亜寒帯のピロシキ
冬葉ミト
亜寒帯のピロシキ
いや参った参った。まさかこんな時間まで残るハメになるとは。
君に手伝わせて申し訳ない。元といえば私のミスでこうなったのにな。全く、社会学とは本当に難解なものだ。まぁ自ら進んで大学の社会学部に入ったのだから今更だが。
君もわざわざ手を貸そうなんて、お人好しは相変わらず変わらないな。今夜はご馳走しなければならないな。焼肉、寿司、ラーメン、何でもどうぞ。
ん? 私が食べたいものを食べたい? どこまで君は他人行儀なんだ。偶には素直になれ、互いに気の許せる仲なんだから少しは甘えてくれよ。
全く……まぁそういうところが君の美点なんだがな。
そうなると……そうだ、君はピロシキは好きかい?
好き? そうか、なら結構。
私はピロシキが大好きでね。君も知ってるだろう、私が約1年半ロシアに滞在していたのを。いつも考えてるんだ、エレーナという銀髪の美しい少女が作るピロシキのことをね。
ん? その顔は納得いかないとでも言いたげな表情だね。まぁそれもそうか。毎日資本主義どうこう社会主義どうこうしか言わない私が、突然女の話をしても違和感しかないだろうね。
失礼なこった。私にだって恋心のようなものの1つや2つ持ち合わせているぞ。私はサイボーグではない。れっきとした人間だ。針でつつけば血が出る。
そんなに納得しないなら店までの道中、少し話をしよう。
私がロシアに滞在していたのは知ってることだろう。何故滞在しようと思ったのかは分からない。ただの興味本位だったのかもな。勿論、有意義な時間だった。
たった1年半だけだが、随分と多くのものを学んだよ。楽しいも苦しいも、美味いも不味いも、寒いも温かいも、明るいも暗いも。
その中で一番印象に残ってるのが、さっきも名前を挙げたエレーナという少女さ。
長いストレートの銀髪に、少し吊り上がった碧眼がチャーミングポイントな、
母が自営業を営んでいて、エレーナは一人娘だった。実に活発な子だったよ。店も手伝っていて一緒に働いた。
年は私より2つ下なだけなのに、まるで小学生のように好奇心旺盛で日本のことをいつも聞いてくるんだ。私が日本という国をエレーナに教えてるうちに、彼女の夢は日本でロシア料理の店を出すことになっていた。
私もエレーナの家族もそれを歓迎した。事実、エレーナの料理は絶品なんだ。どんな不幸で理不尽な目に逢おうと、エレーナの料理を考えればそんなのは関係無くなる。特にピロシキが得意で、煮込んだ鹿肉とキノコを包むのが、いつものエレーナのピロシキだった。
私はエレーナに日本語を教えた。
エレーナは私にロシア語を教えてくれた。
私はエレーナに日本の文化を教えた。
エレーナは私にロシアの文化を教えてくれた。
私はエレーナに日本料理を教えた。
エレーナは私にロシア料理を教えてくれた。
とまぁこんな風に、それぞれの夢を叶える為にそれぞれの知識を共有したりもした。私とエレーナは互いに良い影響を与え合っていた。
時には2人っきりで街に出掛けたりもしたさ。丘の上でロシアの澄んだ星空を見上げたこともあったな。
エレーナと過ごす時間が積み重なるにつれて、生活の中で常にエレーナを意識するようになった。傍にエレーナがいなくても、ふとした瞬間にエレーナの姿が脳裏にちらつくんだ。
これが恋なのだとこの時知ったよ。後に知ったが、彼女もまた、私のことを意中の相手として意識していたらしい。
このままロシアに永遠に残りたいと思ったが、1年ちょっとが過ぎようとした頃、不幸の悪魔は突然私達に笑いかけた。
エレーナの父が交通事故で亡くなったのだ。
エレーナは父を深く愛していた。私も彼女の父に大変お世話になっていたからその悲しみは相当に深かった。その日は悲しみに暮れて、誰も声を交わすことは無かった。
エレーナの母は娘を女手1人で育てなければならなくなった。祖父母はとうの昔に亡くなったそうだ。
夫が亡くなったことで収入が減って私に給料を払えなくなり、更に私のビザの期限も迫っていた。
私はロシアを離れなければならなかった。エレーナも自分の夢を諦めかけていた。
どうしようもなかった。何をどう憎んでも、憤っても、悲しんでも、何にもならなかった。
ロシア滞在最後の日の夜、エレーナは私の部屋に来て泣きついてきた。
決して愚痴を口にしなかった彼女が初めて私に愚痴を吐いた。私はただそれを聞いているしかなかった。
過ぎてしまったことはどうにもならないと互いに分かっていた。しかし、やるせない気持ちは吐き出さないといつか決壊してしまう。聞いているだけでも正解だったと私は思っている。
エレーナは泣き止むと無言のまま部屋を出た。自分の部屋に戻って寝たのかと思ったが、暫くしてピロシキを並べた皿と2本のフォークを持って戻ってきた。
エレーナが何を言わんとしているかは理解できた。2人でいつものピロシキをつっつきながら他愛もない話を真夜中までした。本当に何の気も無い、普通の話だよ。
普段と変わらない会話をして普段と変わらないピロシキを食べる。何も特別な要素は無い。だがあの時間は特別に感じた。
「
翌朝、ついにロシアを離れる時が来た。エレーナの母が私を空港まで送ってくれた。勿論、エレーナも見送りに着いてきた。
搭乗口へ向かう前、エレーナは一言、「さようなら」と流暢な日本語で私に別れを告げた。
私は、「
エレーナがどんな表情をしていたかは分からない。私は搭乗口に向かってから後ろを振り向くことはなかった。振り向いたらきっと、法を犯してまでその地にいようとするから。
帰国してから私は必死に働いて、貯金の4分の1をロシアへ送った。
微々たる額だが、エレーナ達が少しでも楽に生活できるように、エレーナが夢を叶えられるようにと思い送った。
お節介なことだろう。しかし差し止めの連絡は来なかった。多分受け取ってくれてたのだろう。
そうして日本に帰国してから2年が経ったある日、ロシアから手紙が届いた。差出人はエレーナからだった。
「近いうちに日本へ行くことになりました。また会えるのを楽しみにしてます」
綺麗な日本語でそう書かれていた。
私は嬉しかった。歓喜で飛び跳ねた。そして下の階の住民から苦情を受けた。
惚気話をして済まないね。さぁ、ここが私のお気に入りのロシア料理専門店さ。
ここのピロシキは最高さ、実に
さぁ、銀髪碧眼の麗しき乙女のピロシキを頂こうじゃないか。
亜寒帯のピロシキ 冬葉ミト @Fuyuha_Mito
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