回想④ 長女ウールギアの実像

 ずっと、平穏な日常を求めて、誰かの期待に応えるために生きていた。

 期待に応えて平穏な日常が手に入るなら、自分の身体など惜しくないと考えていた。

 それでも僕は、皆の期待に応えることができなかった。


「□□、今日の分の課題はもう終わらせたの?」

「ううん。でも、少ししたらすぐ終わらせるから」


 日本に生まれた前世の僕の母親は教育熱心な人で、いわゆる教育ママというやつだった。

 物心ついたときには学習塾に当然のように通わされていて、中学受験も決まっていたのを覚えている。

 そこに僕の意思が介在する余地はなかった。

 まだ幼かった僕は、母の言うことを反抗せずに聞き入れていた。


 幸いだったのは、僕に人並み以上の才能があったことだ。

 勉強は好きではなかったが、嫌いというほどでもなかったので、僕は母の期待に応えるため懸命に勉強をした。

 自由に遊んでいる友達たちのことは羨ましかったが、中学受験が終わるまでの辛抱だと思えば、この程度の苦痛は我慢することができたのだ。

 

 そうして無事志望校に合格した僕は、もう自由になれると思っていたのだが……母の期待はとどまることを知らない。

 中学校に入学したことで部活動の時間が増え、勉強の難易度が上がったのにも関わらず、母は変わらない成績を僕に求めてくる。

 どうやら、僕が中学受験に成功したことで、母は自分の教育方針に自信をつけたようだった。


 中学生にもなれば、同級生のほとんどはスマホやゲーム機を持っている。

 そんな中で、自分だけ何の娯楽も無しに勉強に取り組むのはかなり厳しい。

 だから、僕はこの頃から少しずつ母に反抗するようになった。

 

 具体的には、時々課題をサボるようになったり。

 図書室で漫画やラノベを借りてきたり。

 黙って友達の家に遊びに行ったりといった感じだ。

 

 反抗とは言ったが、振り返ってみると中学生としては割と普通の行動のように思える。

 しかし、母はそんな些細な反抗さえも許してはくれなかった。


「□□! どういうつもりなの!? 家に帰ってくるのも遅いし、漫画なんて読んでる暇があったら勉強しないとダメでしょ!」

「……ずっと勉強だけするなんておかしいよ。僕にだってやりたいことがあるのに」

「そんなこと言って、この前のテストも成績落ちたままだったじゃない!」

「どの教科もクラスで五位以内には入ってるじゃん。何が不満なの? 小学校の簡単なテストじゃないんだから、百点を取り続けるのは無理だよ」


 そう言うと、母は顔を真っ赤にしてでずかずかと歩き、僕の借りてきた漫画をゴミ箱に捨て始めた。

 僕が慌てて制止しようとしても、母はそれを振り払ってしまう。

 

「何してるの!? これ全部学校の本なのに!」

「□□のためを思ってやってるのよ。あんたが成績を元に戻せるように、害になるものを捨ててあげてるの! 小学生のときはできたんだから、これで同じように勉強できるでしょう?」


 僕に向かってそう語りかける母は、目が据わっていてどこか狂気的だった。


 意外に思われるかもしれないが、普段の母は勉強に厳しいことを除けば至って普通の母親なのだ。

 食事は用意してくれるし、洗濯や掃除もするし、学校で必要なものはちゃんと用意してくれる。

 僕のことを叱ることはあっても、暴力的なことは決してしない人だったはずだ。


 ところが、この時の母は違った。

 借り物の本を捨てるだなんてことをして、越えてはいけない一線を越えている。

 狂気が目覚め始めてしまったのだ。

 

 この事件以降、母は気に入らないことがあると金切り声を上げたり、家具にぶつかったり、物を投げたり捨てたりして暴れることが増えた。

 つまり、母は僕が理想通りにならないと、正気を失って見境なしに暴れ始めるというわけだ。


 今思い返すとどうしようもない母親だが、僕にとって母は唯一大事な家族だった。

 父親は家庭に興味がない人間で、僕と顔を合わせたことすらほとんどなかったからだ。

 どんなに歪んでいたとしても、家族として無償の愛を与えてくれる人間は、僕には母しかいない。

 

 だから、僕は平穏な日々を守るために、エスカレートしていく母の期待に応え続けた。

 高校受験でも、大学受験でも、仕事でも、常にトップ層になれるように努力し続けた。

 だが……僕と本物の天才たちとの間には、想像以上に高い壁があった。

 不幸なことに、僕には人並み以上の才能しかなかったのだ。


 高校受験では、ギリギリで志望していた進学校に合格した。

 大学受験では、国立大学の医学部を目指していたが、失敗して滑り止めの私立大学の薬学部に入学した。


 滑り止めで入学したとはいえ、薬学部での勉強は厳しいもので、ここでも僕は中々思い通りの成績をとることができない。

 そうして理想像から遠のいていく僕の姿を見て、母はますます荒れていった。

 直接暴力を振るわれることこそなかったが、物を投げつけられたり、食事を抜かれたりなんてことはしょっちゅうだ。


 それでも、僕は諦めることを知らなかった。

 僕が母の理想の姿に近づければ、平穏な日々が帰ってくると信じていた。

 勉学だけにかまけていた僕は、世の中の残酷さや人間の醜さについて無知で、ある意味愚かであった。


 愚かな僕は努力を続けた。

 大学では上手くいかなかったが、社会で成功すれば母が元に戻るのではないかと考えていたからだ。

 

 馬鹿げた考えだった。

 大学ですら苦労した僕のような人間が、いきなり社会で通用するわけがないのだ。

 就活で何十社も受けて、とある製薬会社の研究職に就いた僕は、不慣れな仕事について行くため、母に認められるために必死で働いて……ある日、あっさりと過労で死んでしまった。


 自分では気が付いていなかったが、僕はもうボロボロだった。

 その心に安らぎはなく、その身体に休息もなく、進み続けた結果の妥当な末路だ。


 そんな前世であったから、転生に気づいた三歳頃の私は、ひどく複雑な気持ちだった。

 新しい生を受けたことは喜ばしいことなのかもしれないが、私にとって人生というのは苦痛にまみれたものになってしまっていて、また苦痛が繰り返されるのかと思うとやるせない気持ちしか湧いてこない。

 報われなかった努力の徒労感だけが、私の心に残っていた。


 ところが、そんな私の心情とは裏腹に、段々と私の心は満たされることになった。

 父と母は、当たり前のように私のことを愛してくれるし。

 妹たちは、ほんのちょっと世話を焼くだけで私のことを慕ってくれる。

 

 ずっと求めていた平穏な日常が、何の努力をせずともそこにあった。

 五歳頃まではこれが現実だと信じられなくて、周囲のことをまだ疑っていた。

 七歳頃になって、これが本当に現実なんだと信じられて、私は誰も見ていない場所で人知れず泣いた。


 ……ずっと、期待に応えることができない人生を送ってきた。

 上辺だけは立派だったが、前世はもちろんのこと、今世でも両親を守ることができずに妹たちの期待を裏切ってしまった。


 だから次こそは、この身に余る幸福を与えられた代わりに、絶対に期待に応えないといけない。

 三度目の正直だ。

 今度こそ、私がみんなの平穏な日常を、命を懸けてでも取り戻すのだ。

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