 別荘では使用人が並んで出迎える中、カイルはことさらに無表情でアレシアをエスコートした。


「妃が疲れているから」という理由でまっすぐに皇后の部屋に入ると、カイルはすぐに部屋を出て、別荘にある自分の執務室へと向かう。

 そんな皇帝と未来の皇后の様子に、使用人は戸惑ったように目を交わした。


「待たせたね」


 さらりと声をかけて、カイルが馬車の扉を開いた。

 用意されていたのは、なぜか子爵家の紋章が刻まれた馬車である。

 そこにカジュアルな膝丈のチュニックに着替え、腰には剣を差したカイルが乗り込む。


 何という目印もない草原の真っ只中に伸びる街道、停められた馬車の中に待機していたのは、そろって平民の服に着替えた女性3人、アレシア、ネティ、サラである。

 外には御者ぎょしゃを含め、騎士が4人。

 カイルの乗ってきた馬車は、そのまま、街道を反対方向へと去って行った。


「これから行く所は極秘ごくひの場所だ。町の名前も教えられないし、どれくらいかかるかも言えない。だが、夜中までには着くから安心してほしい。食事は軽食を用意しているので、馬車を止めて、中で食べる。基本、外には出ることはできないのを承知してほしい」


 アレシアはうなづいた。

「わかりましたわ」


 今日は朝食の席で突然出かけると言われ、別荘へ連れて行かれた。

 別荘では有無を言わさず皇后の部屋に連れ込まれ、サラの持参した服に着替えさせられた。


 町娘の着るような、ふくらはぎまでの丈のドレスを着て、もう今更いまさら驚くことは何もない、という気持ちになっていた。

 着替えの済んだアレシアを囲むようにして、サラの誘導ゆうどうと騎士の警護とともに、密かに馬車に乗り込み、別荘を後にしたのだった。


「アレシア様」

 サラがアレシアに向かって言った。

「……とてもいい場所ですの。心配はなさらないでください」


 カイルも、少しそっけなかったか、と思ったのか、続けて言った。

「向こうに着いたら、もっと詳しいことは話そう。今は我慢してくれ」


 * * *


「アレシア、アレシア」


 耳元で声がしていた。

 アレシアが目を開けると、周囲はすでに暗かった。馬車の中で揺られながら、寝てしまったらしい。


 ネティとサラの姿はなく、カイルは眠ってしまったアレシアを助け起こそうとしていたようだ。


「カイル様、お嬢様は大丈夫ですか?」


(お嬢様!?)


 暗がりの中、馬車の外から聞こえた知らない声に、アレシアはぱっと起き上がった。


 ごそごそと音がして、馬車の扉が開いた。

 目鼻立ちのはっきりとした、中年の婦人がやさしい顔をしてのぞき込んでいた。

 くすんだ金髪に、茶色の目をしている。


(あれ……? どこかでお会いした? なんだか見覚えがあるような……)


「帝都から1日で着いたのなら、強行軍でしたでしょう。お疲れになったのですわ。もう心配はいりませんよ。安心してらしてね。熱いお茶を用意していますよ、さあ、いらっしゃい。カイル様、お嬢様をお連れしてね」


 女性は言葉は丁寧ていねいだったが、仮にも皇帝とその連れである自分に対して、まるで母親のように話しかけている。


 態度もテキパキとしていて、なんだか皇帝であるカイルに対しても指示しているような?


 カイルに手を取られながら馬車を降りると、女性はカイルを抱きしめ、それからアレシアのことも抱きしめた。


「サラ、さあ、荷物を運んでちょうだい。それから、お2人をまずはキッチンにね。我が家で1番上等な場所ですよ。1番暖かいところだから」

「はい、母さん」


 アレシアがはっとしたように顔を上げた。

 そうか、サラに似ているんだ。だから、どこか見覚えがあったに違いない。

 女性がアレシアにうなづいた。


「そうですよ。わたしはサラとエドアルドの母なの。そしてカイル様の乳母を務めていたのよ」


 それから女性は悪戯いたずらっぽい表情になった。


「わたしはエミリア・マーフィ。お役御免やくごめんになった時に子爵位をたまわったの。いりません、ってお断りしたのだけれど。何せ、わたしは農園の女主人だから。そんなガラじゃないわって思って。でも、カイル様が、エドアルドとサラのために爵位はあった方がいいって」


 エミリアはアレシアを案内して、南向きのキッチンの扉を開いた。


「ここが農園の家で1番大切な場所」


 大きななべとやかんがかかったかまど。

 傷の付いた、古くて大きなダイニングテーブル。

 大きな窓と庭に続く扉。

 壁沿いにはぐるっと棚が付けられ、さまざまな台所道具が並べられていた。

 アレシアの顔が好奇心で輝いた。


「さあ、お嬢様。お茶を入れますからね、そこに座ってくださいな」

「あの、お嬢様とは」


 カイルが笑った。


「この農園では、エミリアが1番偉い人なんだ。言うことを聞いた方がいいよ」


 ほら、とカイルは椅子を引いてアレシアを座らせる。


「ここでは私は甘ったれのお坊ちゃんのカイルという扱いだし、あなたもただのお嬢様だ」


 アレシアは思わず、カイルの笑顔に釘付けになった。

 こんな清々しい笑顔、見たことがない。

 アレシアは目を大きく見開いた。


「はい、どうぞ」


 アレシアの前に、熱い紅茶の入った大きな厚手のマグカップがどん、と置かれた。

 続けて、温めたミルクと砂糖と蜂蜜の入ったつぼもどん、と置かれる。

 最後は山盛りのクッキーが入ったボウルだ。


「おいしいよ。ミルクは農園の牛から。卵ももちろん農園の生みたて卵。クッキーはエミリアが毎日、切らさないように焼いているんだ」


 カイルは大きなスプーンで蜂蜜を入れ、ミルクもたっぷりと紅茶に注いだ。

 美味しそうに紅茶を飲み、クッキーにかじり付く。

 その幸せそうな笑顔を見て、アレシアも蜂蜜のつぼに手を伸ばしたのだった。


 その日は到着した時にはもう夜遅い時間だったので、全員でそのまま台所でエミリアが温めて取っておいてくれたスープとキッシュで晩御飯にした。


 ネティもサラも一緒に大きなダイニングテーブルについて、同じものを食べる。

 食事の済んでいるエミリアも紅茶片手に座り、スープを温め直したり、お代わりを勧めたりして、あれこれ一同の世話をしていた。

 それは賑やかで、温かな食卓だった。


 アレシアは、幼い頃から兄は王宮で、自分は神殿で育ったにも関わらず、今でも時間を見つけては、一緒に食事をしよう、と誘ってくれる兄のクルスのことを思い出した。


 家族の食卓……。


 アレシアには、両親と食卓を共にした記憶がない。

 母はアレシアが幼い頃に亡くなってしまったからだ。


 昨年亡くなった父は、クルスとアレシアを大切に育ててくれたが、何しろ1国の王だ。いつも忙しく、さらにクルスは王宮に、アレシアは神殿で暮らしている。

 3人が一緒に食事をすることはほとんどなかった。


 食事の後は各自の部屋へ引き取った。みんなでがやがやと話しつつ、同時に疲れと眠気でフラつきながら、大きな母屋の階段を上がっていく。


 サラは元々自分の部屋がある、という2階へ。エミリアとエドアルドの部屋も同じ階にあるらしい。


 3階にカイルが以前使っていた部屋と、アレシア達のために用意された部屋があった。


 アレシアとネティの部屋は隣同士だった。

 カイルの部屋とは、廊下の両端になっていて、距離がある。


 アレシアの部屋で、彼女のために寝る支度を整えながら、ネティは満足そうに息を吐いた。


「気持ちのいい所ですね、アレシア様。お食事もとてもおいしかったですわ」

「本当ね」


 アレシアもうなづいた。


「明日が楽しみよ。菜園の他に果樹園もあるし、動物達もたくさんいるそうだから」


 朝になれば牛達は草原に行くし、鶏は庭を自由に歩いている。納屋には猫が、さらにはヤギや犬もいるとエミリアが話してくれたのだ。


(ここが、カイル様の育った場所)


 完全に秘密の場所だ、とカイルは言っていた。

 そんな大切な場所に連れてきてくれた。

 アレシアは眠りに落ちながら、明日からの毎日を心から楽しみにしていた。


 翌朝、目が覚めたアレシアは、ネティが運んでくれた水差しから水を使って、顔を洗った。


 ネティが着替えを用意してくれる。

 それは、綿の小花プリントのワンピースだった。スカートの裾からは、下に履いている白いレースのペチコートがちらりと見える。


 ワンピースの上には、フリルの付いた白のエプロンを付ける。

 アレシアの長い髪は、服に合わせて、ネティが三つ編みに編んでくれた。

 足元には、丈夫な革の編み上げブーツが用意されていた。


 外歩き用に、だろうか。ネティはワンピースとお揃いの布で作られたボンネットまで手にしていた。


「さあ、お食事に行きましょう。エミリア様から、準備ができたら台所に来るように、と言われています」


 アレシアがネティを見ると、ネティも同じく綿のワンピースを着ていた。もっとも、アレシアの服と比べて、フリルなどの装飾はかなり控えめだ。

 アレシアのワンピースも、ネティのワンピースも、丈はくるぶしが出る丈で、普段着ている服よりも、断然歩きやすい。


 アレシアは一瞬、目を見張ったが、嬉しそうに微笑むと、勢いよく階段を駆け降りていった。


「お嬢様、よく眠れましたか?」


 そんな言葉とともに、エミリアが厚手のマグカップを渡してくれる。中身はもちろん、熱々の紅茶だ。

 テーブルの真ん中には大きなティーポットがあり、サラがまさに今お代わりのお茶をマグカップに注いでいるところだ。


「おはようございます」

「おはようございます」


 挨拶を交わしながらアレシアがテーブルに着くと、次々に料理を盛りつけたお皿が回ってくる。


 カリカリに焼き上げたベーコン。

 ふわふわのスクランブルエッグに両面をしっかり焼いた目玉焼き。

 汁気たっぷりのソーセージ。

 程よい焦げ目のついたジャガイモの炒め物。

 台所中においしい匂いが漂っている。


「パンケーキは何枚?」

 エミリアが黒いフライパンを片手に尋ねる。


「い、1枚でお願いします」

「このパンケーキは小さいから、2枚あげるわ」

「!!」


「アレシア様、このメープルシロップ、絶品ですよ」

 サラが笑いながら、メープルシロップの入った壺を回してくれた。


「すごい量の朝食ね。すごく美味しいけれど、でもすごい量」


「農園で働いてくれる使用人達も来ますから。毎日、母は大量のお料理を作るんです。その合間に掃除も洗濯もするし、菜園の手入れもありますし。農園では仕事は山のようにありますから、エドアルドやわたしが帰省すると、もうそれは鬼のようにこき使われるんですよ」


 アレシアは感心した。

「すごいわ……」


「カイル様は母の料理が大好きで。今でもお忍びで来られる度に、まあ食べるわ食べるわ。今朝ももう朝食を済ませているんですよ。そうだ! アレシア様、お料理はできますか?」


 アレシアは苦笑して首を振った。

「したことないわ」


「それでは、農園にいる間に、お料理を母に習ってみませんか? 庭仕事も楽しいですけれど、結果が出るまでに時間がかかりますからね。でもお料理ならすぐ自分でも試すことができるでしょう?」


 そんな成り行きで、アレシアが料理を習うことが決まったのだった。

 

「カイル様!」


 ある朝、アレシアが母家の周りを歩いていると、馬屋の方に向かうカイルの姿を見かけた。


 農園の敷地は広かった。


 母家があり、納屋があり、馬屋があり、物置小屋があり、使用人が住む別棟があり、牛舎、鶏小屋、ヤギ小屋、羊小屋があり、アヒルの暮らす池もある……敷地も牛達のための牧草地、母家の周囲に作られた家庭菜園もあり、本格的な菜園や果樹園まで敷地内に造られていた。


 カイルはカイルですることがあるらしく、アレシアのことは女性達に任せきり。時折、アレシアを誘って散歩をしたり、馬で遠乗りに連れて行ってはくれるが、基本的に食事時くらいしか顔を合わせることはなかった。


 そのため、アレシアはカイルを見かける度に、ただ挨拶をするためだけでも、こまめに声をかけることにしていた。


「おはようございます、カイル様!」


 アレシアは今日も綿の小花模様のワンピース姿だ。ドレスよりも短めの丈に、しっかりした革のブーツで、足元も安定している。


 アレシアは小走りに走ってくると、カイルに追いついて挨拶をした。

 カイルはアレシアのために立ち止まりながら、目を細めて、眩しそうにアレシアを見た。


「……宮殿にいるわけでもないし、そんなに礼儀を気にしないでもいい。私もそれほど愛想がある方ではないのを知っているだろう? あなたにあまり話しかけないし、お茶に誘ったり、贈り物をするわけでもない。それに、私がオブライエンに何て言っていたか、あなたも聞いたはずだ」


 今朝は、カイルにしてはよくしゃべってくれている。

 アレシアはじっと、言われたことを考えた。


 それはそうなのだ。だが、アレシアをこの農園に連れてきてくれたのもまた、紛れもなくカイルである。


 元々はアレシアの思いつきからだった。カイルが育ったところを見たい。

 そんな1言を真剣に考えてくれて、時間を取ってまでここに連れてきてくれた。

 アレシアは滞在は1週間くらい、と聞いていた。


 カイルは帝国の皇帝だ。それが簡単なことではないくらい、アレシアでも想像がつく。


「カイル様は……今でも、わたしに帝国を出ていってほしいと、思っていらっしゃいますか?」


 アレシアはためらいながらも、はっきりと尋ねた。

 アレシアはわかっていたのだ。

 カイルは、優しい。

 口ではどんなことを言っても、カイルの態度が冷たくても、見ていればわかる。

 カイルの行動を見ていれば、そこにアレシアへの思いやりが隠れ見える。


「それは……今も、思っている」

 カイルはそっとため息をついた。


「カイル様は、優しいです。なのに……それはどうしてですか?」


 カイルはアレシアをまっすぐ見つめた。

「アレシアは、私と最初に会った時のことを覚えている?」


 アレシアは首を振った。


「……だろうね。あなたは3歳だったはずだ。母君はすでに亡く、伯母であるエレオラ様が亡くなったのは、婚約してから1年後。あなたの兄上もまだ幼かっただろう。あの時のことを覚えていて、あなたに話せる人はいないはずだ。アレシア、あなたはね、私とこの農園で会ったんだよ」


「え?」


 その時、風がふわっと通った。

 アレシアの長い銀色の髪を結った三つ編みが風に揺れた。


「あなたが私の育った場所を見たい、と言った時、いろいろなことを話すいい機会だと思ったんだ」


 カイルはアレシアの手を取ると、ゆっくりと歩き始めた。


「私の母は、前皇帝の側室だった。皇帝には5人の子供達がいたんだ。皇后のエレオラ様にはお子がいなかったので、全員、側室の子供だ。しかも母親はそれぞれ違う。それなのに、エレオラ様は、どの子に対しても、我が子のように接しておられた」


 アレシアは黙って聞いていた。


「子供達の中で、私だけが宮殿で育たなかった。なぜか、皇帝が私だけを密かに乳母に預け、私はこの農園で12歳まで育ったんだ。あなたと出会った頃までには、宮殿にいた子供達はさまざまな理由で、全員死亡していた。12歳のある日、宮殿から迎えが来た。皇帝が崩御ほうぎょしたと。皇帝位を継ぐのは私だと、宮殿に連れて行かれた」


 カイルの青みがかったグレーの目が、まっすぐアレシアを見つめている。

 2人の視線が合っている。これは初めてじゃないだろうか、そんなことをアレシアは思いながら、カイルの言葉に耳を傾けていた。


「アレシア、人々が何と言っていたか、わかるか? 皇家の呪い、だと。この国では、皇帝の後継者は、死ぬ。私の大切な人は全員死んだ。あなたが帝国に来たら、私の妻になったら、あなたもまた、死ぬかもしれない。だから、この国から、出て行ってほしいんだ。アレシア、私はあなたを死なせたくない」


 風が、一際強く吹いた。


 アレシアの髪がほどけた。1面に銀の光が散らばる。

 カイルの顔に、黒髪がかぶさっていた。カイルの瞳は見えない。

 美しい、青みがかった、グレーの瞳。

 その瞳は静かで、落ち着いていて、感情を現すことはあまりない。


「カイル様」

 アレシアが囁いた。

「カイル様、お顔を見せてください」


 アレシアはそっと、その細い指で、カイルの顔にかかった髪を横に流した。

 カイルの目には、涙があふれていた。ふっと、カイルはアレシアから目を背けた。

 すると、アレシアは言った。


「……わたしは、帰りません」

「え?」


「カイル様は幼い時のわたしを覚えていて、わたしを大切だと思ってくださっているのでしょう? わたしも、あなたと一緒に、呪いを解きます。わたし、これでも、神殿の姫巫女ですよ。お忘れですか?」


 カイルは目をまたたいた。

「いや、それは……もちろん忘れるわけがない。しかし……」


 カイルは戸惑ったように、アレシアを見つめた。

 無理もない。カイルは、女神神殿で参拝者の話を聞き、一緒に祈るアレシアの姿しか知らない。


「緑の谷の姫巫女は、普通のご令嬢とは違います。今は詳しくは言えませんが。お役に立てるように、頑張りますから、協力させてください。わたしでも何かできることがあるかもしれません。だって、カイル様とわたしは……ええと、幼なじみ、と言ってもいい関係ではありませんか?」


 アレシアは笑った。

 無邪気で、愛らしい笑顔。なのに、どこか力強い。

 緑の草原で出会った幼い女の子の姿が見えてくる。


 大切な人は、全て失ったと思っていた。

 なのに、ここにまだ、カイルと一緒に頑張ろう、と言う少女がいる。

 カイルはまっすぐにアレシアを見つめた。

 その表情が引き締まるのが、アレシアにもわかった。


 長い沈黙が流れた。


「……わかった。その代わり、時には私の指示に従ってもらう必要も出てくると思う。あなたは私が守る。あなたを傷つけさせはしない」


 アレシアはそっと右手を差し出した。

 カイルがその手を握る。


 まるで男の友人同士のように握手をして、アレシアが帝国に来て再会して以来、初めて笑い合った。


「約束」


 アレシアの言葉にうなづくカイルの表情は、とても清々しかった。

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