ネズミくんの恋
「モルモットって知ってます? えぇ、そうです。実験なんかによく使われるあの。恥ずかしながら僕、最近までモルモットをウサギだと思ってたんですよねぇ」
浅学なもので、と彼はケラケラと笑った。
丁寧な口調とは裏腹に所作や容姿は所謂遊び人、多くの女性を相手にしてきたのだろうという印象を受ける。薄い灰色の髪とクリっとした黒い瞳、非常に整った容姿をしている背の低い可愛らしい男性だ。人懐っこい笑みを向けられれば、そのような間柄になくともこの場のお茶代くらいはうっかり出してしまいそうだった。
「えぇ、それでモルモットがどうしたの?」
「知り合いの家のモルモットが、一匹逃げてしまったそうなんです。良ければ探すの手伝ってくれません?」
「なに、研究者の知り合いがいるの?」
「ははは、確かに先程実験動物と言いましたが。違いますよ、趣味でモルモットを飼っている知人です。なんでもケージを開けっ放しにしてうたた寝してたらその隙に逃げてしまったとか」
「ふーん、大変そうね」
興味なさげにアイスコーヒーのストローをクルクルと回して、一口含む。それほど多忙でもないし、彼のことが嫌いなわけではない。だから手伝ってやらない理由はないのだが、いつも飄々とした態度の彼にほんの少し意地悪をしてみたくなったのだ。
「……あまり、興味がないですか?」
「まあそうね。モルモットは寂しがり屋って言うし、そのうち戻ってくるんじゃない?」
「でも、あんな小さな生物がたった一匹で外に出たら危ないと思いません?」
「そうねぇ……」
でも、それが自然の摂理じゃない?と、言いかけて、やめた。彼への意地悪を優先してモルモットの命を軽んじてしまうところだった。
ふと、彼の方を見ればその大きな瞳を少し細めてこちらを見ている。その表情は、まるで私が意地悪をしていることを見透かしているようだった。
「ね、一緒に探しませんか?」
「はあ、わかった。わかったから。で、どこを探すの?」
「良かった、ありがとうございます。ではとりあえず知人の家の周りを探しましょう。案内しますね」
つい伝票に手を伸ばせば、先に彼が拾い上げたのが目に入る。
では行きましょうか。と、レジに向かいながら彼は私に微笑みかけた。
◆
その家はそれほど遠くない場所にあった。
車で凡そ20分。やけに上機嫌そうな彼の話を聞いていればあっという間に着いてしまった。
閑静な住宅地にある立派な邸宅だった。白く塗られた壁の近くにはガレージがあり、「許可はもらってるので」と、その中に入車させていく。
「ではこの周囲を探して回りましょうか。いなくなったのは昼過ぎらしいので、まだ3時間ほどしか経っていません。ネズミの足です、きっと近くにいると思いますよ」
「じゃあ私はあっち行くから、あなたは向こうの方探してくれる?」
「いえ、一緒に行きましょう」
「……え?なんで?」
「小さなネズミですから、一人では見落としてしまうかもしれないでしょう? ですから、一緒に行った方が確実かと」
ね?と、私とあまり変わらない高さで瞳をじっと見つめられる。
彼と何度か話してきて、私はこれにめっぽう弱いことを少しずつ自覚してきている。どうにも可愛らしく思えてしまう。後輩や弟を可愛がる時と同様に。
「……確かにね。なら、早く行きましょ。一緒に探すなら時間もかかると思うから」
「はい、早速探しましょう」
そうして迷子のモルモット探しが始まった。
◆
それから、私たちは2時間ほど街を練り歩いた。
成果として得たのは、彼は本当に会話が上手だということだけだ。話のネタも尽きないし、かと言って自分の話ばかりせず私の話にも耳をすませてくれる。話上手であり、聞き上手だった。
やがて日も暮れてきて、住宅地の広い道路が夕焼け色に染まる。ネズミどころか、猫の一匹も見かけなかった。本当に人間のための場所らしい。
「疲れたでしょう。一度休みませんか? 知人の家に入っても良いと許可をもらっているので」
「そうね、なら少しお邪魔するわ」
特段疲れていたわけでもなかったが、2時間も歩けば流石に休んだ方がいいだろうという判断で、彼の提案を受け入れる。
少し休んだら今日は家に帰ろう。モルモットのことは可哀想だが、流石に夜の時間まで見ず知らずの人のペットに割くわけにはいかない。
そう考えながら私は彼と共にその飼い主の家へと向かった。
◆
外から見た印象とまるで変わらない、モデルハウスのような内装だった。
全体的にモノトーンでまとめられ、黒いカバーの掛けられたソファやダークブラウンのテレビ台が部屋の清潔な様相に非常にマッチしている。床には自働掃除ロボットが本日の仕事を終えホームベースに控えており、この家の持ち主の懐の余裕が伺える。
「広い家ね。確かに動物なんていくらでも飼えちゃいそう」
「ええ、本当に。立派な家ですよね」
「飼い主はいつ帰って来るの? モルモット探しにはいなかったようだけど」
「ペットが逃げたのが発覚したあと、急用ができてしまったようで。それで僕に連絡してきたんです」
「なるほど。きっと今頃気が気じゃないでしょうね」
そう言いながら、彼が引いてくれたダイニングチェアに腰をかける。
リビングの方を改めて見渡せば、家具や家電製品は一通り揃っているが装飾品の類はまるでないことに気がつく。この家の持ち主はミニマリストなのだろうかと疑問に思いながら、不躾にも観察を続けていると一つの違和感に気がついた。
モルモットが、いないのだ。複数匹飼っているというモルモットが1匹も見当たらない。もちろん他の部屋で飼っている可能性も十分あるが、まずこの家自体に動物飼い特有の獣の匂いがしない。金持ちの家ならば消臭に精を出しているのかもしれないが、それにしたって不自然過ぎる。飼育用品もペットの写真も、モルモットモチーフの置物すら目に入らないのだから。
「……ねえ、この人。一体どこでモルモットを飼っているの?」
「というと?」
「だって動物の気配がしないから。別室にいるとしても少し不思議で」
「ああ、本当に。勘が鋭くて賢いですね。僕好みです」
急に何を言って__、そう言葉を掛けようとした時、彼がこちらに詰め寄ってきていることに気付いた。私と同じくらいだったはずの彼との身長差は、椅子に座してしまっているこの状況のせいで多分に開いてしまっている。
「ねえ、実験動物と愛玩動物の違いってなんだと思いますか?」
「……え?」
「不思議ですよね。モルモットは実験動物として広く知られているのに、ペットとしても愛されているんです」
「なにを、言って」
「ずっとずっと寂しいんです。治験でたくさんのお金が手に入っても、心が満足しなくて。研究者さんは薬の副作用による精神不安定だって言ってましたけど、だからと言って『はいそうですか』とはならないですよね」
「は、離して……!」
「ねえ、僕、あなたのことも好きです。一緒に暮らしませんか。大切にします、ちゃんとお世話もします。ね、お願いですから」
ただ一人ぽつぽつと語る彼に対し否定の言葉を吐く前に、手首を掴んでいた彼の手が、口元へ伸びてくる。
そうして不快な薬の匂いが鼻腔を通るのとほぼ同時に、意識を失った。
◆
目を開いても闇に包まれた視界の中、どこかに寝かされている。自由に動くことは出来るが、この闇の中何をしても無駄だということはここでの生活を過ごすうちに理解していた。
隣からは愛の言葉を囁く彼の声と、それに応えるように甲高く鳴く女の声、肉を打ち付ける音が響いている。
それを聞いて、ただ思う。
ああ、私たちは彼にとってのモルモットになったのだと。
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