第10話 エレオラの死

「エドアルド!」


 カイルは執務室しつむしつの扉を開けると、続きの部屋で書類仕事をしている青年に声をかけた。

 年頃はカイルと同じくらい、茶色の髪と瞳をした、穏やかで親しみやすそうな雰囲気の青年だ。


「カイル様、何か?」


 カイルはうなづいた。

「神殿に行く。お前もついて来い」


 足早に歩いていくカイルに遅れないように、エドアルドは急いで立ち上がり、後に続いた。


 宮殿から女神神殿分院には、敷地内の通路を使って歩いて行くことができた。この神殿では、皇家の儀式なども行われるからだ。


 もちろん、一般の参拝者は、正規の門を通って神殿に入り、宮殿の敷地に入ることはできない。


 紺色のチュニックを着て、剣を腰から下げた黒髪の青年と、黒のチュニックを着て、同じく剣を下げた茶色い髪の青年。


 2人は兄弟のようにも、友人同士のようにも見えたが、実際はランス帝国皇帝と、その補佐官兼護衛官だった。


 とはいえ、兄弟に見えるのもあながち間違いでもない。エドアルドはカイルの乳母の息子で、2人は乳兄弟だったからだ。


「エレオラ様は……この神殿をとても大切にされていた」

 カイルは白い石造りの神殿を歩きながら呟いた。


 この石はリオベルデ王国の緑の谷から、わざわざ運ばれてきたライムストーンで、本家である女神神殿と同じ石材で建てられている。


 カイルは実際にリオベルデに行ったことはないが、先皇帝の皇后であったエレオラから、話を聞いていた。


『まあカイル、よく来たわね。また背が高くなって。元気だった? 何か困っていることはないかしら? エディ、あなたもこちらへいらっしゃい。いつもカイルに付いていてくれて、本当にありがとうね』


 宮殿の隣にある女神神殿分院で、エレオラは楽しそうに働いていた。

 エレオラは皇后、そしてリオベルデの王女であり、神殿の巫女も務める。

 宮殿から離れ、乳母に預けられていたカイルがエレオラに会った回数はけして多くはない。


 カイルは子供ながらに、失礼になってはいけないと、いつも礼を失わないように気を回すのだが、緊張しながら挨拶あいさつをすると、気さくなエレオラはにこにこと笑いながら、カイルをぎゅっと抱きしめるのだった。


 明るい金色の髪と明るい青の瞳をしたエレオラは、人をきつける美しさを持った女性だった。


 リオベルデから帝国に嫁いだエレオラだったが、その人柄もあり、多くの人に愛されていた。


 巫女として神殿でも多くの仕事を務める一方、参拝する人々と共に祈り、子供達に祈りを教え、神話の読み聞かせをしたりしていた。


 カイルの父である、先代皇帝も、エレオラを愛し、大切にしていた、とカイルは思う。

 ただ……エレオラに子供はできなかった。


 皇帝として、世継ぎがいないことは許されなかった。カイルの父は側室を迎え、カイルを含め5人の子供を持ったが、すべて母親が違う。


 カイルは成長して後に、父がたとえ側室であっても、自分が誰か1人に思い入れることがないように、とあえて複数の女性を迎えたことを知った。


 それは父なりの、妻への思いやりであったのかもしれない。

 もちろん、当時のカイルにそんな大人の事情はわからない。


 しかし、エレオラが、カイルを含め、側室の子供達全員をまるで自分の子供のようにして接してくれたのを、今もはっきりと覚えている。


 カイルは神殿の中で立ち尽くしていた。

 なぜか神殿に来たかった。こうしていると、明るい金色の髪をしたエレオラが、柱の向こうからやってくるような、そんな気持ちがしていた。


「エディ、エレオラ様は……帝国に来て、幸せだっただろうか?」


 カイルは子供の頃に呼んでいたように、幼馴染であり、乳兄弟であるエドアルドに呼びかけた。


「あの方は、私のことも、他の兄弟達のことも、まるで自分の子供のように接してくれた。ご自身はたしかにお子はいなかったが、皇后だったというのに……おごたかぶることなく、やさしい方だった」


 エドアルドもやさしい表情になって、うなづいた。


「ええ。あの方は私にもとてもよくしてくださいましたよ。農園にも何度かいらっしゃいましたね。陛下がお小さかったアレシア様と初めてお会いしたのも、農園ではなかったでしたか?」


 カイルもうなづいた。


 農園、というのはエドアルドの実家のことで、エドアルドの母であり、カイルの乳母が今も暮らしている。


 農園という呼び名の通り、帝都の外れにあり、広々とした畑と牧場を持っている。

 カイルは生まれてからまもなくして生母と引き離され、エドアルドの母に預けられたのだった。


「そうだ。あの方はよく、緑の谷の話をしてくれていた。それに、ご自身の話も。あの方は第1王女だが、第2王女であり、銀の髪を持つ姫巫女エリンという妹がいると。そしてエリン様には可愛らしい男の子と女の子がいるのだと」


 エレオラは若々しく、お姉さん、といった温かさを感じる女性だった。彼女はよく、緑の谷の話をしてくれた。


『緑の谷から世界が始まった、と言われているのよ』


 エレオラの話は、いつもそんな言葉から始まった。


 緑の川の流れ。多くの木々に包まれた、静かな緑の谷、そこに築かれた、美しいライムストーンの神殿。

 それはまるで別世界の物語のようだった。


 そしてエレオラは大切にしている自分の家族についても教えてくれた。


 まるで伝説の女神のような、銀色の髪の美しい容姿をしているのに、とても気さくで元気で、行動的な妹のエリン。

 そのエリンが産んだ、2人の美しい子供達。


『その女の子はね、アレシアという名前で、本当にかわいい子なのよ』

 そう言った時の穏やかで、幸せそうな様子が忘れられない。


 アレシアを産んで1年後、エリンが亡くなった、そう語った時のエレオラの悲しげな様子は痛々しいほどだった。

 そして遺されたアレシアへの想いは強くなっていく。


 カイルは思うのだ。愛する土地を離れ、帝国に嫁ぎ、自身の子供を持つことなく若くしてこの世を去ったエレオラは、果たして幸せだったのか、と。


 先代の皇帝の子供達は5人。カイルは一番下の子供だった。


 生母は出産後数年して亡くなったものの、乳母に預けられていたカイルは、秘密裏に自然豊かな農園で、のびのびと暮らしていた。


 しかし、何か不吉なものが迫ってくるかのように、宮殿で暮らしていたカイルの兄弟達は1人、また1人とこの世界を去っていく。


 そしてすべての兄弟がいなくなった時、未来が大きく変わる出来事が起こった。


 エレオラが幼い3歳のアレシアを連れてきたのは、カイルが7歳の時だった。


「あれなぁに?」

「あれは、ひつじ」

「あれは?」

「あれは、アヒル」

「おかしな声」


 実際に会ったアレシアはカイルの言葉にきゃっきゃと笑う天真爛漫てんしんらんまんな、まるで天使のような幼女だった。


 秘密裏ひみつりに進んだ顔合わせの後、エレオラはカイルとの婚約を整えた。


「アレシアは緑の谷で成長するわ。あなたに嫁ぐその時まで。どうぞ、アレシアを大切にしてあげてちょうだい」


 エレオラはカイルの手を取って、しっかりと握りしめた。


「あの子の兄はクルスという名前よ。リオベルデにいる間は、大切に守ってくれるはず。あの子の母は、アレシアを産んで1年で亡くなったから。兄妹はお互いに支え合いながらやってきたの」


 エレオラは、このことはすでに皇帝とリオベルデ国王と話し合って決めた、と言った。


「アレシアはあなたの婚約者よ、カイル。アレシアが帝国に来たら、それからはあなたがアレシアを守るの。約束して」


 カイルは、エレオラのその真剣な目に、ただうなづくしかできなかった。

 エレオラはカイルを、労るように言った。


「カイル、あなたには、姫巫女であるあの子が必要になるわ」


 それから1年後、エレオラもまた、亡くなってしまった。


 カイルは衝撃のあまり、目を見開き、言葉を失った。

 カイルは8歳。まだまだ子供だった。それでも、カイルは多くのことを理解したのだ。


 皇后が亡くなり、側室達も残った者は1人もいない。宮殿で暮らしていた皇帝の子供は全員亡くなった。


 皇帝の子供は唯一、カイルのみであり、もし皇帝が亡くなりでもしたら、カイルはただ1人の後継者となるかもしれない。

 もしその時まで自分が生きていたら。


 誰かが皇帝の家族を邪魔じゃまに思い、1人1人排除している。

 遅かれ早かれ、自分の存在が知られたら、自分自身もその対象となるのだ。


 その時以来、明るかったカイルの瞳から、いきいきとした光が失われた。

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