【case.2 狐ヶ咲甘色】

序章ー①



「今夜の月は、雲のかげか……」

 満月のはずなのにその姿は見えず、暗い夜空が広がっていた。

 僕はトンッと傾斜けいしゃしているお寺の屋根に飛び移る。夕暮れ時に降っていた雨の名残なごりか、れた土や草木のかおりを含んだ夜風が流れてくる。

 街からはなれた山の中腹の寺院は門がざされ、僕のほかにうろつく人の姿はない。灯籠とうろう灯火ともしびが、静かにらいでいた。

 耳をましてみたけれど、鳥やけものも息をひそめているようで、風にそよぐ木々の葉の音が聞こえてくるだけだった。

「ここで、少し待たせてもらうとしようか……」

 辺りを見回し、スカートにしわがよらないよう気をつけながら屋根やねがわらに腰を下ろす。

 僕が着ている制服はセーラー服で、着物のようなそでになっている。顔をおおうのは狐の面。背に負うのは、黒いさやに納まったひとりの刀だ。

 誰かがやってきたとしても、屋根の上まで見上げはしないだろう。まして、こうやみければ、僕の顔は見えるはずもない。

 少しくらいならこの狐の面を外してもかまわないだろうかと、少し迷ってから風に当たりたい心境で面のひもに手をばす。けれど、『たわけ!』とババ様の声が聞こえた気がしてビクッとした。

『我ら一族のおきてかろんじるとは何事か!』

 怒った狐の面をつけたババ様がすぐに想像できて、「はいっ、ごめんなさい!」とあわてて紐から手を離す。

(いけない、いけない。大事なお役目の最中に、気をゆるめるなんて言語道断……ババ様が知ったら、また未熟者と𠮟しかられてしまうじゃないか)

 僕は背筋をピンッと伸ばし、きちんとひざそろえて座り直す。

 ここで落ち合うはずの二人は、まだ来ていない。どうやら、僕が少しばかり早く到着とうちゃくしてしまったらしい。あせることはないだろう。

 待っているあいだ、つい鼻歌がれる。幼いころに聞いた覚えのある歌だった。


 夕日に染まる公園で、近所の子どもらが夏祭りのおどりの練習をしながら歌っていたのをふと思い出す。学校帰りに、度々たびたび見かける子らだった。

 それが楽しそうで、その輪に自分も加わってみたくて、一度だけ、勇気を出して声をかけてみたことがある。


『よければ、僕も仲間に入れてくれないかな?』

 おずおずと近寄ってたずねると、その子らは急に歌うのをやめて、蜘蛛くもの子を散らすようにワッとげ出してしまった。

『お化け狐が出た~っ!』

『逃げろ~!』

 そう、びっくりしたように――。


「お化け狐……か」

 あの頃からすでに狐の面をつけていたから、おびえさせてしまったのだろう。

 それは、今なら仕方のないことだとわかる。けれど、幼い頃の僕はなんだかひどく自分が情けなくて、ずかしくて、子どもらがいなくなった公園で一人泣いてしまった。

 自分はなぜ、他の子らとちがうのだろうと、心が痛くて――。


(もう、昔のことかな……)

 お堂を囲むように生えていた竹が、左右に揺れている。強まる風の音とにごった気配に、僕は余計な思考をち切って顔を上げた。

 なじみ深いとも言えるような冷え冷えとした感覚と、かすかに混じる臭気しゅうき

「やや、来たようだね……」

 僕は背に負った刀のつかに手をかけ、ゆっくりとこしかせる。

 辺りを浸蝕しんしょくするがごとくもやが広がり始めていた。それは闇と同化し、お堂を徐々じょじょに覆っていく。

 灯籠のあかりは風にき消されたのか、それとも靄にかくれてしまったのか。視界が閉ざされ、周囲から音も消えていた。

 僕はわずかな気配ものがさぬようにと、五感をぎ澄まして刀を構える。

 次の瞬間しゅんかんうめくような低い声が耳をかすめた。

 咄嗟とっさに飛び退いた直後、靄の中からスッと伸びてきたのは赤いころもの袖と細く白いうでだった。

はしれ! 白虎びゃっこのごとく!」

 大きく一歩前にみ込みながら、勢いよく鞘から刀を き放つ。

 けれどその一撃いちげきはかわされ、やいばかすめたのは衣の袖だけだ。

(思ったより、速い……っ!)

 足を踏みしめ、靄の中に消えた腕とその気配をさがす。

 心臓の音と自分の息づかいを感じながら、僕はかわくちびるを強く結び、切っ先を下に向けて構えた。

 うなるような声が、低く、足もとからい上がるように聞こえる。

 暗がりにボッとともったのは篝火かがりびのようなほのおだ。

 いや、炎ではない。怨念おんねんを宿した人魂ひとだま。揺らめくその人魂は勢いよく飛んできては、僕の腕やあしにまとわりつく。

 何度り捨てても、またすぐに別の人魂が現れるためきりがなかった。これらは、ただ引き寄せられ集まってきたものだろう。

「……いつまで、かくれんぼをしているつもりかな?」

 僕はそう言って、刃に手をすべらせる。指先ににじんだ血が刀の表面を伝い、ポタッと瓦屋根に落ちた。その血が紫色むらさきいろの炎に変わる。

く宿れ、千年の狐火きつねびよ」

 刀を軽くはらうように振ると、刃がその炎に覆われた。

 僕は跳躍ちょうやくすると、宙で体をクルッと回転させて炎を放つ。寄り集まりかたまりとなった人魂の炎が、紫色の炎の刃に打ち消されて霧散むさんした。

 着地した瞬間、首筋を冷気がでる。反射的に振り返ると、背後にせまっていたものが、かたらいつこうとしていた。刀の柄をたたき込んだ僕は、体の向きを変えて後ろに下がりつつ刀を構えた。

 靄にまぎれて隠れようとする〝それ〞は、赤い十二ひとえをまとった長いかみの女の人だった。

それも陶器とうきの人形のようで、人が持つ温かみをまるで感じない。

(あれが正体か……)

 手があせばんできて柄をにぎり直した。

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