第13話 帝国で暮らすアレシア

 アレシアの帝国での生活が始まった。


 アレシアのために用意された部屋で、基本的には自由に過ごして構わない、とカイルの補佐官であるエドアルドに言われていた。


 このエドアルドが帝国側の窓口になるらしい。

 アレシアのことを気遣きづかい、不自由はしていないか、必要なものはないか等、毎日のように声をかけてくれた。


 アレシアとの初めての顔合わせの際に、さっさと立ち去ってしまったカイルだが、その後も正式な顔合わせの場は作られることはなかった。


 食事も基本、アレシアは1人で取る。

 カイルとの食事が設定されていれば、正式な食堂に行くようだが、アレシア1人ということで、食事もアレシアのために用意された部屋に運ばれてくるようになった。


 ある朝、アレシアが居間で朝食を取っている時、エドアルドが訪ねてきた。


「おはようございます、姫巫女様。ご機嫌はいかがですか? 何か不自由をされていることはありませんか?」


 いつものように声をかけてくるエドアルドに、アレシアはしばし考え込むと、口を開いた。


「質問があります」


 エドアルドはおだやかにうなづいた。


「基本は自由にとおっしゃいましたけれど、それは宮殿内ということですわね? 外出をしたりしてもいいのかしら?」


 侍女のネティがぎょっとしたように顔を上げた。


「どこか行きたい場所がおありですか?」

 エドアルドの質問に、アレシアはうなづく。


「はい。女神神殿分院に行きたいのです」


 エドアルドはほっとしたようにうなづいた。

「もちろん。ご案内します」

「自分で、度々たびたび好きな時に行きたいのだけれど」


「アレシア様!」

 今度のネティの声は、ちょっと悲鳴のようだった。


「それから、図書館にも行きたいですし。町も見たいと思います。市場を見たいですわ。神殿には孤児院や治療院ちりょういんなども附属ふぞくで設立されていますか?」


 エドアルドはさらっと行きたい場所を列挙したアレシアをまじまじと見つめると、アレシアもエドアルドを静かに見つめ返した。


「……陛下には、どこでも好きなように行っていただいて構わない、と言いつかっています。私もできるだけご案内いたしますが、もし、アレシア様が独自に外出されたい時には、必ず、私に一言連絡の上、ネティさんとサラをお連れください。それでしたら構いません。また、外出の際には、護衛が付くこともあらかじめご了承ください」


 エドアルドは、ふうっと息を吐いた。アレシアの世話役もなかなか大変らしい、ということにようやく気づいたのかもしれなかった。


「今のお話は、陛下にもお伝えしておきます。それから、サラは……」


 エドアルドは部屋のすみに静かに控えているサラに視線を送った。

 アレシアの目には、サラは軽く、肩をすくめたように見えた。


「サラは町中でも、大抵の場所を知っています。ネティさんはまだ土地に不案内でしょうから、案内役として、サラを毎回必ずお連れくださいますように」


 アレシアはうなづいた。


「お約束しますわ」

 そうにこやかに答えたアレシアを、微妙な表情で見やったネティの様子に、エドアルドは気づいた。


(これは楽ではないかもしれない)

 エドアルドがついたため息は、今度は長いものだった。


「……というわけです、カイル様」


 エドアルドが一通り話し終えると、カイルは一瞬、片方の眉を上げたが、特に何かを質問することはなかった。


「毎日、アレシアの様子を報告するように。どこへ行った、誰と何を話した等、逐一ちくいち知らせてくれ。サラにも改めてそう伝えておくように」


「かしこまりました」

 エドアルドはそう答えるしかなかった。


 * * *


 アレシアは朝起きると、寝室に入ってきたネティに言った。

「おはよう、ネティ。今日は神殿へ行きましょう」


 茶色い髪に茶色い目をしたネティは、その控えめな様子や、やさしい表情もあって、まるで小動物のような感じもするが、実際は芯の強いしっかり者だ。


 目を見開いた彼女は、内心、まぁさっそく……と思ったかもしれない。

 しかしすぐ笑顔になると、アレシアを浴室へ案内した。


「サラさんにも伝えてきましょう」


 アレシアが浴室から出ると、ネティは居間に朝食の支度を整えていた。

 サラの姿はない。


「外出になるので、服を着替えると言っていましたわ。すぐ戻るはずです」


 朝食のテーブルからは、お茶の香りが漂っていた。

 アレシアはまだ室内着にしている、生成りの麻のドレス姿だった。

 にこにこしながら、朝食の席に着く。


 食事のメニューは、基本的にリオベルデと変わらない。ただ、帝国で採れるさまざまな果物や、質の高いチーズやヨーグルトなどが食卓に載るようになった。


 アレシアの前に並んでいるのは、熱いお茶、果物のプレート、白くて丸い小さなパン、チーズのプレート、それに新鮮な卵とチーズを使ったオムレツだった。

 アレシアは食前の祈りを上げると、さっそく食べ始める。


「お味はいかがですか?」

 着替えを済ませて戻ってきたサラがアレシアに声をかけた。

「とてもおいしいわ。ありがとう」


 アレシアはサラを見つめる。


 柔らかい金髪はいつもと同じように、襟足えりあしでまとめられていたが、侍女服を着ていないせいで、ちょっと別人のように見える。


 茶色い瞳の色に合わせたかのような、落ち着いた色合いのワンピースを着ていた。

 街着らしく、丈は短めで、ブーツを履いた足首が見えている。


「アレシア様、エドアルドに報告はしてきましたので、お支度ができましたら、いつでも出かけられます。ただ、距離は取りますが、護衛は付きます。場所によっては、一緒に歩く場合もありますので、ご了承くださいね」


 アレシアはうなづいた。


「任せるわ」

「神殿に連絡はしてあります。神殿主様とお会いになれますよ」


「嬉しいわ、支度は時間はかからないからすぐできるわ。食事が済んだらすぐ行きましょう」


 そんなわけで、アレシアを中心とした一行は、さっそく、宮殿から敷地内を抜けて行ける通路を使って、女神神殿分院へと向かっていた。


「10時だから、もう神殿は開いているはずよ。巫女達が参拝者のお話を伺っているところだと思うの」


 アレシアはリオベルデの女神神殿で姫巫女としての務めを果たしていた時と同じく、真っ白な麻の長衣に、同じく白の絹のチュニックを重ね、カイルから贈られた金刺繍が施された飾り帯を腰に巻いている。


 プライベートな時間以外は、アレシアは常に姫巫女としての正装姿が基本だ。

 ただし、今日は外を歩くのにも適した、革のサンダルを履いていた。

 そのサンダル姿に、自分の予感が当たっている気がして、ネティは密かに息を吐いた。


 アレシアは、時間があれば、神殿だけでなく他も見て回ろうと思っているに違いなかった。


(サラさんは、よく気が付くわね)

 ネティは感心する。


 サラはアレシアの斜め一歩先を歩いているが、アレシアと同じか、少し若いくらいの年齢に見えるし、案外かわいらしい顔立ちをしているが、ワンピースの上に着た上着の下には短剣を身に付けているのを、ネティは知っている。


 警護の騎士達とも連絡がよく取れているし、宮殿内のことにも通じている。サラは侍女というよりもアレシアの護衛として付けられているのだろう、とネティは思った。


 宮殿から庭に巡らされた回廊かいろうを歩くと、やがて女神神殿分院の入り口に着いた。

 門には神官と巫女達を従えて、背の高い白髪の男性が立っているのが見えた。


「オリバー先生。お変わりないご様子で何よりです」

 アレシアの顔がほころんだ。


「姫巫女アレシア様」

 オリバーは穏やかな笑顔でアレシアを迎えた。


 かなりの高齢のはずだが、細身で引き締まった体はすっと伸び、動作も危なげがなく、とても老人には見えない。


 ただ、長く伸びた白い髪とひげが、オリバーの年齢を示しているようだった。

 オリバーが両手を合わせて、腰を落とす正式な礼を取るのを受けて、神官と巫女達も全員、アレシアに礼を取った。


 神官も巫女達も姫巫女の正装をし、姫巫女の証である銀色の長い髪を背中に流したアレシアの姿に、声は出さないものの、強い印象を受けたようで、目を離せない、そんな感じに見えた。


 何しろ、アレシアはリオベルデ王国の緑の谷にある女神神殿にいる姫巫女なのだ。

 帝国でその姿を見られるとは彼らも思っていない。


「姫巫女様、ようこそ帝国までおいでくださいました。まずは神殿をご覧になりたいでしょう。ご案内いたします。さあ、どうぞこちらへ」


 かなりの高齢にも関わらず、まっすぐピンと伸びた背中。堂々としたオリバー師に付いて聖堂に入ると、参拝のために来ている人々が息を呑んでアレシアを見つめた。


「銀色の髪! まるで女神様みたい!」


 幼い少女が興奮したように叫んだ。

 リオベルデでは祭壇の前に用意されている姫巫女のための椅子は、ここでは誰も座る者はなく、空だった。


 巫女達は左右それぞれに分かれ、壁際に用意されている椅子に座って、参拝客の話を聞き、共に祈りを捧げていた。


 アレシアは祭壇の前に立つと、膝を着いて、女神に祈りを捧げた。

 聖堂の中なので、ネティとサラはアレシアから離れて、入り口の脇に控えている。


 アレシアがオリバーを振り返る。

「私も皆様のお話をうかがっても良いでしょうか?」


 聖堂内がざわめいた。

 リオベルデの女神神殿は、創世の女神が世界を創造した地と伝えられている。そんな女神の祝福を受けたとされている、銀髪の姫巫女と話せるかもしれない、人々のそんな期待が感じられた。


「姫巫女様のおおせの通りに」


 オリバーは頭を垂れ、神官と巫女は速やかに参拝の人々の誘導を始めたのだった。

 アレシアは午前中いっぱいを、聖堂で人々の話を聞き、共に祈ることに費やした。

 午後になると、オリバーはアレシアに声をかけ、神殿主の執務室へと案内した。


 執務室に入ると、まずは熱いお茶が用意された。

 アレシアはオリバーと共に長椅子に座り、ネティとサラは壁に沿って置かれた椅子に座る。


 執務室の扉の外には、護衛の騎士2人が立っている。

 お茶に続いて、白い丸いパンと、果物が軽食として出された。

 2人は食前の祈りを捧げると、お茶を手に取った。


 オリバーはまず、感にえないようにほっと息を吐いた。


「本当に大きくなられましたな……ご立派にご成長されて。エレオラ様も、エリン様も、もし姫君に会うことが叶ったなら、さぞかしお喜びになられたでしょう」


 神殿では多くの神官と巫女もいたが、ここではオリバーとアレシアの2人きりである。オリバーは神殿主としての表向きの顔ではなく、アレシアにとって懐かしい、オリバー先生の表情になっていた。


「国王陛下からお手紙をいただきまして」

 オリバーが口を開いた。


「姫巫女様が帝国にいらっしゃるとのご連絡でした」

 オリバーはまるで何かを思い出すかのように、遠い目をした。


「姫君3歳の頃に決まった縁組が、こうして実現するとは……。亡くなられたエレオラ皇后は最後まで、姫巫女様とカイル様のことを考えておられました。この神殿は緑の谷の神殿の分院。姫巫女様のために、できる限りのお力になりましょう。いつでも私にお話ください。この婚姻は」


 オリバーはためらうように、一瞬言葉を途切らせた。

「この婚姻は、多くの命を救うものと、私達は考えています」


 アレシアは、結局その日は、オリバーから神殿付属の孤児院と治療院をざっと案内してもらった。


 治療院では、神官達が薬草を調合して薬を作るのだ。

 アレシアはもっと見て行きたがったが、オリバーは詳しく見るには時間もかかるので、また改めてにしましょう、と提案した。


 そこで、神殿を出たアレシアは、姫巫女姿のまま、のんびりと神殿の外を歩き始めた。


 飾り帯を除けば、神殿の巫女とほぼ同じ服装をしているが、アレシアの髪は長い銀髪。

 どうしてもすぐ人の目に付きやすいのだった。


 先皇后のエレオラが亡くなってからもう10年以上の年月が経ち、リオベルデ王国から嫁いだ王女の記憶はすでに薄れている。


 それでも、銀髪の少女が女神神殿の姫巫女であるのはすぐ察せられる。物珍しい視線で、人々はアレシアを眺めていた。


 * * *


 カイルの視線の先で、見慣れてきた姫巫女姿のアレシアが、ネティとサラを従えて、宮殿の敷地を隣にある女神神殿分院に向かって歩いていた。


 アレシアが神殿分院を初めて訪れた日、そこで当たり前のように参拝に来ていた人々の話を聞き、共に祈っていた、と聞いてカイルは驚いていた。


 さらにその後、その勢いのまま、神殿付属の孤児院と治療院も訪れたと聞いて、カイルは驚きすぎて言葉を失った。


 アレシアは女神の祝福を受けたとされる姫巫女であり、リオベルデ王国の王女、いわば深窓の姫君ではないのか。

 そんな姫君があんなしっかりとした足取りで身軽にあちこちと出かけていくものなのか?


「あれから毎日、午前中は神殿分院に行くことにされたようですね。おかげで参拝者がうなぎ上りだとか。何しろ聖なる姫巫女様にお目にかかれるかもしれないわけですから」

 エドアルドが感心したようにあごでながら言う。


「サラからの連絡によれば、今日は市場に行かれるそうです」

「市場」

 カイルが無表情に繰り返した。


「はい。リオベルデでは、神殿の巫女達は自分達で絹織物を織り、刺繍も施すとか。姫巫女様の衣装も巫女達が仕立てたものです。その技術は民間にも伝えられ、王国の主要産業にもなっているそうですよ。アレシア様もそんなわけで、織物や刺繍など、手工芸品へのご関心が高いそうです。それで、そうしたものを扱う店を見て回られるとか」


「それもサラ情報か」

「はい。ご安心ください。人も多い場所なので、警備も増やしています」


「抜かりないな。さすがお前の妹だけある」

「嫌味ですか」


 エドアルドの返しに、カイルが両手を上げる。

「エディ、少しは素直に、言葉通りに受け取れ!」

 思わず叫んだカイルの顔を見ると、エドアルドはふと真顔になった。


「……カイル様。それはそうと。アレシア様にはまだお会いにならないのですか……?」


 カイルは神殿へと消えていくアレシアの後ろ姿から視線を外した。

 窓から離れ、執務机に戻る。


 黒い髪に、青みがかったグレーの瞳。整った顔立ちなだけに、感情を表さないとカイルはひどく近寄りがたく見える。


 しかし、側近中の側近であるエドアルドと2人きりの今は、カイルの顔には、どこか思わしげな表情が浮かんでいた。


 婚約者である帝国皇帝が自分と会おうとしない。

 普通の姫君なら、何事が起こったのかと、平静ではいられないだろう。


 そんな中、アレシアはいつも穏やかな表情をして、自分のペースを崩すことなく、慣れないはずの帝国での暮らしを続けていた。


 どうやらアレシアは、ただの「深窓の姫君」ではないのだ。

 無言のカイルに、エドアルドは心配な表情を浮かべる。

 カイルはまだ、アレシアをどうするのか決めかねているのではないか、と。


 * * *


「わあ、きれいね!」


 アレシアが思わず声を上げた。

 この日も、午前中の神殿でのお務めを終えた後、アレシアはネティとサラを連れて、市場に来ていた。もちろん、護衛の騎士も付かず離れずで警戒中だ。


 帝都アンジュランスの中央市場はとにかく大きい。


 市場内は扱う品ごとにエリアが分かれていて、食品でも生鮮食品を扱うエリア、精肉、魚を扱うエリア、各種スパイスや乾物を扱うエリアなど様々だ。


 その他に、日用品を扱うエリア、衣類を扱うエリア、さらには工芸品を扱うエリア、貴金属を扱うエリアなど、とても1日では歩ききれないほどだ。


 目を引く、金色に輝く貴金属の装飾品を扱う店は、案外市場の外側にあり、市場の奥の方に、手工芸品を扱う店が並んでいた。


 まず目に付く貴金属店といっても、そこは市場にある店なので、貴族達が行く高級な店とはかなり違う。


 お手頃価格の、若い娘向けのアクセサリーから、財産がわりのボリュームのあるマダム向けのもの、はたまた重さ単位で金を買ったり、換金したりする客がいたり、と賑やかな様子だった。


 アレシアは物珍しそうな表情をしつつも、どんどん市場の奥へと歩いていく。


「姫巫女様」

「姫巫女様、今日はご機嫌いかがですか?」


 あまりに毎日通ってくるせいか、アレシアの顔を覚えてしまった売り子達が気さくにアレシアに声をかけていく。


「姫巫女様、先日はありがとうございました!」

 神殿で一緒に祈ってもらったらしい若い女性が、顔を赤らめながらお礼を言う。

 アレシアはその1人1人と挨拶を交わしながら、目当ての店へと足を運んだ。


 そこは、市場の奥まった場所にある、手工芸品のエリア。様々な布を扱う商店で、店の一部を使って、刺繍を施した既製品の服も売っている店だった。


「こんにちは、ご主人」

「これは姫巫女様。ようこそいらっしゃいました。ちょうど、東国から珍しい帯が入ってきたところですよ」


 アレシアは目を輝かせた。

「まあ、これは本当にきれいね!」


 店主が見せたのは、帝国で一般的な飾り帯よりもかなり幅が広いものだ。しかも長さがある。

 生地も絹でどっしりとしていて、繊細な花模様が刺繍されていた。


「わたし達の飾り帯とずいぶん違うわね。どんな服に合わせるのか、興味があるわ」


 帝国は広く、リオベルデ王国もそうだが、多くの国々が帝国の傘下に入っている。

 言葉も文化も異なる場合も珍しくない。


 アレシアの生まれた国であるリオベルデでは、人々の服装は男女問わず簡素で、基本はすとんとしたシンプルなドレスにチュニックを合わせ、腰に帯を結ぶ。


 帝都アンジュランスの人々の服装はデザインも凝っていて、とりわけ女性は様々な場面に応じて、豪華なドレスを着替え続ける。


 屋敷内で着る普段着、化粧着、外出着、訪問着、夜会用の凝ったデザインのドレス、質を求める正装用のドレスなど。


「これは東国から届いたものですが、彼の地の人々は、なんでも直線断ちで仕立てる衣装を着ているそうです」


「まあ。一度見てみたいわ。ねえ、ネティ、この刺繍を見て。まるで絵画のようでしょう。風景画みたいね。こんな刺繍も新鮮だわ」


「姫巫女様は研究熱心ですね」

 店の主人が微笑んだ。


 その時、ふとサラはアレシアに向けていた視線を外した。そして、大きく目を見開く。


 店の入り口脇に騎士と立っているのは、黒髪の背の高い男性。隣に立っている茶色い髪の男性は、どう見てもサラの兄であるエドアルドに見えた。


 となれば、隣の男性は間違いなく、ランス帝国皇帝である。

 サラが目を細めると、エドアルドは無言でうなづいた。

 カイルはアレシアに声を掛けるつもりはないらしい。ただ、様子を見に来たようだ。


「アンジュランスの貴婦人達は、こうした異国の帯をほどき、テーブルセンターにしたり、ベッドカバーにしたりするのですよ。また、何本も合わせてドレスに仕立てれば、それはそれは豪華なものになります」


 アレシアは感心した様子で、店主の話に聞き入っていた。


「帝国特産の手刺繍の布も見たいのだけれど。貴婦人の最高級のドレスを彩ると聞いたわ」


 店の主人はうなづいた。


「姫巫女様の帯も、そうですね。どうぞこちらへ。職人によって仕上がる刺繍も様々です。貴族の方はお気に入りの職人を持つことも多いですよ。とりわけ刺繍をお好きなのが、オブライエン公爵家のご令嬢で……。こちらです。基本はオーダーメイドですが、バッグのように、小物はこうして、出来上がったものも扱っております」


 カイルは話の弾むアレシアと店主の様子をこっそりと観察しながら、アレシアに感心せざるを得なかった。


 この店に来たのは、これが初めてではないのだろう。

 買い物に来たわけでもないのに、店主も嫌がることなく、楽しそうにアレシアと話し込んでいる。


「姫巫女様の帯も、アンジュランスの職人の刺繍のようですね」

 店の主人の言葉に、アレシアはにこっと笑顔になった。


「お気に召していらっしゃいますか?」

 カイルはそろそろこの場を離れようと思っていたところ、思わず足を止め、耳を澄ませた。


「ええ」


 アレシアの柔らかな声が聞こえた。

「とても大切にしておりますの」


「……カイル様、そろそろよろしいですか? そんな真っ赤なお顔をして」

 はっとして、カイルは隣に控えているエドアルドを見る。


 思わず、アレシアの「大切にしている」という言葉に、胸を射抜かれていたらしい。


「そ、そうだな。もう戻らねば。仕事を抜け出してきているし。アレシアは刺繍に興味があるのだな、いいことを知った」


 エドアルドはチラリとカイルを見ると、最後の言葉は聞かなかったことに決めたらしい。


「姫巫女様のお衣装はすべて、神殿の巫女達の手仕事で作られている、と聞きました。伝統の技術が民間にも伝わって、織物と刺繍はリオベルデの主な産業の1つになっているとか」


 リオベルデは、他にはない、創世の女神神殿を持つ国。とはいえ、小国であることは間違いない。


 アレシアはリオベルデの産業を育てるためにも、どんなことにも目を配っているのだろう。それはまさに、国を預かる王族としての姿だった。


「エディ、アレシアが興味を持っているなら、資料として何点か買い上げればいい。リオベルデの発展は、帝国の益にもなることだからな」


 カイルの耳がまだ赤いのにエドアルドは気がついた。


「かしこまりました」


 エディは妹であるサラと視線を合わせると、身振りでカイルの意図を伝えた。

 うなづいたサラが、アレシアに話しかけている様子を確認して、カイルとエドアルドはその場を離れたのだった。


 * * *


 アレシアが帝国に来て、1ヶ月ほど経った頃のこと。


「今日はどこへ行っていた?」

「はい、本日は、午後の間、姫巫女様は図書館で過ごされました」


 それはカイルの執務が1段落ついた、夕方のこと。

 最近はこうしてカイルとエドアルドがその日のアレシアの行動について話すのが新しい日課のようになっていた。


「どんな本を読んでいたのだ?」


「帝国の歴史と衣装、紋様もんよう、刺繍デザインについての本など。あ、それから神殿主のオリバー様と毎日お話しする時間を取られることになりました。1時間ほど、授業というのではなく、アレシア様の質問にオリバー様が答える形だそうです」


 エドアルドの報告は、アレシアの侍女兼護衛である、妹のサラから報告された情報である。


「どんな内容を?」

「帝国の歴史。神殿について、女神神話について、産業について」


 カイルはもう苦笑するしかない。


「全部仕事じゃないか。気晴らし的なことはしないのか?」

「カイル様と同じじゃないですか」


 エドアルドの嫌味は無視して、カイルは言葉を続ける。

「若い女性なら、お茶会だの、買い物だのに出かけるだろう」


 エドアルドはカイルをじっと見た。


「一般の令嬢でしたら、そうですが。アレシア様にお茶会の招待は来ていませんよ。皇帝の婚約者としての正式なお披露目ひろめがまだですからね。でも、まずは、いつアレシア様にお会いになるので?」


 エドアルドの質問に、カイルが答えることはなかった。

 カイルはすっと視線をらすと、そのまま机の上に重ねられている仕事に戻ったのだった。


 そんなカイルだったが、エドアルドの目には、アレシアのことを気にしている様子に見えていた。


「……カイル様は、姫巫女様をどうしたいのですか? いまだに姫巫女様と会うのを避けて、その一方で、毎日の報告は欠かさず受けられる」


 エドアルドの言葉に、カイルは一瞬、無視するかのように見えた。

 しかし、ため息をひとつつくと、首を振った。


「婚約者にずっと無視されれば、王国に帰らせていただきます、とでも言うかと思ったのだが」


「なるほど……。カイル様にしては、いささか消極的な手ですね。しかも姫巫女様は案外実際的な方のようです。お1人でサクサクと毎日の予定を決めてお忙しそうにされていますから」


 カイルは再び沈黙に沈んだ。

 ため息をついて、エドアルドが言葉を続ける。


「追い出すなら、早く追い出してはいかがですか。何か未練でもおありで?」


 次の瞬間、カイルの表情が一瞬にして氷のようになり、カイルの青みがかったグレーの眼がエドアルドを射抜いた。

 エドアルドは無言で執務室から走り出たのだった。


 翌日も、朝、カイルが執務室の窓から外を眺めていると、ネティとサラを連れたアレシアが神殿への道を歩いていくのが見えた。

 アレシアの服装はいつもと同じだ。


 シンプルで、飾りのない白の衣装。アレシアの長い銀色の髪が、風になびいてキラキラとしていた。


 神殿に行くために、姫巫女としての正装姿をしている。遠目からでも、アレシアが腰に巻いている飾り帯が見えた。

 金糸の刺繍が、光を受けて輝いているからだ。


 カイルがアレシアに贈ったものだった。正確には、使者にリオベルデまで届けさせたものだったが。


 アレシアがプライベートでどんな服を着ているのか、そういえば知らないな、とカイルは思った。


 アレシアを迎えるに当たって、新しい衣装などは用意しなかった。生活に不便がないようにとは思ったが、アレシアを好意的に迎えているように見えないように、将来の妃に贈るであろう豪華な衣装や宝飾品などはあえて一切用意しなかったのだ。


 おまけにアレシアのために用意した侍女は少ないし、女官については任命すらしていない。


 貴族の姫君なら、この待遇に顔色を変えて、侮辱ぶじょくされたと思うだろう。しかし、アレシアは怒り出すこともなく、快適な生活を整えてもらったことに対して、感謝の気持ちを表していた、とサラに聞いた。


 神殿に当たり前のように向かうアレシアの姿を見ながら、カイルは、アレシアはどこにいても、アレシアなのだな、と思った。

 それは簡単なようで、決してそんなことはない。


 ひるがえって、カイルが自分自身を振り返ると、自分らしくいたなんてこと、考えてみても今までなかった気がするのだ。


「あれなぁに?」「あれは?」と自分の興味の赴くままに、何度も繰り返し尋ねた、幼い頃のアレシア。アレシアはあれから全く変わっていない。

 それが嬉しくて、羨ましくて。そして、苦しいのだ。


「もし、アレシアに何かあったら」

 カイルはつぶやいた。


 アレシアを大切に思ったら、アレシアを失う。

 それはカイルの確信だった。


 なぜなら、今まで、カイルが大切に思った人々は、ことごとく突然この世を去ったから。

 自分は愛する者を守れるくらい、強くなったのか?

 カイルが心の中で何度も繰り返し問いかけたその答えを、カイルはまだ知らない。


 皇家の呪い。


 カイルはいつも心から追い払っている言葉が浮かぶのを認めた。

 そんなものがあるのかわからない。


 しかし、皇家に生まれた自分にはわかっている。少なくとも、父親である前皇帝は信じていた。

 皇帝の後継者、そして皇帝に関わる者は死ぬ。


(アレシアに真相を話し、2人で協力することができるかもしれない)


 カイルの心にそんな淡い期待とも言える想いが生まれる。

 一方で、カイルの理性は、そんな都合がいいことを信じるな、アレシアを危険にさらしても良いのか、と問いかけるのだった。


 そんなある日、カイルが午後の時間を使って、アレシアの部屋を訪ねたのは、本当に思いつきからだった。


 この時間、アレシアは侍女2人を連れて、神殿から街へと出かけているはず。

 幸いにも、カイルにとっては小うるさいエドアルドは別な用件でカイルの元を離れている。2時間ほどは戻って来ないはずだった。


 カイルはアレシアがいない間に、彼女の部屋を訪ね、こっそりその暮らしぶりを覗こうと思ったのだ。


 淑女しゅくじょに対して失礼なのは承知の上。しかし、カイルはアレシアの暮らしぶりが気になっていた。


 何か不自由をしていないだろうか?

 困っていることはないだろうか?


 アレシアに会って、直接聞けばいいものを、カイルはアレシアに会うのを避けているために、この行動に出たのだった。


 しかし、カイルがアレシアの部屋に入ると、そこには驚きに目を丸くしたアレシアの侍女、ネティが立っていた。


「皇帝陛下!?」


 こうなっては仕方ない。

 やはり悪いことはできないな、とカイルは内心ため息をついて、ネティと向き合った。


「……突然ですまない。ア、アレシアは不在だろうか?」


「は、はい。アレシア様は神殿から直接、図書館へ行かれました。サラさんが一緒にいます。わたしは……アレシア様が気を使われて、退屈するだろうから、先に宮殿に戻るようにと」


「そうか」


 カイルとネティは無言で見つめあった。

 とは言っても、ネティは小柄で、顔を上に向けないと、カイルと目を合わせることはできない。


「その……アレシアにはすぐ会えず、申し訳ないと思っている。どうもあれこれ忙しなくて……いや、近いうちに、もちろん顔合わせをしたいと。それで、その前に、その……帝国に来られてもう1ヶ月にはなるが、何か不自由をされていたり、困ったことはないかと……」


 そう言いながらも、苦しい言い訳に、カイルは自分でも声がだんだん小さくなっていくのがわかる。


 ネティは小柄だし、やさしげで、控えめな様子だ。ネティからの圧があるわけではないのだが、皇帝を前にしても、視線を下げることもなく、堂々としている。


 あのアレシアの侍女らしいな、とカイルは思う。茶色い髪に茶色い目をした、まるで小動物のような女性に見えたが、実際は芯のしっかりとした人物のようだった。

 とはいえ、ネティは、カイルの言い訳をその言葉通りに受け取ったらしかった。


 つまり、皇帝としてあまりに多忙なため、落ち着いてアレシアに会う時間がない。それでも、遠路はるばる嫁いできたアレシアを気遣って、突然時間ができた今、何はともあれ、様子を見に部屋まで来てくれたのだ、と。


「皇帝陛下にはアレシア様へのお気遣い、心より感謝申し上げます。同時に、あいにくアレシア様が不在で、大変申し訳ございませんでした。わたしはアレシア様の侍女のネティと申します」


 ネティは深々と頭を垂れた。


 やがて顔を上げると、カイルを客間にある長椅子へと案内し、熱いお茶を入れてきた。

 優雅な仕草で茶碗をテーブルに載せると、自分は脇に控えた。


「ネティ。少しアレシアの話をしてくれないか。君も座ってくれ」


 ネティは一礼すると、カイルの前にある、1人がけの椅子に腰を下ろした。


「アレシアはお元気で過ごされているか? 部屋はどうだ? 不自由されていることなどはないだろうか?」


「アレシア様はお元気でいらっしゃいます。毎日、朝から昼頃までは神殿に行かれます。午後は図書館、孤児院、治療院、市場などに行かれることが多いです。お部屋につきましては、必要なものは揃っておりますし、アレシア様も気に入られて、気持ちよくお過ごしかと存じます。アレシア様はよく、帝国でよくしてくださっていると、感謝のお気持ちを述べられています。エドアルド様も1日に1回は、アレシア様の様子を見に立ち寄ってくださっていますし」


「そうか……。不自由がないならよかった。今後、もし何かあればすぐ言ってくれ。必要なものはすぐ手配する。エドアルドか、サラに言ってくれればいいから」

「ありがとうございます」


 沈黙が落ちた。

 カイルは、ではこの辺りで、と思い、立ち上がろうとした時だった。

 ネティが柔らかな表情で話し始めた。


「姫巫女であるアレシア様が、街中に気軽に出られるので、ご心配をおかけしているのではないでしょうか?」


「最初は驚いたが。こちらも護衛の騎士は付けている。アレシアが行きたい所は、好きに行かせてやりたいと思っている」


「アレシア様は……元々、好奇心が強く、そしてとても行動力がおありなのです。お小さい頃から、全く変わっていないのですわ。アレシア様が銀色の髪で生まれたことで、お小さいうちから、将来は神殿の姫巫女となることが決定しました。神殿の巫女は祈りと奉仕の生活を送ります。姫巫女になれば、アレシア様は基本、神殿の中が唯一の世界となるはずでした。一方、兄上であるクルス様は、アレシア様をとても大切にされていて、1人の女性として、少しでも普通の暮らしを体験できるように、と気を配ってこられました。なので、アレシア様が街の中を自由に歩き回ることも、容認されたのです。色々な人と触れ合い、さまざまな物事を見ることができるようにと。アレシア様のアレシア様らしさを殺すことのないように、と。きっと……」


 ネティはそこで言葉を切り、じっと皇帝を見上げた。


「きっと、皇帝陛下もアレシア様のことをよく知るようになれば、きっとその気持ちがわかるはずですわ。アレシア様の自由闊達さを、物事に捉われない発想を……アレシア様は、とても魅力的な方なのです。そんなアレシア様らしさを大切にして差し上げたいと、周りの者は自然に思うようになるのですわ」


 まさにネティ本人がそう思っていることはカイルにもすぐわかった。

 ネティのような誠実な人間が大切にするアレシア。

 皇帝は何か物思いに沈むようにして、アレシアの部屋を出た。

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